ラフィエット

 さわやかな風が走ったような気がして、一瞬で視界から黒が消える。池も綺麗な水面を覗かせた。


 その先に、風に薄青紫の髪を遊ばせている、ラフィ。


「ラフィ!」


 僕よりも喜びを体で表現している連れを捕まえて、池の上を飛ぶ。

 ラフィは、少し困ったようにはにかんだあと、いつもの優しくも甘えん坊な笑みを浮かべた。落ち着いた印象を与える水色を基調としたドレスも、良く似合っている。


 本当にラフィが無事でよかった。まずは一安心だよ。


「久しぶり、ですね」


 ラフィが僕の方へ一歩動いた。

 後ろに、討ち捨てられたような、汚れたランチボックスが見える。中身は、見えない。


「そうだね。実際はそこまで長くはなかったかも知れないけど、随分と長く感じたよ」

「ふふ。暁さんもそう思ってくださっていたのなら、嬉しい限りです」


 飛行の方は時間的にはすぐだったはずなのに、やけに長く感じたけど。でも、花畑には着いたのだ。


 ラフィがいただけあって、周りと比べなくても一切被害がない。流石はラフィ。良いね。助かったよ。僕も、きっと街も。


「ラフィと会えない時間を長く思わないはずがないよ。ずっと、会いたかった」


 双刀をラーミナに返して。

 ラフィと向き合えば、彼女が胸に飛び込んできた。

 好い匂い。

 人もいないし、手を止める必要もないよね。


「ラフィ」

「はい」


 抱擁すべく手をラフィの背中に回すと、す、と熱が少しだけ離れた。

 疑問に思う暇もなく、唇からやわらかい感触が伝わってくる。ゆっくりとやわらかいものが動いて、合わせるように僕の唇も開いて。ここ一年で、すっかりと馴染んだ、落ち着くも興奮する瞬間。

 どちらからと言うこともなく、舌と舌が絡み合った。


『憎い』


 急に頭に声が響く。膝の力が抜ける。


『ずるい』


 崩れそうになる体が、背中に回された手であり得ない強さで固定された。


『みんなは好き勝手生きているのに』


 顔も、離せない。


『私ばっかり、犠牲を強いて』


 ただ膝は折れて、完全にラフィに乗っかられる形になった。


『私から暁さんまで奪って』


 どろり、と。『穢れ』が。流れ込んでくる。ずっと。ずっと。染め上げられるように。ラフィの口腔から、僕の口腔を伝って。体の中へ。


 嘘だ。予想はしていた。そんなことはあり得ない。街の現状を考えれば分かること。まだ変化はない。これだけはあってはいけなかった。これは、夢だ。勘違いだ。


 心が混乱する。

 力も入らない。


 内側から暴れまわり、肚から膨れ上がる憎悪と、口腔から与えらえる快楽。


 思考がぼやけ、現状が良く分からない。よくわからない。


 ただ、目があったラフィが、やさしくわらいかけてくれる。笑って、いっしゅんの息継ぎのまのあとにまたきょりがゼロになる。しかいがぼやけた。ひかりがなんとなくわかるけどラフィがいることしかわからない。あとはなにかあったっけ。『にくい』。『ずるい』。うれしい。たのしい。『いやだ』。だいすき。『きえろ』。『けした』。ずっといっしょ。『ずっといっしょ』。



 ずっと、一緒。



 急激に歯に力が入った。

 両手の指先が植物らしきものに触れていると脳が判断する。


 快楽と憎おがまたいしきをぬりつぶす。

 さい度、憎悪が祓われ、口に力が入った。噛み千切る気か。ラフィの、舌を。


「ああああ!」


 両腕に無理矢理力を入れて、ラフィを押して口を離した。

 がちん、と音が鳴る。歯が痛む。

 それでも血の味はなく。


「また、聖女ヴィーネですか?」

「ラフィ?」


 地下牢のような声に、疑問の解消を求めるよりも早くラフィの腕が何かを掴むように上下に動いた。


 像がブレる。


 降りた腕では、ラーミナが正面から鷲掴みにされていた。


 おかしい。あり得ない。

 足も動いていない。距離もあった。それなのに。

 この動きはあの発光体と同じだ。そんなこと、あり得ない。嘘だ。違う。見間違いだ。


 これは、夢だ。夢に違いない。


「聖女として生真面目で職務に忠実であった一面と、本人自身の愛らしい無邪気さ。お姉さんぶる可愛らしさと頼りになる懐の深さ。知ってますよ、私」


 ラフィの首が横に傾けられた。

 腕が水平に上がり、ラーミナが暴れる。大あごは届かないように握られているためか、力の差か。ラフィの腕は微動だにしない。


「ずるいなあ。聖女なのに、ずっと暁さんの傍にいて」


 ラフィが腕を曲げ、顔の前にラーミナを持ってきた。直前に見えた目は、睨みつけるそれ。憎悪そのもの。


 聖女の力が膨れ上がる。

 頭に、グラッソの最期が蘇る。大熊で、多量の『穢れ』を内包していたにも関わらず、あの場にいた街の人からは一切脅威が伝わらない消され方をした、カンパーナの連れが。


「やめてくれ、ラフィ」

「はい」


 あっけなく、可愛らしく。

 ラフィがラーミナを投げすてた。ラーミナはぐったりとしている。


「ラーミナ」


 それでも、ラーミナが僕の方を見てくれた。


「また、私を見てくれないのですね」


 視界に影ができる。


 うそ、だろ。

 何で遠くにいたはずのラフィが、もう目の前に?


「あんまりです」


 ラーミナのために伸ばした手はあっけなく掴まれて、またラフィとの距離がゼロになる。


「んっ!」


 今度は、暴力的なまでの、『穢れ』が。

 肚を暴れ、皮膚を裂かんばかりに跳ね上がり書き換えられていく。塗りつぶされていく。

 拮抗なんかさせないと。ヴィーネ様の力を押さえつけて。


 骨があるのかないのか理解できないほどに力が抜け、あおむけに倒された。


 花の香りが迎えてくれるが、すぐに黒く染まっていく。

 ラフィの足元から、花畑一面を黒く染め上げていく。

 池も道路も何もかも。あたり一面を。


「嘘でしょ、ラフィ」

「暁さん、なんでそんな顔をするのですか?」


 哀し気にラフィが微笑んで、僕の上に立った。左手が伸びてきて、僕の右頬に触れる。


「おかしかったのはこれまでの方、ですよ。私は不幸なのに、みんな幸せそうにして。私だけに犠牲を強いて何もせずに暮らしている。気に食わなければ責めて、出た『穢れ』は私が処理して。でも、何で私は好きなことをしたらいけないの。ちゃんとやってるじゃん‼」


 ラフィがこうして叫んだのを、僕は初めて見たかもしれない。

 ラフィの肩は少しの間上下していたが、止まると同時に一転して穏やかな表情になった。


「だから、願っちゃった。好きな人を罵られて、引き離されるなら。暁さんと一緒に居られないのが街の人の所為なら、みんな死ねばいいのに。そしたら、私は自由になるのに。この広い大空の下で、狭い町に閉じ込められずに済むのに」


 どろん、と、ラフィの鎖骨のあたりから黒が零れる。

 零れた黒はドレスを染め、一気に真っ黒なものに変えた。


 こぽり、こぽり、と地面が沸騰するように粟立ち、黒い巨大な嘴が現れる。槍の嘴は射出されるように飛び立つと、ギョロ目鳥に変わった。飛び散った粘液が丸くまとまり、眼球となる。眼球から足が生える。そして、散らばってく。


 池からは肋骨ザリガニがまた現れだした。


 逃避は、もうできない。

 ラフィは堕ちた。それが、現実だ。だからと言ってどうすれば良い。どうしようもないじゃないか。


「最期に、暁さんと花畑を見る夢を叶えられてうれしかったですよ。お弁当は、踏まれちゃいましたけど」


 黒が汚れたランチボックスを持ち上げた。開いた中身は、砂で汚れて変形したナニカ。黒に落ちると、ナメクジ猪を生み出し始める。


「酷いですよね。私を護るとか、私のためとか言っておいて、丹精込めて作ったお弁当を踏みにじるのですから。謝罪の言葉も、意思もないのですよ」


 ラフィを見つめたまま、下唇をかみ切る。

 鉄の味が口に広がり、飲み込めば幾分か冷静さが戻ってくるようだった。


「ラフィ、まだ間に合う。今なら引き返せる」


 自分の言葉に、何が? と思う。どうして引き返せると思った? 

 そんなの、まやかしだ。堕ちた以上はどうにもならない。そんなことはない。また、逃避か。


「そんなに怖がらないでください」


 にっこりと、華の咲いた笑みをラフィが浮かべた。

 手が地面の黒に優しく拘束される。ラフィの左手が引っ込み、ラフィ自身の右の中指の先から肘までを艶めかしくなぞった。触れた部分から黒が広がるようにして、真っ黒なオペラグローブが完成する。同じものを、左手にも。


「ラフィ。まだ、街の人は生きているから」

「街の人が生き残ることが、本当に暁さんの希望ですか?」


 今度はラフィの右手が僕の左頬に触れた。

 黒い、触手のようなナニカが蠢くのが見え、耳にもナニカが侵入してくる。


「街の人なんて、どうでも良いではないですか」


 決して、ラフィが言いそうにないことを。はっきりと、ラフィの声で。

 耳に侵入しているであろうナニカは、一切ラフィらしき声を阻害しない。

 口を開けても、喉からは何も出せない。言葉を紡げない。


「私の邪魔をする、私に全てを押し付けて、それがどんなことかも想像しないで、自分は騒ぎたいだけ騒ぐ。そうでしょう? 職務に真面目なヴィーネ様が堕ちたのも、そう言った人がいたからでしょう? それなら、街の人なんてどうでも良いではないですか」

「そん、な。ことは……」


 ないとは、僕は言えない。


「私と一緒になりませんか? 暁さん。悠久の時の中を、私と、貴方で。ずっとずっと一緒に。ねえ。暁さんの信念が『聖女を護る』なら、既に失敗したのですから。もう使穢者として生きるのはやめて、私と一緒になりましょうよ」


 視界が、一瞬暗転した。

 気づけば腰まで黒に覆われている。足は既に黒の中。腕も肘まで黒の中。


 その中で、ラフィが僕に乗っかるようにしている。


「有象無象に呑まれるのではないのです。私が、誰よりも暁さんを大事に思っている私が呑むのです。ね。一緒になりませんか? ずっと、永遠に。ずっとずっと、永遠に一緒に居られるようになるのです。結婚なんかしなくても、ずっと、一緒ですよ。結婚をねだらない方が、一緒に居られたのですかね? 最初からこうしていれば良かったのですかね。私は、暁さんをこの街に留めておきたかっただけですから。私の傍に居て欲しかっただけですから」


 無邪気な声で、昏い声で、地獄の怨嗟で、天使の囁きで。ラフィが言った。


「それは、嬉しいねえ」


 こてん、と頭をラフィの胸元に倒す。

 こんな状況だって言うのに、やさしく、温かく、ずっとこうしていたいほどに魅力的で。


「ずっと一緒にか」


 例えラフィの『穢れ』を祓えてしまったのなら、きっと。この願いは叶わない。


「ええ。ずっと一緒にです」


 なら、いっそ受け入れた方が良いのではないか。

 信念があるから、使穢者は『穢れ』に対抗できる。それを護るために、貫くために。


 でも、ラフィは堕ちた。

 僕は、どう生きれば良い?


「私と暁さんで核になりましょう」


 受け入れてしまおうと、目を閉じた。

 自分の鼓動のみが聞こえ、ラフィのぬくもりを感じて、心は安らいで。



 でも。


 ヴィーネ様の力は暴れだして。


 僕は、再び目を開けた。

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