第3話 マーキング

 朝露に靴を濡らしながら肺を洗うような冷たい空気が満ちる森の中を進む。


 だが、さわやかなのも上辺だけ。

 小鳥のさえずりも聞こえないし、動物の気配も無い。虫一匹すら飛んでいない。


 子供が度胸試しで抱く、『夜が怖い』『恐怖からありもしない怪物・事象を想像する』だけではありえないほどの『穢れ』がこの森には満ちている。


 街からは遠い、と言うことは文句を言うために誰かが出てきたか。


 聖人君子張りに誰も恨まず、悪口を言わなかったら大丈夫なのだが、朝早くから子供が駆けまわってうるさいと思ったり、夜に酔っ払いが道路で歌ってうるさいと思ったり、配偶者が思い通りに動いてくれないと思うだけでも『穢れ』は発生するものだから。ここで日頃の鬱憤を叫んでいたとしたら溜まっていても不思議ではない。その叫びを聞いて、ダイスケと呼ばれていた少年が関わっていたグループが度胸試しを思いついたとしても、子供ならと納得がいく。


 と言っても僕の場合は遊び相手はもっぱらヴィーネ様だったから、そうであるとの確証はないが。


 それでも、よく、ヴィーネ様の街の中に作られた林で、日ごろの愚痴を溢している人は目撃したことがある。ヴィーネ様も虫取りだとかザリガニ釣りだとかと称して僕と一緒に森に行っては祓っていたからなあ。


 人間はどこでも対して変わらないと言うのを踏まえると、『穢れ』が溜まると言う点においてはあながち間違いではないと思う。


 感傷に浸るのも、ここまでにしようか。


「ハスタ」


 ポーチから『穢れ』を纏めて『ソレ』らの核となる玉を放ると、ざわりと木々が揺れて影がかかった。朝陽に自身の黒色の体を照らし、ハスタが自身よりも大きいくすんだ金色の槍を落としてくれる。同時に、少年が年上のお姉さんにじゃれつかれた時に近い衝撃。


 見なくても分かってはいるが、それでも一応背中に目をやれば玉虫色の大あごが見えた。


「ラーミナ、後でちゃんと呼んだから。そんなことしないでよ」


 ぐりぐり、とラーミナが器用に大あごを押し付けてくる。

 ラフィが初めて見た時は襲われていると勘違いしていたっけ。背中を覆えるほどのクワガタにのしかかられていたらそれもそうか。ハスタも、あの時と同じようにラーミナを叱るように羽音を立てているけれど、こちらは巨大なカブトムシが僕を威嚇しているように見えなくもないし。


 なんて考えている内に。


 意識を統一する間もなく、怖いモノを固定する間もなく『穢れ』が形を成し始めた。


 光すら反射しないような粘体が、集まり、球体に付着し、持ち上げながらどろでろと人型に変わっていく。左頬に火傷と裂傷があり、右耳の耳たぶに切れ込みがある姿に、ラーミナが気づかわしげに僕の背中をなでてきた。ハスタは威嚇音を大きくしている。


 ただ、粘体は彼の姿を象りはしない。


 ごぼごぼと二の腕から顔にかけて時折沸騰するように動き、様々な、見たことのある人の顔を作り、見たことのない人の怨嗟の形相を作り、消えていく。


「一番忌み嫌っているモノとしちゃあ上出来か。戦いやすい形状だし」


 地面に触れていた穂先を蹴り上げ、槍を握りなおす。


 集中。


 奥底から、絞り出すように。ラフィとの生活で大分減ったしまった『穢れ』を呼び起こすために。


 思い出し、もう一度体に刻み込む。


 気に食わない者たちの言動を、理解できない者たちの行動を、自己中心的な者たちの所業を。


 増幅した『穢れ』を抑え込み、槍に込める。


「それじゃあ、久々に頂こうか」


 足裏で地面が削れるのを感じて、体が前に出る。首も眼球らしき部分も動いていないのに、眼前の『ソレ』がこちらを見たとはっきりと分かった。


「ハスタ、纏え!」


 ハスタが槍先にくっつく。『ソレ』が手を伸ばす。踵で地面の苔ごとえぐるように急停止し、のんきに手を伸ばしたままの『ソレ』との間で槍を振った。ハスタが射出され、粘体に角が埋まる。緩慢でありながら瞬時に『ソレ』が土手っ腹にめり込んだハスタを見た。その隙に、槍でソレの右膝を消し飛ばす。


「食せ」


 ラーミナが千切れた膝下を吸収した。ハスタが槍に戻ってくる。槍に、ハスタが奪ったばかりの『穢れ』が充填された。

『ソレ』は欠けた個所を他の部分から補填するように液体を垂らしながら再生させ始める。


「遅いんだよ」


 関係なく、奪ったばかりの力をぶつけて、今度は両膝を吹き飛ばした。『ソレ』が後ろに倒れるように落下する。ハスタが槍の先端に移動した。突きだす。顎から頭頂にかけてを吹き飛ばすように貫通し、ハスタを通して槍に吸収されていった。


「いただきます、と」


 首の断面が見える位置に移動してから、核とした球体の近くにハスタの角をねじ込んだ。

 手が伸び、槍を叩いて泥のように顔に跳ねてくるが『穢れ』自体はどんどん吸収されていく。ぐるりぐるりと渦巻くように、足元を薄皮一枚下から撫でまわしてくるかのように蠢き、ハスタから槍、槍から僕の中へ。


 痛い、苦しい、辛い、アイツが嫌いだ、コイツが文句を言った。

 うるさい。煩わしい。気に食わない。死ねばいい。何で生きているのか。近寄るな。

 邪魔。ふざけるな。おかしい。イカれてやがる。クズの癖に。生意気だ。

 死ね。死んでしまえ。くたばれ。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね。


 シンデシマエ。



「ふう」


 言葉の代わりに、槍を捻るようにもう一度ねじ込む。

 慰めはしない。恨みを晴らさせもしない。気休めも言わないし、同情もしない。

 ただただ『穢れ』として。僕の力になれ。


 粗方吸い尽くせば、ラーミナに掃除をお願いするようにして全部渡した。


 庭を駆け回る子犬のようにラーミナが飛び回り、最後まで『穢れ』を食らいつくす。

 ラーミナが食べている間に周囲を探ってみるが、もう警戒するほどの『穢れ』は残っていない。槍から外れて、生真面目に警戒飛行に移っているハスタも、特段警戒を強めることはしていない。


「とりあえずは、終わりか」


 ラフィが祓えばすぐに済んだ話だけど、ラフィにばっかり負担をかけるわけにもいかないからね。

 使穢者らしくたまには『穢れ』を食べたり出てきた『ソレ』らを消したりしないと。


 槍をハスタに返すと、生真面目な連れは大きく旋回してから槍を消した。代わりにラーミナから双刀を受け取り、木々が生い茂る森に分け入る。


 苔が綺麗に大地を覆い、独特のやわらかい質感が足裏から伝わってきた。心なしか湿気も増えた気がして、鳥のさえずりも聞こえ始める。

 極力植物を傷めないようにどかしながら進めば、虫にも出会った。


『穢れ』は、通常の水準に戻ったと言えるだろう。


「帰るか」


 この森自体は特に変わったものがあるわけじゃないけど、今日の森の様子をラフィは新しいおもちゃを貰った子供の用に顔を輝かせて聞いてくれるのだろう。例え、毎日代わり映えしないとしても。楽しそうにはにかんで。


 とん、と。ハスタに肩を軽く叩かれたことで口元が緩んでいたことに気が付く。


「すみません。つい」


 甘えるようにすり寄ってくるラーミナをしたいがままにして、ポーチから蜜を取り出す。

 ラーミナが嬉しそうに横揺れした。


 喜んでくれるのは嬉しいのですが、別に完全に見た目の生物通りじゃないから蜜以外をねだってきても良いのですよ。僕としては蜜の方が楽ですけど。ラフィの作ったサンドウィッチを毎回ねだられるのもラフィに悪いし。


 とんとん、と今度は強めにハスタに肩を叩かれた。

 蜜ではないらしい。


 ハスタに触れれば、奥の木がマーキングされていると言いたいらしいとおぼろげながらもわかった。


 蜜に喜んでいるラーミナにはそのままで良いと伝え、ハスタと共に近づく。



 マーキングが目に入った瞬間、腕が骨から冷えた気がした。目が大きくなってしまった。

 そこにあったのは、地面に落ちた翼の絵。

 こんな悪趣味なものをわざわざ描く奴など、一人しかいない。違ったとしても同じことをしようとする人でなし。


「ラフィ」


 早く、伝えなくては。

 焦りに足の回転が追い付かなかったが、無理矢理稼働させて森を走り、緑の世界を抜ける。眼前に高くそびえる壁に感情を持つことなく、小さくついている階段を駆け上がった。

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