第2話 夜半の客人

 後はもう焼くだけ、温め直すだけという状況になった時、ごそり、と物音がした。


 常温よりやや高めで保っておいたお茶を手に取る。ラフィがいつも通り、寝ぼけ眼で席に着いた。それでもドレスは夜空色の、しっかりとした物を着ており、髪の毛も整えてある。


 流石は聖女様、と言ったところか。


「おはよう。と言っても、もうそろそろ夕飯の時間だけど」


 お茶をラフィの目の前に置くと、こっくり、と船を漕ぎながらラフィの顔が上がった。焦点があってるんだかあってないんだかわからない目である。


「した後って、なんだか眠くなりませんか?」

「ごめんね」

「いえ。暁さんが悪いわけではありませんよ」


 両手で湯飲みを包んだラフィの頭を、優しくなでる。


 数多の『穢れ』を内包して扱っている使穢者と、神に全てを捧げて名を授かった聖女では相性が悪すぎるのだ。多分、ラフィの眠くなる、お腹がすくと言うのは『穢れ』に近い場所にあり続けた異物を排除するために神とやらの力がフル稼働しているせいだろう。


 即ち、その状況にした僕の所為でもある。


「今日こそ、上手く行っていると良いですね」


 多分、それは無理だろう。聖女が身籠った、子を為したなどと言う話は聞いたことがない。

 と言うのは野暮か。ラフィも知らないはずがない。


 それでも、ラフィは幸せそうに微笑みながらお茶に口をつけているのだから、言う必要はない。


「おなかは?」

「いつも通り、すいています。すみません。毎回暁さんにお願いしてしまって」


 目を閉じたままラフィが申し訳なさそうに笑う。


「普段はラフィの方が忙しいのにラフィが作ってくれることの方が多いからね」

「一生暁さんと子供たちのために作ってもいいのですよ」

「二十二人前って、もう炊事だけで一日が終わるんじゃないかな」


 火をつけ、フライパンを熱し始める。


「全員双子なら四十人はいけますね」


 人間って卵生だったかな? その計算はどこからきているのでしょうか。

 普通に大変なことですよ、出産って。


 それも双子となれば想像を絶しますよ。育てるための手も足りなくなるのは火を見るより明らかですし。


「全員双子なら、子供が家の増築を手伝えるようになるよりも手狭になる方が先かなあ」

「がんばって、お父さん」


 ラフィの声と、肉の脂が踊り始める音が重なった。

 ついでに、ドアを強く叩く音も。


 ラフィの雰囲気が常の聖女然としたものに代わり、立ち上がる。誰がお父さんだ、とツッコむ機を逃したままラフィが玄関に消えていき、深刻そうな、焦っているような壮年の男性と思われる声が聞こえてきた。


 こんな時間に聖女の家を訪ねる用事など限られている。


 ラフィへの用事は長くなりそうだからと片面が焼き終わったところで火を止めれば、ラフィと誰かが聖堂の方へ歩いていく音が聞こえた。同時に、外の少し涼しい風も止む。


「すみません」


 一人になった、と思ったがどうやら違ったらしい。


「何か?」


 肉が大丈夫であることを確認して玄関に向かえば、立派な口ひげを蓄えた四十代くらいの男性がいた。腕は程よく引き締まっており、ややがっちりとした体格である。左腕の方がやや太く、胸筋はしっかりと膨らんで。猟師だろうか。


「いえ。その。どこか、外でよろしいので腕を洗える場所は無いでしょうか? できれば、せっけんなども貸していただけるとありがたいのですが」


 右腕をかきむしろうとでもしたのか、微妙に関節を折り曲げたまま力の入った左手を無理矢理戻すようにして男性が目を背けた。


 まあ、見慣れた光景である。


「ご案内いたします」


 男性の横を通る。それだけで、男性の目が一度大きく開かれたが、声をかけられることは無く外の石造りの洗面台までたどり着いた。

「どうぞ」と言うや否や、腹を空かせた肉食獣のように男性が洗面台の水をぶちまける。裾に飛び散る水しぶきを気にも留めていないかのように腕を流水にぶつけ、それからせっけんを手に取って右腕をやすりがけするかのように動かしだした。「ふっ」「ふっ」と言う空気が漏れる音と共に、男性の額から汗が零れ落ちる。


 外はどちらかと言うと涼しく、汗を搔くような気温ではない。そうであるにも関わらず、男性の額からは大粒の汗が湧き出て、顔が赤くなっている。眼球まで飛び出そうだ。このまま腕が削れて、骨までも露出しても納得ができそうなほどに。


 腕が真っ赤に変わったところで、男性がせっけんを置いて流水で右腕を洗い流し、一息つく。


 どこか漂う安堵感と、未だに消えない不安のかげ


 そこからまた顔に鬼気迫るものが戻ってきて、右腕に触れた左手も過剰にこする。摩擦する。


 一通り終えて男性が額を拭えば、ぐっしょりと服の色が変わった。

 やや汚い布を取り出して、手を拭いている。


「あいや、これは申し訳ない。見苦しい所をお見せしました。ついつい。周りもうるさいものですから」


 はたと気づいたかのように男性が眉を下げた。


「お気になさらず。皆さん似たようなことをされますので」

「ああ、そう言えば、あなたは聖女様の元で生活しているのでしたね」


 話題を変えるためが七割、非難が二割、好奇心が一割だろうか。

 目は別に僕を見ているわけではない。


「外から来た人ですので。街中で暮らすわけにはいかないでしょう?」


 男性が気まずそうに口元をゆがめた。


「そのようなことはありませんよ。しかし聖女様の元なら安心ですね。何せ絶壁の聖女様ですから。『穢れ』なんてこの街には入って来やしませんし、入ってきてもすぐに祓われますよ」


 別に、穢れは入ってくるだけじゃなくて発生するものですけど。

 と言ったところで、下手したらラフィの評判を下げるだけだから言わないけど。


 ラフィや街の住民が言うのは良いが、外から来た僕が言っては余計な反感を買うだけだ。街に入りたいだけだろだとか、『穢れ』だから仲間の『穢れ』を庇うんだ、とか。


 的外れも良い所だけど。


「あの方以上の聖女様はいらっしゃいませんよ。誰にでも優しいですし、頼みごとを何でも聞いてくれます。式を挙げる、毎日の祓い、それに加えて急な祓いにも応じてくれますし、家に来ることも拒否いたしません。まさに聖女、女神様です。本当にこの街に生まれて良かった。他の町では聖女様が街民と距離を取ったり、果てには見殺しにしたりした人もいるそうじゃないですか。何が聖女だよ、という感じではありませんか。聖女様は私達を守ってくれる存在でしょう」


 前半は陶酔している様子で、後半は本物の憤りを滲ませて男性が言った。


「見捨てたと言われている聖女様も、最初は街の皆さんの期待に応えようとしてくれていましたけどね」


 一気に男性の顔に同情が広がった。


「もしかして、その街の出身でしたか」


 素性の知れない余所者から、聖女に見捨てられた街の可哀想な若者に変わった瞬間だろうか。


「嫌われるのがわかっていて旅に出る人など、ほんの少数だと思いますよ」

「それはさぞ大変でしたでしょう。でもここなら大丈夫ですよ。何せ聖女ラフィエット様は生き女神。心広きお方。見捨てずに守り切って下さいます。あのお方がこの街の聖女となられてからは、大規模な穢れなど侵入してきておりませんから。まさに理想郷。完璧な街です」


 完全に信仰の領域だ。

 ラフィを信じて疑わないという思いが透けてどころか、ありありと見受けられる。ラフィの負担なんか、微塵も考えていないのだろう。


 気に食わないな。


 流石にラフィが大事に思っているであろう街の人に対してそんなことは言えず、話題をどうすべきかと迷っていると足音が聞こえた。ラフィが十歳くらいの男の子を連れてこちらに来ている。


「お父さん!」


 お床の子が男性の元に勢い良く走って行ったが、途中で止まった。


「おいで」


 男性が両手を広げて、男の子を招き入れる。それでも遠慮気味の少年に、今度は男性が近づいて思いっきり抱きしめた。


「もう大丈夫ですよ。それに、『穢れ』はついていませんでしたから」


 華のような笑みでラフィが言った。

 暗い空と、夜空を思わせる紫色のドレスがラフィをより綺麗に、神々しく見せている。


「ありがとうございます。本当に、何とお礼を言ったらよいものか」

「お礼なら、お父さんがダイスケ君を思いっきり愛してあげてください。それで十分です」

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


 男性が何度も何度も頭を下げながら、壁を降りて行った。ダイスケと呼ばれた少年もお父さんと手を繋いで、ラフィに手を振りながら消えていく。


 ラフィも可愛らしく笑いながら、見えなくなってもしばらくは手を振っていた。


「お疲れ、ラフィ」


 労うように言う。


「疲れることなんてありませんでしたよ?」


 ラフィが小首を傾げて、それから、はっ、とした様子で目を開いて姿勢を伸ばした。


「いえ、やっぱり疲れたのでたっぷりと癒してください」


 ラフィが抱き着いてきた。

 慌てて両手を挙げて、でも転ぶと危険なので体は避けない。


「家に入ってからね。見られたらダメでしょ」

「少しくらい良いではないかー。良いではないかー」


 ふざけた調子のラフィに、家へと向かって押されていく。

 本当はよろしくないのだけれど、今日ぐらいは良いか。


 なんて、ここ最近ずっと思っている気もするのだけど。


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