あんまこだわってると前に進めないぞ、お前

チェシャ猫亭

過ぎたるは猶及ばざるが如し

猫田柳之介ねこたりゅうのすけ、65才、独身。


 両親はとっくに他界し、広い和風の一軒家で一人暮らしの身の上だ。


 五年前に小さな会社の経理部を定年退職し、悠々自適の日々を送っている。




 若いころから小説家を夢見ていた彼は長年、仕事の合間に小説執筆を試みていた。


 文豪・芥川龍之介と、字は違うが同じリュウノスケであることがひそかな自慢で、いつかはきっと小説家になるぞ、と、胸に誓って幾星霜。


 しかし、全く書き始めることができない。原稿用紙がワープロになり、やがてPCに代わても、小説を書けないのは同じだった。原稿用紙はメモ用紙として使い切り、ワープロは粗大ごみに出し、PCも6代目になるというのに、この現状はどうしたことなのか。




 お茶漬けで朝食を済ませた柳之介は、香り高いコーヒーを味わいながら、1冊の本を開いた。


「エンタメ小説入門」なるタイトルの、長年、愛読している小説指南書。手あかが付き、すっかり変色した本の、「三行ひっかけ」の項を読む。


 小説は出だしが肝心。はじめの三行で読者や、投稿小説なら審査員の心をつかまなければ、先を読んでもらえない、というアドバイスだ。


 もっともだ、と柳之介は思う。彼自身、お気に入りの小説は,初めの三行、長くても最初の1ページで面白く感じたものばかり。それ以上読んでもぴんとこない小説を、読破できた経験はない。




 読者の心をぐっと掴むキャッチーな出だしを、書かなくては。


 しかし、それがなかなか難しい。365連休という恵まれた環境にありながら、ちっとも書けない。若くして、仕事と両立させながら活躍しているプロ作家も多いのに、自分には何が足りないのだろう。


 65才を迎え、介護保険証が届き、ついにシニアの仲間入りを果たしてしまった柳之介は、近頃、さすがに焦りの色を隠せないでいる。




 10時のおやつにどら焼きを食べ、煎茶を飲んだ。


 昼には散歩を兼ね、少し遠くの弁当屋まで歩いて行って、ヘルシー弁当を買ってきた。ヘルシーといいながら意外に量が多く、満腹になった柳之介は、睡魔に襲われ、うっかり二時間も昼寝してしまった。




 目覚めると、時計は午後三時を回っている。




 なんということだ。もう午後のおやつの時間ではないか!




 己のうかつさに、柳之介はチッと舌打ちした。


 時間を節約するため、コンビニに行くのはやめて、そこらへんに転がっている、チョコチップクッキーの袋を手に取った。残りは3枚、これで十分だ。ティーバッグの紅茶を飲んで英気を養う。




 さて、出だしの三行、どうしたものか。


 PCの前に座り、うんうん唸りながら考えたが、いいアイデアが浮かばない。


 日が暮れて、外が暗くなり、柳之介の腹がぐうぐう鳴り出した。


 時間がもったいないので、冷凍庫から牛丼の具を取り出し、丼飯の上に乗せ、チンした。白菜の浅漬けを添え、糖質オフの発泡酒を飲んで、夕食兼晩酌、終了。




 食後も悩み続けたものの、結局、一行も書けなかった。


 イライラが募り、血圧が上がるのを柳之介は実感した。




 明日は病院に行き、降圧剤を処方してもらわなければ。


 血圧が上がってますねえ。ちゃんと塩分控えてますか、て、先生にまた叱られるんだろうなあ。




 はあーっとため息をつき、柳之介は、両手で頭を抱えた。 


 今日はもう、限界だ。このへんでおしまいにしよう。




 風呂から上がり、パジャマに着替えた柳之介は、日記帳を開いた。日記だけは四十年間、ずっと書き続けている。簡潔に、一日一行と決めているのが、こんなに続いた秘訣と言えば秘訣か。




「今日も小説を書けなかった。」


 一行書いて、柳之介はペンを置いた。




 待てよ、「今日も又」の方がいいかな。


「又」は、ひらがなにすべきだろうか。その方が、やわらかい感じが出て、いいかも。


 つーか、「今日も小説を書けなかった。」では、ゲイが、じゃなかった、芸がなさすぎないか。もうちょっとこう、何か、捻りが欲しい。


「残念ながら、今日も」の方が悲壮感が出てモアベターか?


 そもそも、「今日も」でいいのか。「今日は」とか、いっそ「本日も」、「本日は」、「残念ながら本日は」も、一考に値するのでは。


 それとも、それとも?




 といった調子で、柳之介は今夜も、一行日記の表現に、深夜までこだわり続けるのであった。

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