第13話 藍田くん

 俺がぶつかったのは、同じクラスの小柄な男子だった。

 たしか名前は……藍田くんだっけ。俺はクラスの人の名前をあんまり覚えていなかったけど、彼の名前は覚えていた。

 藍田くんはクラスの中でもおとなしいタイプの子だ。

 そんな彼の見た目は、目がくりくりしていて、口は小さく、ちょっと小動物っぽい。

 多分、藍田くんが本気で女装したら、その辺にいる女子よりも余裕でかわいいと思う。

 そして、これは俺の勝手な予想だけど、性格も見ている限りかなりいい人なはずだ。

 俺は今までに、藍田くんが誰かの悪口を言っているところを一度も見たことがない。もちろん、俺の悪口も含めてだ。

 だから、俺は他のクラスメイトたちとは違って、彼のことは嫌いじゃなかった。

「いやいや、俺の方こそ!」

 俺は藍田くんが謝ろうとするのを慌てて遮った。

 ぶつかったのは俺の方なんだから、彼に謝られるのはなんだか申し訳ない。

 俺がそんなことを考えていると、俺よりも十センチくらい背が低い藍田くんは、何かを決意したような表情で口を開いた。

「あ、あのさ! 今日の生物の授業の時、東雲くんすごかったね! 僕、本当に呪いを払える人っているんだなって思って興奮しちゃった! それに、東雲くんが神社の家の子だっていうのも今日初めて知ってさ。なんか漫画の主人公みたいで、すごくかっこいいなって思っちゃったよ…!」

 藍田くんは、そう言いながら俺のことを尊敬の眼差しで見上げた。

 この子、意外としゃべるんだな。藍田くんはクラスではいつもにこにこしているだけのイメージだから、彼がこんな風に熱く語るのが意外だった。

「えっ! ああ、えっと、あれはマジでたまたまっていうか…」

 とはいえ、彼に変なイメージを持たれたままでいるのはなんだか忍びないので、俺は適当に言い訳をしようとした。

 …う~ん、ダメだ! いきなり奇声を上げたことを正当化する言い訳が、全く浮かばない‼

「だからさ、俺、東雲くんになら相談してもいいかなって思ったんだ」

「へ? 何を?」

 東雲くんは真剣な表情をすると、そう言って俺に詰め寄った。

 そして周りをきょろきょろと確認し、昇降口に人があまりいないとわかると、ひそひそ声で話し始めた。

「実はさ。俺、この前うちの学校で幽霊を見たんだよ」

「ゆ、幽霊?」

「そう。あれは間違いなく幽霊だった。実はね…」

 藍田くんはこの前怪奇現象に出くわしたらしく、それを俺に相談したかったのだそうだ。

 俺はとりあえず恐怖で顔を青くしながらも話を続けようとする彼のため、とりあえず耳を傾けることにした。

 藍田くんの話をまとめると、こういうものだった。

 先日、藍田くんは手芸部の部活帰りに(俺は初めて藍田くんが手芸部に所属していることをこの時に知った)、用を足すために一階のトイレに向かったらしい。

 一階のトイレというのは、今朝俺が燐牙を連れて行った場所だ。

 手芸部の活動場所は西校舎の三階の家庭科室なので、そこから一番近いトイレは必然的にそこだったのだ。

 普通、学校には各階にトイレがあるものだけど、西校舎は例外で、二階と三階の廊下の突き当りにはトイレではなく物置があるのだ。

 藍田くんは居残りで手芸部の活動をしていたらしく、その頃にはすでに七時を回っていたらしい。先生に居残りの許可はもらっていたので、遅くまで残っていたのには問題なかったが、廊下の電気は全て消灯されてしまっていたのだそうだ。

 そのせいで、藍田くんはほとんど真っ暗な階段を降り、トイレに向かわなければならなかった。

 そして、彼が散開から二階への階段を降りたその時、何かが彼の背中をふいに突き飛ばしたらしい。

「うわっ!」

 藍田くんは階段をごろごろと転がり、踊り場の先の壁にぶつかったおかげで止まることができた。

「いてて…」

 階段にぶつけて痛む背中や腕をさすりながら立ち上がろうとすると、藍田くんの目の前にはなんと……長い髪の女の幽霊が立っていたらしい。

「う、うわああああああああああああああああ‼」

 すっかり気が動転してしまった藍田くんは、そのまま階段を一目散に駆け下り、一階のトイレに逃げ込んだ。そして、鍵を閉め、さっきの幽霊が自分のところにやってこないようにした。

 だが、藍田くんはその時、自分が犯してしまった過ちに気がついた。

 藍田くんが入ったのは、なんと女子トイレだったのだ。

(さ、最悪だ~! 僕、間違えて女子トイレの方に入っちゃったよ~!)

 藍田くんがまた別の意味でパニックになっている時、トイレのドアが開く音がした。

 それと同時に、なにやらブツブツ言う声がする。

「…タシニ………コセ……カオ………ヨ……セ………」

 藍田くんは個室の中でガクガク震えながら、見つからないよう息を殺してじっとしていたらしい。だが、その願いは空しく、藍田くん入っていた個室の鍵が、いとも簡単に何者かに開けられてしまったのだ。そして、ギィと開いたドアの先にいたのは、さっき見た顔の見えない女の幽霊だった。

 すでにもういろんなことが限界だった藍田くんは、幽霊を突き飛ばし、こう謝りながら女子トイレを出たそうだ。

「……ぎぃやあああああああああああああああ! 男子の僕が女子トイレに入って、すみませんでしたああああああああああ‼」


「ぶふっ! いやいや、幽霊に謝りながら逃げるとか、藍田くんおもしろすぎでしょ‼」

 ここまで真剣に彼の語りを聞いていた俺は、思わず吹き出してしまった。

「ちょっと! ここ笑うところじゃないよ? 僕、本当に死ぬかと思ったんだから!」

「ご、ごめんごめん! それで、その後はどうなったの?」

「それがねぇ、僕が男子トイレに入った瞬間、その幽霊はぱったりいなくなったんだよ」

「な、なるほど……そんなことがあったんだね…?」

 俺はなんとか笑いをこらえながら、そう答えた。

「もう! 東雲くん、僕の話真面目に聞いてないでしょ」

 藍田くんは頬をぷぅと膨らませると、俺を下から不服そうな顔で睨んだ。

 そういえば、弓弦にもこんな風に睨まれたけど、藍田くんと弓弦じゃあこうも迫力が違うのか。弓弦が睨んだ顔は般若のお面みたいだったけど、藍田くんだと天使がちょっとむくれているようにしか見えない。だからちっとも怖くなかった。

「えっと、結局何を言いたいのかっていうと、もしその幽霊がまだ僕に憑りついていたりしたら、東雲くんにお祓いしてほしいんだよ。陰陽師の東雲くんなら、お祓いできるんじゃないかなぁって思ったんだ」

 藍田くんはそう言って話をまとめると、不安げな顔で俺にお願いした。

「ねぇ、東雲君。正直に言って。あの幽霊、今も僕に憑りついてない?」

 眉毛をへの字にさせて、上目遣いをした。

 そんな彼からは、悪霊なんかの類の気配は何も感じられない。

「いや、大丈夫。今の藍田くんには何も憑りついていないよ」

「ほ、ほんとに?」

「うん」

「やっぱり東雲くんって、本当に幽霊が見えるんだね」

「えっ…あっ!」

 しまった! つい、藍田くんのペースに乗せられて、真面目に答えちゃったじゃん!

「あっ、ち、違うんだ! これは冗談っていうか…」

「ふふふ。大丈夫だよ。このことは誰にも言わないから。クラスのみんなも、面白半分で君が陰陽師だとか言い出したんだろうけど、僕は東雲くんのこと信じてるからね」

 藍田くんはそう言って人差し指を立てると、くるりと背中を向けて行ってしまった。

「えっ! あっ、ちょっと!」

 俺は彼を追いかけようか迷ったが、やめた。今の彼にさらに言い訳したところで、糠に釘って感じで効果がなさそうだ。

 あ~あ、なんだかちょっと面倒なことになっちゃったなぁ…。

 俺はそう思いながらも、彼から解放された今、さっさと自宅に帰ることにした。

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