第6話 斬髪の儀式
朝の空気はひんやりとしていて、どこか張り詰めた感じがする。
まだ人があまり動き始めていないせいか、空気が澄み切っている気すらしてくる。
現在の時間は午前三時四十五分。
俺は、自室で昨日のように白装束に着替えていた。
でも、今日はいつもの衣装とは違う。
普段は頭に何もつけないけど、今日はひな祭りのお内裏様がつけているような烏帽子を被らないといけない。それに、上には群青色の狩衣を着て、下には灰色の差袴を履いている。
靴も普段は草履とほとんど変わらない雪駄を履いているけれど、今日は浅沓と呼ばれる漆塗りされた木靴を履かなくちゃいけないのだ。
そう、今日は待ちに待った俺の誕生日。そして、斬髪の儀式の日だ。
今から儀式のためにうちの神社の本殿に入らないといけないから、少し華やかな衣装になっているんだ。
この儀式は夕方ではなく、朝の穢れのない真っ新な心の状態で行われるのがしきたりらしい。それを昨日じいちゃんに教えてもらった。
修行は普段から朝夕やっているから、この時間帯に起きるのはさすがに慣れた。いつも修行の一環として、朝から神社中の掃除をしなきゃいけないからなぁ…。
姿見の前で自分の髪の毛が白い紙でしっかりと結ばれていることを確認すると、俺は部屋を出た。髪の毛の結び目に巻かれた白紙は、うちの神社の祈祷具などにも使われているものだ。これには邪気を払う力が宿っていて、神様の捧げものを包む時なんかにも使用される。
俺の髪も数分後には切られて神様に贈られることになるから、こうして奉納の印をつけておかないとな。
自室から出て、ばあちゃんを起こさないように階段を降り、玄関へと向かう。
この儀式に参加するのは、俺とじいちゃんだけだ。
昔は、師匠が弟子を陰陽師として一人前であることを認める意味もあったらしいこの儀式は、あくまで『師匠』役と『弟子』役の二人で行われる決まりになっている。
まぁ、母さんが生きていれば、『師匠』は母さんだったんだけどね。もともと母さんがなくなってしまう前までは、俺は母さんに修行をつけてもらっていたわけだし。
そんなことを考えながら、居間を通り過ぎると、視界に入ったお仏壇の写真の中の母さんに、微笑まれた気がした。
「よくここまで頑張ったわね、宗太郎」
そんな声が、ふいに聞こえた気がした。
「うん、ありがとう」
俺はお仏壇の前で少し立ち止まると、小さく呟いた。
そして、颯爽と玄関に向かった。
浅沓に履き替え、玄関の引き戸をカラカラと開けると、そこにはじいちゃんがすでに待機していた。
「…じいちゃん」
「ふん。ちゃんと準備はできたようじゃな。きちんと時間も守っておるし、お前にしては上出来じゃ」
じいちゃんはそう言うと、くるりと踵を返した。
俺と同じく、じいちゃんも今日はいつもと違う服装をしている。
じいちゃんも頭に烏帽子を被り、上には白の羽織、そして下にも上と同じく白の袴姿だ。
「では、行くぞ。神社に足を踏み入れれば、そこから儀式は始まる。とにかくお前は、黙って儂の後をついて来い」
「はい。わかりました」
俺はじいちゃんの背中にそう答えた。
「…では、参るぞ」
俺は先を歩くじいちゃんの後を静かについていった。
♢
神社の参道以外に敷き詰められた玉砂利を踏みしめると、じゃり、じゃりと心地いい音がする。
まだ早朝だから、その音さえ空間に響き渡るので、ますます気が引き締まる。俺から出される音を、全て神様に聞かれている気がして、ちょっと緊張してしまう。
参道の端を歩くように心がけ、黙ったまま歩みを進める。
本殿の前にたどり着くと、じいちゃんはそこで立ち止まった。
「宗太郎。まずはここで二度礼をせい」
「わかりました」
俺は言われた通り、じいちゃんに倣って本殿に二度礼をした。
それが済むと、じいちゃんはおもむろに浅沓を脱ぎ、本殿の中に通ずる短い木製の階段を上り始めた。俺もそれに静かについていく。
浅沓を本殿の入り口の脇にある靴箱に収納し、ガラス障子のドアを開けて中に入る。
すると、お香の香りにふわりと包まれた。本殿の中では祈祷の際に何度もお香を焚ているから、その匂いが建物に染みついてしまったんだろう。
本殿の一番奥にはまた小さな神棚が祀られていて、その両脇に小さなぼんぼりがある。ここの建物の中では灯りがそれだけしかないから、薄暗い。お昼とかの時間帯ならもう少し明るいんだろうけど、今はまだ朝日も出てない時間帯だからなぁ。だから、本殿の中はぼんぼりの淡い橙色で照らされていた。
じいちゃんは無駄のない静かな動きで一番奥まで歩いていく。そして、小さなお社の前で立ち止まった。俺もじいちゃんの隣に並び、改めてその神棚を見上げる。
神棚の扉は開かれ、真ん中にこの神社に古くからある真ん丸な鏡が祀られていた。
その鏡の下には、お酒や玉串と呼ばれる榊の枝に紙垂が結ばれたものがお供えしてある。
こうして見ると、やっぱり神社だよなぁと思う。
じいちゃんはそこでもまた礼をしたので、俺も慌てて頭を下げた。
「白明様。いつも我々のことを見守っていただき、有難うございます。この度、我が孫が供物を捧げられる齢を迎えましたので、参りました」
じいちゃんは厳かにそう言うと、俺に向き直り「宗太郎、儂の方を向いて正座しなさい」と小声で命令した。
俺はじいちゃんの方に体を向けると、静かに床に座り込んだ。
すると、じいちゃんは神棚に供えられていた一本の手刀を手に持ち、俺の後ろに回り込んだ。
ジャキン。
ふいに頭が軽くなり、俺は何が起こったのかを察した。
じいちゃんはその刀で一思いに切った俺の髪を手に持ち、それがバラバラにならないよう両端を白い紙で結んだ。ついさっきまで俺の一部だった髪は、俺の想像以上に長いものだった。うわ~、俺、あんなのを毎日頭にぶら下げてたのかよ。そりゃあ頭も軽くなるわ。
じいちゃんはそれを神棚の前にあった、鏡餅を載せているような器の上に置いた。
その時、神棚の真ん中にある鏡が、キランと光を反射した。いや、というか発光したように見えた。
ん? なんだ?
俺は慌てて辺りを見渡した。
朝日が差し込んだわけでもないし、第一ここはぼんぼりの明かりしか灯っていない。だから、鏡が光るなんてありえないんだけど…。
それに、じいちゃんも特に気にした風でもないみたいだ。多分、俺の勘違いだな。
その後、俺とじいちゃんは二度礼をしてから、静かに本殿を出た。
「宗太郎、これで斬髪の儀式は終わりじゃ」
賽銭入れの前で、じいちゃんは一仕事終えたと言わんばかりの爽快感のある表情でそう言った。
「やった! じゃあ、この後は自由に過ごしていいんだよね?」
今日は儀式があったくらいなんだから、さすがに神社中の掃除修行はしなくてもいいでしょ。それに、この衣装を汚すわけにもいかないからね。今から着替えて掃除を始めたところで、掃除できたところとできてないところがある中途半端な状態で終わっちゃうし。
「何を言っておるんじゃ? 修行に休みなどないに決まっておるじゃろ?」
「えーーー! う、嘘だろ⁉」
「こんなことで儂が嘘をついても仕方ないじゃろ。ほれ、早う着替えて掃除をせんか」
「そっ、そんなぁ…!」
俺はさっさと家に引っ込むじいちゃんの背中を見送りながら、その場に立ち尽くした。
まさか、今日も修行をしないといけないなんて! 今日ぐらい儀式が終われば学校にくまでゆっくり寝れると思ったのに…!
俺は賽銭箱の傍にある木造の階段に座り込んだ。
早起きしたし、慣れない儀式で緊張して、正直今はここから一歩も動きたくなかった。
家までは一瞬だけど、帰ったところでまた修行着に着替えなくちゃいけないし、面倒だなぁ…。
俺は一人盛大にため息をついた。
「宗太郎。そんなに暗い顔をしていては、縁起が悪いぞ。悪霊たちが寄ってきてしまうではないか」
んもう、うるさいなぁ!
じいちゃんが今日くらい休暇を与えてくれたらこんな不機嫌にならずに済んだ話なのに ……って、あれ?
違う。この声、じいちゃんの声じゃない。
しゃべり方はめちゃくちゃ似てるけど、どう考えても子どもの声だ。
じゃ、じゃあ、いったい誰が俺に話しかけて…。
俺はすぐさま声がした方をバッと振り返った。
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