次の餌食

「ただいま」


 井上が自宅に帰って来た時間は夜の10時を過ぎていた。


「おかえりなさい」


 井上の帰りを心待ちにしていた千尋は、玄関まで井上を迎えに行った。


「はい、これ」


 リビングに着き、井上は千尋にビニール袋に入った何かを渡す。


「今日は何かしら」


 千尋は礼を言って受け取ると、袋の中からチャーハンと唐揚げの入ったプラスチック容器を取り出した。それはどうやら井上のバイト先の賄いである。


「俺は食べてきたから、千尋が全部食べて」


 優しい笑顔を浮かべて井上は上着を脱いだ。


「ありがとう」


 電子レンジに賄いを入れて温め、千尋はご機嫌な様子でソファーに座り食べ始める。井上はその隣に座り、労働の疲れからかぐったりしていた。


「ねぇ春樹」


 千尋はチャーハンを食べながら井上に話しかける。


「何?」

「明日から聡の遺書のこと調べてみようと思う」


 井上は体重をかけていた背もたれから体を離し、膝に腕を置いた。


「そう、でもどうやって?」

「とにかく聡の大学にいる人に聞きまわってみる」

「果てしないな」


 千尋の首筋に井上は顔を埋める。


「俺いるのに、まだ聡のこと引きずってるの?」


 井上の頭に自分の頬を当て、撫でる千尋。


「違うわ」


 井上は顔を上げて千尋の目を見る。


「貴方と一緒になるために、聡の最後の願いを叶えてあげたいの。どこの女か分からないけど、聡が恋した女性なら聡の想いを伝えたいの」

「そうか」


 井上は根回しをしておいてよかったと安堵しながら、千尋の頬にキスする。


「解決したら、私が働くから。貴方は大学に行って大手に就職して私を安心させてね」


 首に手を回し井上を抱きしめる千尋は、井上が今どんな表情をしているか知らない。


「分かってるよ」


 そう言った井上は奥歯を噛み締め憎しみの表情を浮かべていた。




「早川さん? 誰だっけかなぁ?」


 千尋の大学での聞き込みは予想以上に難透難徹と思わせるもので、それは生前の早川の影の薄さによるものだった。自分が早川の母親だと明かさずにいたせいで、余計千尋は心無い生徒の言葉に傷つけられるのであった。


 千尋は早川について調べるのをやめ、この大学で一番容姿の美しい女を探し始めた。


「彼女かな、文学部の滝沢ひばりさん」


 誰の記憶にも存在しなかった自分の息子と比べ、誰しもに美しいと称される滝沢ひばりという人間を知り、千尋は心に溢れる嫉妬心を抑えることが出来なかった。


「滝沢さんは何年生ですか?」

「四




「滝沢ひばり?」


 家に帰り千尋は井上に今日の成果報告をした。


「あー、名前だけ聞いたことある。確か俺の後輩で仲いい奴がいたなぁ」


 井上は白々しくそう呟いた。


「ほんと? やっぱり綺麗な子?」

「俺はそんな風に思わなかったけど、確かに万人受けはする顔だね」


 千尋の前で他の女を褒めたらどんな報復が待っているか分からない、そう思っている井上は上手く受け答えた。


「あまり学校には来ないらしいの」

「俺が後輩に連絡して会ってこようか?」


 スマホを操作しながら井上は言った。


「え?」

「ん? 嫌なの?」


 千尋は意味ありげな声を漏らし、井上はスマホから目を離し千尋を見た。


「みんなが口を揃えるぐらい綺麗な子なら、春樹が気に入っちゃうかも」


 千尋は目を細めて井上を睨みつける。


「ははっ、俺は浮気なんてしないよ。ただあまり良い噂は聞かない子だから、千尋に会わせるのが不安なだけ」


 千尋の太ももに井上は手を置いて、千尋の目をじっと見た。


「噂?」

「そう。男遊びしてる、とか。人殺ししてる、とかね」


 眉を顰め怪訝な顔をする千尋を、井上は笑った。


「噂だよ、噂」

「そう、じゃあお願いしようかしら。聡とどんな関係なのか、何となく探ってみて欲しいの。私の存在は伏せてね」

「分かったよ」


 井上は千尋の唇に軽くキスをした。


「でも、この世の中は本当に残酷ね」


 消え入りそうな声で千尋は悲しさを吐露した。


「残酷?」


 うん、と頷くと千尋は井上から離れ、背もたれに身を任せた。


「死人に口なし。死んでしまえばすぐにこの世の中から忘れられる」

「聡の話?」

「そう」


 手のひらで顔を覆い、千尋は深くため息をつく。


「結局貴方しか聡の墓前で手を合わせてくれた人はいないし、大学に行っても誰も聡のことなんて忘れていたわ」


――そりゃあ、あいつは影薄いし話も面白くないし当たり前だろ。


 その言葉を飲み込んで、井上は千尋の肩を抱いた。


「聡は引っ込み思案で友達も多くない方だったから。でも、いい奴だったよ」


 少ない早川の印象から必死に誉め言葉を探し、井上は千尋を慰めた。


「ありがとう。あの子は本当は頭もいいし、人から好かれる子なのよ」


 遠い目をして千尋は語り始める。


「必死になってあの子を育てて、少々物覚えが遅くても信じて励まし続けたの。あなたは出来る子よ、あなたは勉強していい大学に行くのよ、あなたは大手に就職してお父さんの跡を継ぐのよって」


 自分の教育は間違っていたのかもと、自分を疑いもしない千尋の話は自由を求める井上には気持ち悪さを感じさせる。


「従順な聡は、私の話を正しいと思って生きる頭のいい子だったのよ。自殺なんてするわけがない。きっとたぶらかされたの、騙されたのよ。あの子優しいから」


 千尋は子供の意思を尊重せずエゴを押し付け、子の自尊心を剥奪する害悪な毒親の典型例だ。


「あの子に立派になってもらわないと、私は旦那に妻としての地位を脅かされるの。私が母親であることがあの子にとって一番の幸せでしょう?だって私が産んだ子供なんだから。あの子の母親であり続けるために、口酸っぱく私はあの子になんでも求めたわ」


 井上は何も言わずに聞いていた。自身の思考の恐ろしさに気が付いていない千尋を軽蔑し、言葉が出なかったのかもしれない。


「でもだめね。もう死んでしまったのだから。今私が欲しいのは、聡の幸せと自分の幸せだけ」


 千尋はぎゅっと井上の手を握る。


「貴方さえいれば、私は何もいらない」

――次の餌食は、俺か。


 井上の引きつった笑顔からはそんな心の声が聞こえてくるようだった。


「うん、ありがとう」


 千尋を抱きしめた井上は、早くこいつから逃げないと、そんな表情を浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぞんざいたる所以 狐火 @loglog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ