風呂場カビの逆襲

月澄狸

無駄に壮大なバッドエンド

 ある主婦は夫に不満を抱えていた。


 不満をぶつけても改善はせず、相手が逆ギレするだけ。目の前でぼやいて見せても新聞など読みながらヘイヘイと聞き流す。手紙を書いて渡しても、乱暴に自分の引き出しに突っ込んだきり開きもしない。


 主婦は常にイライラを抱え、その苛立ちは日々膨らんだ。

 とまぁ、そこまでは分かる。問題は我々に八つ当たりしてくることだ。


「分かる」と言ったが我々は元々人語を解することがなかった。興味がないし知りもしない。我々は人間に「お風呂場」と呼ばれる場所に生息していたカビなのである。

 かつては「お風呂場」が人間のナワバリであることも知らなかった。ただ生育に適した環境を見つけ、繁栄しようとしただけだ。


 人間はナワバリ意識が鬼のように高い。他の生き物は、ナワバリの中でも虫や野草と共存できるのだが、奴らは違う。小さな虫一匹入り込んだだけで奇声を発し、徹底的に始末しようとするのだ。なんと心の狭い連中だろう。


 しかし生まれ持ったナワバリ意識の強さは生物としての特徴なわけだから、それを非難してもしょうがない。とにかく我々と人間は日々激しいナワバリ争いを繰り広げていた。



 人間のナワバリに入り込んでしまったとき、大抵一方的に殺されるのは我々の方である。奴らは薬剤で、熱責めで、我々を滅ぼそうとする。それが人間にとって必要な戦いであるらしい。だから我々も繁殖力をもって応戦はするものの、基本的に人間に対して恨みの念は持っていなかった。


 生き物にとって日々は勝つか負けるかの真剣勝負である。我々は強い相手に対し、恐れと敬意を抱いている。どの生物でもそうだ。他の生物や自然に対して敬う心を忘れないから、基本的には怨霊とかになりようがないのである。


 しかしあの主婦はあまりに我々を怒らせた。

 主婦は毎日毎日、愚痴りながら我々をこすりつけた。その暴言は日に日に悪化した。


「このゴミクソカビ共が! 死ね! 滅べ! 生物の最底辺野郎!! お前らに生きてる価値なんかないんだよ! 神聖な風呂を汚す寄生虫どもめが!!」


 主婦は毎日ありとあらゆる罵声を我々に浴びせ続けた。

 本来そこまで様々な言葉や感情に触れる機会もなかった我々だが、人間に毎日声をかけられることで次第に心が芽生えた……。

 優しい言葉ならばまた未来は違ったかもしれないが。主婦の罵詈雑言、言動は目に余るものだった。



 生物の最底辺? 人間は分解者としての我々にまったく感謝がない。

 寄生虫? 我々は虫ではない。


 彼女はあまりに思い上がり、無知を晒し、我々を苛つかせた。

 こうなると何か、感じたことのない思いが魂の奥底から沸き上がってきた。それこそが「仕返ししてやりたい」という怒りの感情だった。


 人間は自分たちのナワバリを守ることに必死なようだが、彼女等が使っている道具のすべては星から生まれたものだ。その水は、空気は、木材は、誰のおかげで存在すると思っている?


 良いだろう、そっちがその気ならこっちはこうだ。

 今度はお前たちを分解してやる。

 我々はそう誓ったのだ。


 ……沸き上がった未知の感情は、我々の進化を恐ろしく早めた。まるで天が、全生物が、賛同し力を貸したかのように、我々は強大な力を手にしたのだ。



 ある日いつものように我々の元に、薬剤を手にした主婦が現れた。

 弱い者を見る目。完全にナメきった態度。負ける可能性など1ミリもないと油断した顔。

 我々をゴミとして扱う相手に対し、我々は清々しいほどに敵意しかなかった。


 今こそ本気を出すときだ。

 逆襲の始まりである。


 我々は相手の鼻の穴目掛けて大量の胞子を飛ばした。

 大量といっても人間の目からは認識できないだろう。人間は胞子を吸い込んだが、瞬時に肺を侵すほどの毒性や威力はない。


「くしゅんっ、はくしゅんっ」

 相手が花粉を振り落とすみたいな行動に出た。しかし我々はめげない。執拗に鼻の穴を狙って胞子を送り続けた。



 その後主婦は何事もなかったかのように去っていった。

 我々はいつものように薬剤を吹き付けられ、壊滅的なダメージを受けた。

 主婦は勝ったと思っているだろう。が、この程度で全滅するカビではない。


 我々はひとまず休息に入った。

 やるべきことはやった。あとは余裕で待てばよい。



 主婦の鼻の穴から侵入した胞子は芽を出し根を生やし、主婦の体内にゆっくりと広がった。ここなら薬剤や熱湯を浴びせられることもない。我々はじわじわと侵蝕した。


 次第に主婦は咳き込み、体がだるいと呟くようになっていった。

 それでも我々は侵攻をやめない。我々に情けをかけない相手に、我々が情けをかけてやる理由もない。いつもはこちらが一方的にやられているのだ。

 小さな我々の猛攻は、一人の人間を死へと追いやっていく。やがて我々は主婦の脳にまで到達した。


 彼女は意識朦朧としたまま自分の部屋に閉じこもり、最期のときには頭を抱えて転げ回った。

 後で考えれば、主婦が病院へ行き、我々の存在が医者という者に知られる可能性もあった。だが、なぜか彼女は病院へ行かなかった。おそらく元から病院嫌いな性格だったのと、ただの風邪だと思っていたら急激に体調が悪くなったこと、そして多少具合が悪い様子を夫に目撃されていたものの、ダメ夫が気遣いもせず無関心だったことが原因として考えられるだろう。


 彼女は最期の意識の中で断末魔の叫びをあげた。

 外側からの攻撃ならまだそれから逃れようと行動することができる。しかし内側からの破壊に為すすべはない。彼女は抵抗のしようもない未知の恐怖と苦痛の中で、孤独に息絶えた。



 これは正確には彼女の肉体ではなく精神の死だ。体の方は辛うじてまだ生きている。なんと我々は、人間の体を乗っ取る術を身につけたのだ。


 我々カビが怨恨の念により妖怪化したのか、突然変異なのか、浴び続けた化学製品により何らかの反応を起こしたのか、何者かが力を貸したのか……理由は我々にも分からない。人間のように細かく分析してああだこうだと議論を交わす必要もない。とにかく気が付けばこうなっていたというだけのことだ。



 我々に操られた主婦がヨタヨタと階段を下りる。

 彼女を通してリビングにあった写真が見えた。若い女と男が肩を並べ、楽しそうに笑っている。これが若かりし頃の主婦と夫の姿だろう。


 愛を裏切られ、夫に愛想を尽かし、孤独と苦痛の中で息絶えた彼女。


 我々は彼女を少し哀れに思った。我々を見下したのだから死して当然の敵ではあるが、我々は人間と違って非情になりきれなかった。自分に害を成した存在であっても、ゴミクズのようには扱えないらしかった。


 我々は彼女の無念を晴らすため、夫に仕返ししてやることにした。



 夜。


 夫が帰ってきた。

 主婦の目も見ずテーブルの前の椅子につく。



「飯はどこだ」

 何も乗っていないテーブルを見て夫が言う。


 主婦がゆらゆらと揺れている。我々は言語までは操れないから、口で言い返すことはできない。口はあとで別のことに使うのだ。


「何をしてるんだ! 飯はまだかと言っているんだ」

 夫がバンとテーブルを叩いて立ち上がった。偉そうな口を利いているが貧弱な体つきだ。これならやれる。


 主婦がくるりと振り返った。その目は白く濁っている。ようやく異様な事態に気づいたのか、夫がギョッとして後ずさる。そこですかさず主婦が踏み込み、夫の右頬に渾身のグーパンチをお見舞いした。


「ぅがっ!?」

夫は少しばかり吹っ飛んで壁に体を打ちつけた。


 右頬を押さえ、慌てて起き上がろうとする。主婦の方はというと、のしのしと前進し、ガバッと夫の肩をつかんで押し倒した。主婦の横に広がった体格は、いとも簡単にヒョロ長い夫を圧倒した。


「何をする! やめろ!! うぐっ!!」


 もがく夫に、彼女の体を操りディープキスをお見舞いする。

 がっちりと、夫の口を妻の口でふさぐ。

 そのまま、彼女の体内で増殖した同胞をこれでもかと噴射した。


「ーーっ!!!」


 口をふさがれた夫は吐き出すこともできず、声も出せずにじたばたと足掻いた。



 ようやく口を離した頃には、夫は息も絶え絶えな様子でせき込んでいた。主婦の体を侵したときとは比べものにならない量の同胞を直接体内に噴射したのだから、あっという間に夫の体は蝕まれ、彼は絶叫した。


 どうだ主婦よ……。もう見えてはいないだろうが、お前の敵も苦しめてやったぞ。

 口付けの味はどうだったか。元は愛し合う仲であり、これがお前たちの愛情表現だったのだろう。……ちょっと違うかもしれないが……。主婦の脳の中にこういう記憶があった。


 少しは思い出せただろうか。幸せに愛し合っていた頃を。

 我々は心の中で合掌した。



 それから我々は、この夫婦の体を操って外へと繰り出した。そして菌糸を吐き散らして回った。といってもまずは目に付きにくい建物の裏やら、ちょっとした林の中にである。そこを拠点に菌糸は瞬く間に広がり、伸び、胞子をばらまいた。菌糸や胞子が人の目に付いた頃にはもう手遅れという訳だ。


 フラフラとつっかえるように歩き回る夫婦に対し「大丈夫ですか? 具合悪いんですか?」と心配そうに声をかけてくる者もある。そんな人間どもに向かって我々はカパッと口を開き、菌糸を噴射した。相手に付着した菌糸はズズズと伸びて胞子を飛ばし、胞子を吸い込んだ相手は悲鳴をあげた。すかさず我々はその肉体を奪い、乗っ取った。


 他人を気遣う善良な人間まで巻き込むのは、ちと気の毒なようでもある。しかし彼らが心配するのは同じ人間の仲間であって我々ではない。


 人間に同種の仲間のように気遣われる生物もいる。選ばれし特別な生物だ。人類は「可愛いペット」が食料を盗み食いすることは微笑ましく思い、そのような理由で殺したりはしないが、我々やゴキブリが食料をつまみ食いすれば血相変えて殺そうとする。

 人間は我々を疎み、自分たちの基準で愛でるものを決める。可愛いペットは人間のナワバリにいてもいいらしい。可愛いペットのためなら、人間の宝である「お金」も使うらしい。

 すべての生物の本質は、どれもそれほど変わらないというのに……。一体何が違うというのだろう。


 人とは所詮相容れない存在なのだ。ならばこちらも文字通り「気の毒」で構わない。



 人間の脳や心臓を手に入れた我々は、急速に人間的概念や言語を理解し、思考するようになっていた。

 町の掲示板に「環境を守ろう!」と書いてあるのも読める。行く先々でエコとか環境とか自然という言葉を目にする。


 ふむ、人類は環境を守りたいのか。大した心構えだ。

 なら望み通り、世界丸ごと森に還してやろう。アスファルトだかコンクリートだかプラスチックだか知らないが、ここ一面分解し尽くすことなど今の我々には造作もない。

 代わりに環境を破壊するものを始末させてもらうが、環境を破壊するものを始末しないと環境を守れないのだから仕方がないことである。我々が環境を守ってやろうというのだからむしろ感謝されるべきだ。



 その後すぐ、人類は揃って体調不良に陥り、何かおかしいぞと騒ぎ始めた。胞子を吸い込み、我々に体を乗っ取られるまでの間、自我がある最後のわずかな時間だ。

 悪魔の仕業だの宇宙人の襲来だのゾンビウイルスだのと様々な憶測が飛び交い、世界は大パニックになった。

 しかしギャーギャーと何日も騒ぐ暇はなかった。満足に我々の正体について議論もできないまま、声は途絶えた。我々の凄まじい進化のスピードに誰も敵わず、人類の処分……体の乗っ取りは迅速に行われたのである。


 すべての人類の意識が消え、静かになった世界で、残ったのは我々の手に落ちた数々の遺体のみ。


 このまま順調にいけば、文明の残骸も間違いなく消化される。すぐにでもすべてを自然に還せる。が、我々は人間の体を手に入れたことで、一つ無駄な興味を覚えていた。「遊び心」だ。


 文明が消滅する前に、奴らが残した文明とやらを味わってみようではないか。ということで、我々率いるゾンビ軍団は町で一時の遊びに興じた。

 キコキコと公園のブランコやシーソーを揺らしてみる者。パソコンやテレビの電源を入れようとしてみる者。店の中を探索する者。菓子の袋を破いて口に入れてみる者。美術館に入って絵画を鑑賞する者。楽器を鳴らしてみる者。

 我々カビが操るゾンビ軍団に、様々な行動が見られるようになった。



 もちろん人間が滅びた地点で電気は止まっていたから、コンセントが必要なものは使えない。それでもまだ遊べるものが意外とたくさんあった。電池式のおもちゃとか、電気を必要としないからくりとか。


 そのうち、それぞれの肉体を手に入れた我々は体によって「個人」を識別し、「名前」を付け合ったりして楽しんだ。子どもの肉体を操る者、女性の肉体を操る者、背の高い肉体を操る者……。外見が違うことにより「個性」を表現できた。

 また、ゾンビ個体ごとに好みが分かれていった。絵を描いてみようとする者、積み木のように物を組み立ててみようとする者、ひたすら砂時計をひっくり返すことを好む者……などなど。

 すべてが消え去る前に、我々は人類が残した芸術を心行くまで鑑賞した。


 我々に支配されたこの星は、端から見たらどう思われるだろう。一見、何もせずにすべての住民が遊びに耽っているのだから、奇妙な星だと思われるに違いない。しかし、元の住民が我々によって滅ぼされ、乗っ取られた後だとは宇宙人も夢にも思うまい。



 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、やがて我々はすべてを分解し尽くしてしまった。世界は土に還っていき、我々がいる場所は再び森となったのだ。


 目的を失った我々はただの静かなカビに戻りつつあった。人間の肉体は朽ち果て、全身緑や黒のカビに覆われ、手が落ち足が抜け……すべて土に還っていった。


 我々は人間の肉体を乗っ取ることで一時的に体を手に入れたが、あのような肉体を作り出し維持する術は持っていない。体が朽ちれば人間ごっこは終わり、我々の名前も個性も消えた。


 しかし、嵐が過ぎ去ったかのような「終わり」の中で、一つ元に戻らないものがあった。我々の思考回路だ。



 我々は今は亡き人類文明に思いを馳せた。


 彼女らが我々をゴミとして扱ったように、我々は彼女らをゴミとして「分別」し、処理した。しかしすべてが滅ぶ前に人間の道具を手に取ってみたことで、人間は我々にないものを持っていたと改めて認識した。それを滅ぼしてしまった今、なんとなく寂しさや虚しさを感じる。


 我々は結局分解者であった……。朽ち木や落ち葉を分解するが如く、すべてを土に還してしまう。我々の営みと繁栄は人類にとって破壊であり害であった。

 人類は自分たちの欲しいものを「作る」力があった。我々にない力だ。繊細な道具を、建物を、芸術を、料理を、彼らは作り上げ、それらを守るために我々を始末してきた。

 我々がそれらに手を触れたとき、やはりすべては崩れ去った……。


 反対に、人類の営み、発展と創造は、空や川や海や森を脅かした。彼らの営みが自然にとっては脅威であり破壊行動であった。


 カビと人間……お互い生まれ持った性質に従って生きただけだというのに、双方にとって侵略者としかなり得なかったな。

 しかし我々の最後の侵略によって、交わるはずのないものが少しの間だけ触れ合った。我々は人類の最期をもって、少しだけ人類を理解した気がする。



 そこそこ平和になったこの世界で我々はこれからどうしよう。人類との死の交流を通して創造に興味を持ちはしたが、我々は進化しても根っからの分解者であったから、創造する側にはなれそうもないな。


 また何億年か経ったら、生物のうちどれかが急激な進化を遂げ、文明を持ったりするのだろうか。そうなれば今度は敵対せず、文明で遊ばせてもらいたいものだが可能だろうか……。

 できれば穏やかな種族がいい。住処に我々が潜り込んでも排除しないような。……我々を一部として受け入れてくれるこの森のように。



 さて、またいつか面白いことが起こるのを待つか……。

 それまで人類の置き土産である、この思考回路で遊ぶのも悪くない。

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風呂場カビの逆襲 月澄狸 @mamimujina

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