第5話 これからどうする?
目覚めたら何もなかった。
何も見えないし、何も聞こえない。
けれど、それは死んで無の世界にいるということではない。
ただ、私が視覚と聴覚を失ったというだけ。
世界は何も変わらない。
そう気づいたときは、深い絶望に落とされた気分だったけど、
一度寝たら意外と心はすっきりしていた。
むしろ何もなくて退屈だった日常が、ガラッと変わったことにワクワクしている。
いや、さすがにそれは言い過ぎだけど。
それにしても、私はこれからどうやって生きていくのか。
ずっと病院で医療を受けて、負担をかけ続けるのは嫌だ。
そういえば、臓器提供意思表示カードにサインをすれば、
植物人間状態になったときには死んで臓器提供をすることになるんだっけ?
私は何か書いたかな。
覚えていない。
でも、もしもサインをしていたらとしたら?
もう反射的な反応しかないからと、
殺されて臓器提供をすることになるかもしれない。
そうすると、前回の診察は臓器提供する前の最後のチェックだった、とか。
もしかすると緊急事態?
何とかして私には意識があることを証明しないといけない。
本当に体は少しも動かせない?
いや、動く。
布団から出る力はないけれど、指先だけなら確かに動かせる。
このことに気付いてもらわなくては!
そう思っていると、私の右手に看護師さんの手が触れた。
いつも通り、手の平をなぞる。
丁度いい。
私は手を動かし、看護師さんの指先を掴む。
特に反応がない。
これだけではまだ反射しているだけで、意識があるとは伝わらないかもしれない。
そのまま看護師さんの指を伝い、手の平に触れ、
看護師さんがしていたのと同じようになぞってみる。
確かこんな感じだったはず。
そういえば、これは何をなぞっていた?
ひらがなとかだったら私にもわかるのに。
私は記憶の限り看護師さんと同じようにして手の平をなぞる。
伝わって!
すると突然、看護師さんは私の右手を強く握りしめた。
そして私の右手に柔らかくて温かいものが触れる。
看護師さんの頬だろう。
そして、そこには一滴の液体が流れている感触がある。
泣いている。
とても深く私を大切に思ってくれている証だ。
もし私が看護師になって、
初めて担当することになった患者が植物人間だったとして、
ここまで深く感情移入できる?
いや、たぶんできない。
もしかすると看護師ではないのかもしれない。
その相手は、また私の手の平に文字をなぞり始める。
やはりひらがなではない。
カタカナでもアルファベットでもない。
ドイツ語とかだったら分からないけど。
だけど、日本人の患者に対して、
他言語でコミュニケーションを取ろうとすることなんてある?
可能性としては、重症の私は、治療できる可能性のある医療先進国に運ばれていて、
この看護師(ではないかも)さんは母国語しか知らないとか?
その相手は私の右手をベッドに戻した。
また医者を呼んできて診察をするのかもしれない。
これからだ。
私を脳死状態と診断させるわけにはいかない。
私には確かに意識がある。
私の右手にごつごつした手が触れる。
そして私の手の平に何かをなぞる。
看護師|(ではないかも)さんの報告を自分で確かめたいらしい。
私は同じようにその指先をつかみ、また手の平をなぞる。
これで伝わるはず……
再びごつごつした手は私の手の平をなぞり、
そして私の指先に自分の手の平を差し出す。
なぞったメッセージに対して、何か返事をしてくれということ?
しかし私には、何を伝えられていて、
どのようになぞればそれに対する返事になるのか、
わからない。
それにしても、医者が日本人の患者に対して、
英語でも日本語でもない文字でコミュニケーションを取ろうとするのは、
いくらなんでもおかしい。
とりあえず「?」となぞってみる。
ごつごつした手が私の右手を放す。
そして私の目がその手に開けられる。
続けて耳元に振動を感じる。
そしてまた、私の指先にその手の平が差し出される。
「見えているのか?」「聞こえているのか?」と問われているのかもしれない。
しかし私にはそれがわからないし、
どうなぞれば意味の伝わる返事になるのかのかもわからない。
しばらく間があった後、私はごつごつした大きな体に抱きしめられる。
セクハラだとか思うわけないような、親しみを感じるハグだ。
もし私が医者になって、初めて担当することになった患者が植物人間だったとして、
ここまで深く感情移入できる?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます