第29話 事件の終わり(1)
水族館に鯨井さんから連絡があった。会ってもらえることになり、壮介は水族館の公用車で芸大へ向かった。
音楽学部のキャンパスにも美術学部とは別に学食がある。学食へはいってゆくと、一人の学生が立ち上がって手を振ってきた。壮介は水族館のつなぎの上を脱いで腰に縛り、ティーシャツは水族館のロゴ入りという出で立ちだから、すぐにそれとわかる。親しくもない女性から手を振られて、ちょっとドキッとしてしまった。
コーヒーを買って、カップを手に鯨井さんの向かいの席に落ち着いた。学食のつくりは、美術学部のキャンパスにあるのと同じだ。雰囲気は全然ちがう。利用している学生の種類がちがうということだ。
「今日は、わざわざ大学にきてくれたんですか?」
「いえいえ。ガッコにはだいたい毎日きてるんです。うち楽器演奏可のマンションなんですけど、やっぱりガッコの方が気兼ねしなくていいので」
「そうなんですね。一日でも休むとダメっていいますね」
壮介は、自分の考えているイベントの内容を話した。水族館にきて下見してもらう。十一月から二月まで月一回、四回演奏会を開催する。演奏場所を回ごとにかえ、場所に合った楽器や曲にする。そんなことだ。プログラムの決定、演奏者の手配など、おんぶに抱っこでお願いできるということになり、大いに心強かった。
鯨井さんの指にはまった指輪に目を止める。
「笹井さんとは、芸大の事件で知り合ったんです」
「はい」
笹井さんから聞いているのだろう。
「最近誕生日きました?」
「八月です」
事件は八月はじめだった。ギリギリ間に合ったということか。
「彼氏からのプレゼントは、クジラのケースに入った指輪ですか」
鯨井さんの目が見開かれる。視線を落として、指輪を見つめる。
「ほかには彼氏からもらってないですね」
首をかしげる。ならいいと壮介は納得した。
「鯨井さんにクジラって、お茶目ですね」
「ベタすぎます」
鯨井さんは恥ずかしそうに笑った。もう立ち直っている。
「あの巨大な壁画のオブジェは、どうなるんですかね?」
「なんですか?」
「あれ?アトリエ行ってないですか?こんなでっかくて曲面になっていて、全面に幾何学模様が描いてあるやつ」
「アトリエ?例の事件のですか?行ってないです」
阿久津さんの彼女がアトリエに行っていないというのは、壮介の推理ではありえない。
「彼氏って美術学部でしたよね」
「いえ、同じ音楽学部でバイオリン弾いてますけど」
壮介は大きな間違いに陥っていたと認識した。
「すみません。ありがとうございました。あ、そうだ。その彼氏は、笹井さんとも面識があるんですか?」
「はい。留学先で三人とも一緒のアパルトマンだったんで」
「わかりました。イベントの件は進めさせてもらいますので、また連絡します」
壮介は焦っていた。公用車に戻ると、シートを倒して目をつぶった。
間違っていた。阿久津さんの彼女は鯨井さんじゃない。なぜこんなことになったのか。なにかがおかしい。クジラのオブジェは彼女の手元に行ったはずじゃないのか。もう阿久津さんの彼女を突き止める必要はないのか。いや、まだだ。
どのくらいたったか。数分といったところが、壮介の感覚だった。
美術学部のキャンパスの学食に移動した。壮介は無料で飲めるお茶をくんで、奥の方の席に座を占めた。笹井さんがやってきた。
「笹井さんが、クジラさんだったんですね」
「どういうことですか」
とぼけているのだろうか。
「阿久津さんの彼女は笹井さんだったんでしょう?」
「鯨井さんに会ったんですね」
「鯨井さんが阿久津さんの彼女かと思って話してたら、あの巨大オブジェのこと知らなくて。話がかみ合わなくなっちゃったんです。聞いてみたら、鯨井さんがお付き合いしているのは音楽学部のバイオリンの人だっていうんで、自分がまったく思い違いをしていたとわかったんです」
笹井さんはずっと学食のテーブルの表面を見つめている。
「気づかないと思いました?」
「賭けです。勘違いしたまま済ませられればいいなと」
「なぜそんなことする必要があるんです?笹井さんが彼女だからといって困ることなんてないんじゃないですか。クスリを飲ませました?」
笹井さんは首を振る。
「せっかく阿久津さんが作ってくれたクジラ、鯨井さんに行っちゃいましたよ」
「だって、あれは鯨井さんのために作ったものだから」
「はあ?」
やはり、笹井さんは間違っていた。壮介も、笹井さんの誘導で間違わされていたわけだけど。誘導でもないか、ただのひとり相撲だ。
「相内さん言ってましたよ、彼女のために作ったって。笹井さんの誕生日いつです?」
「明日」
「明日ですか。おめでとうございます。なぜ彼女の笹井さんじゃなくて鯨井さんのために作ったと思うんです?さっぱりわからない」
「わたしが鯨井さんを紹介したら、すごく気に入って。鯨井さんのことすごい褒めるんです」
「嫉妬ですか」
「悪いですか」
「ひどい仕打ちだと思いますよ。噂は信じてなかったんでしょう?」
「噂は、わざと噂になるように振る舞ってただけです」
「だったら」
「ひとりで鯨井さんのところいって、練習聴いてきて。わたしに向かって鯨井さんのこと褒めちぎるんです。そんなのはじめてで。鯨井さんだけ。いい気持で聞いていられるわけないじゃないですか」
「それは、鯨井さんの演奏を褒めたんでしょう?笹井さんの友達だからオーバーに褒めたかもしれませんよ?鯨井さんには付き合っている人がいるんだし。阿久津さんは一途な人だって、相内さん言ってたけどな。それで鯨井さんのためにオブジェ作ったと思っちゃったんですか」
「だって、クジラだし」
「そんなベタなことする人ですか?阿久津さんというのは」
さっきまでは、納得していたわけだけど。
「しない人です」
「じゃあ、鯨井さんにクジラってのはおかしいですよね。もう少しひねってるはずじゃないですか」
「ひねるってどういうことですか」
「クジラって、昔なんていわれてたか知ってます?」
「クジラはクジラでしょう」
「おれ、海洋生物学を勉強してたんです。今もだけど。だからというわけじゃないけど、クジラの昔の名前を知ってるんです。
『いさな』
ちょっと違うかな。万葉集で使われた言葉ですね。雅な呼び方って感じ」
笹井さんは頭をテーブルにぶつけんばかりに、頭を垂れている。誤解を解くことができたようだ。
「鯨井さんには事情を話してオブジェ、返してもらった方がいいです」
お茶を一口。
「指輪は阿久津さんが用意してました?」
首を軸に頭を振る。オブジェの中身は、相内さんから指輪の予定とだけ聞いている。
「まだ時間あったからですね。どうするはずだったのかな。指輪も自分でつくるつもりだったってことはないですかね」
「あるかもしれません」
笹井さんの頭がすこし上向いた。
「クジラのケースに納めてなかったということは、少なくとも完成したものはなかったんですよね。デザイン画とか、作りかけとかあったらいいけど。指輪を作る科ってないですか」
「それ、わたしの科、工芸科の彫金です」
「へー、あるんだ。でも、作りかけとかあったら、クジラのケースにいれるか。あるとしたらデザイン画かな。一応まわりの彫金の人に声かけたらいいですよ。相内さんみたいに手伝った人がいるかもしれない」
なにか引っかかるものを感じる。言葉になるまえのもやもやした感覚。
「ああ、そうか。指輪のデザイン画ってどういうものですか」
「わかりません」
「あー、阿久津さんのアトリエの鍵。警備員室で借りられるんでしたっけ」
「たぶん、借りられます」
「よし、行きましょう」
お茶の椀を下膳口にさげて、すぐに学食を出た。警備員室で鍵を借りて、阿久津さんのアトリエに向かう。
「では、開けてください」
鍵を開けて、ドアをスライドする。呪いのアトリエにはいるのは三度目だ。悪いことが起こらなければいいけど。壮介が中に入って照明をつける。
「よかった。コスタ・アラベスク、まだありましたね」
「これがどうしたんですか」
バッグを漁る。常備しているコンパクトデジカメを取り出した。
「えーと、どうやったら撮れるかな」
下から頭を突っこんでオブジェの穴をのぞき込む。上の筒を通った光が届くから、穴の中はどうにか見える。目的の模様は、壮介にとって背中側だ。
靴を脱ぐ。体を反転させ、オブジェの下の筒の足がわりになっているところを踵で軽く踏んで姿勢を安定させる。オブジェのくびれているところに背中をつけて体を預けている。ちょうど正面あたりに模様をとらえた。デジカメをマクロ撮影に設定する。フラッシュを焚いたバージョンと焚かないバージョンを撮影する。オブジェの反対側にまわって、同じように撮影する。
「これ、指輪のデザインっぽくないですか」
撮影した画像を見せる。
「きっとそう。なんでこんなところに」
「さあ、いたずらですかね。これで、指輪をこの通りに作れますよね」
頭がうなづく。
「合作ですね」
もう一度。
「余計なことしました?」
首を振る。
「なんか、あらためて、ローズが死んじゃったんだなって。それに、ヒドいことしちゃった。ローズの気持ちを疑うなんて、わたし」
笹井さんが胸にしがみついてきた。腕をまわして背中をさすってやる。大切な人を残し、若くして死んでしまうなんて、罪深いことだ。
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