第22話 相内さん、走る
翌朝、壮介は悲鳴とともに起きた。体中が痛かったからだ。遊園地でフリーフォールとジェットコースターに乗っているあいだ体中の筋肉に全力を込めていたせいで、全身が筋肉痛になっていた。
相内さんも、うるさいなあといった趣で起きだして、ベッドの上にすわった。パジャマは胸元が大きく開いていて、壮介には目の毒だ。いや、目にはいいけど、心臓に毒だ。
「すみません、起こしてしまって」
「どうしたんですか」
「体中が筋肉痛で」
「昨日はガンバっちゃいましたからね」
「なんかいやらしく聞こえますよ」
「あら、そうだったかしら」
寝起きだからか、声がすこしハスキーだ。けだるそうな様子とあいまって、セクシーな印象だ。垂れた髪をかきあげたりしている。
「寝てて大丈夫ですよ。朝メシ食って仕事行きますから」
「そう。おやすみなさい」
相内さんは、またベッドに倒れ込んだ。
仕事は、体をいたわりながらこなさなければならなかった。全身が痛くて、顔がゆがむ。
「なんや、その怖い顔は。お客さんが怯えてまうやろ」
片手でバケツを持ち、片手を腰に当てて水槽内をよちよち進む。
「あいたた。昨日ちょっとな」
「ぎっくり腰かいな。まだ若いのに」
「ちがうわ」
アデリーペンギンに矢の催促をされて給餌を開始する。くちばしでつついてくる。
「ペンスケも一度乗ったらいいのに」
「なんの話や」
「昨日行ってきたんだよ、そこの遊園地に」
「なんや、デートの自慢かいな。ごちそうさん」
ペンスケは両のフリッパーを広げた。人間でいう、肩をすくめるというやつだ。
「例の、あの置物の子やろ?」
「そうだ。相内さん。悪魔だったよ」
「せやろな。キレイなバラにはトゲがあるっちゅうやっちゃ」
「それか。忘れてたよ。はじめは動物園に行ったんだ」
「そんなとこ行ったんかい。つまらんかったやろ」
「いや、おれハシャギ過ぎちゃってさ。相内さんの機嫌が悪くなっちゃって。半分見ただけで出てきちゃったんだよ」
「動物園なんか行くからや。つまらんかったんやろな」
「で、メシ食って、午後は遊園地に行ったんだけどな」
「今度は機嫌ようなったんか」
「フリーフォールに三連続強制的に乗せられた」
「フリーフォールゆうたら、あれや。ヒュー落ちるやつや。魂おいてけぼりになるで」
フリッパーを上下にパタパタやって、フリーフォールを表現した。
「ああ、あれはなるな。魂抜けたよ」
「よう生きとったな」
壮介は、肩を叩いて励まされた。
「でも、それだけで終わらないんだ」
「なんやて」
「相内さんは、足腰の立たなくなったおれを引っ張って、ジェットコースターの列に連れて行ったんだ」
「オニー、アクマー」
「ジェットコースターにも三回乗れといわれた」
「大魔王だったか!」
フリッパーで頭をかかえた。
「一回乗っただけで、おれは灰になって、動けなくなったけどな」
「そらそうや、こちとらフリーフォール三回乗っとるんや」
「相内さん、あとはひとりでジェットコースター乗ってたよ」
「はじめから一人で乗れやー」
「おれも、そう思う」
「で、大魔王はどうしたんや」
「うちにいる」
「なんで、壮介のうちにおんねん。あのあとずっと居すわっとるっちゅうことかいな」
「そうだよ。一週間くらいか」
「なんやねん、それ」
「焼きもちか?」
「だれがこんなオッサンのために焼きもち焼くんや。んなわけないやろ」
アデリーペンギンの給餌が終わって、つぎはキングペンギンだ。
「お人よしやな。なんも手ぇださんと」
「もう帰ってもらうけどな。そんなこんなで、今日は体中がボロボロなんだ」
「疫病神やな」
昼食は風邪のときの借りを返すべく、お互いの出勤日は毎日美作さんと食べている。昨日会っているから、当然のごとくデートの話になり、筋肉痛になったといったら、おかしそうに笑った。相内さんとのデートの話をしても機嫌を損ねることがないから、リラックスして話せる。同期はいいものだ。美作さんは昨日残業だったらしい。それで、帰宅があの時間になったのだといった。
午後、作業が一段落して飼育員室の席に体をかばいながらそろそろと腰をおろそうとしていたところに、金子さんが歩いてきた。
「久保田、午後になって雷注意報がでてるってよ」
「げっ。勘弁してほしいですね」
「群馬だからしかたねえな。さっき、発電機はエンジン始動して見といたから」
「ありがとうございます」
「どうした、痔にでもなったか」
となりの席まで金子さんがやってきて、イスにすわる。壮介もイスに落ち着いた。
「いや、昨日フリーフォールに三回、ジェットコースターに一回乗りまして、今日は体ボロボロなんです」
「なんだ、だらしねえな」
「金子さんは、加速度系大丈夫なんですか?」
「カミさんに鍛えられたからな」
「鍛えたら大丈夫になるんですか」
「三百回くらい乗ればな」
「そんなに乗ったんですか」
「毎週、朝から晩までってくらい、ジェットコースターとか乗ってたな。一時期は」
「耐えられません」
「まあ、愛だな。愛」
「はあ。尊敬します」
「いままでしてなかったのか?」
「思いを新たにしました」
「冗談だよ」
ばしぃんと壮介の背中を叩いた。どこが冗談だったのかわからない。金子さんは、部屋をでていった。たぶん給餌の時間なのだろう。
コーヒーを飲みたいと思ったけど、また立ち上がってと思うと、脳内会議によりガマンした方がよいということに決まった。
論文のチェックをしていたら、飼育員室の照明が落ちた。停電だ。さっきから雷が鳴っていることは気づいていたけど、本当に雷が落ちて停電になるとは思っていなかった。パソコンは、ユーピーエスが作動してシャットダウンがかかっっている。壮介は苦痛に顔をゆがめてバックヤードを走る。こんなときに、ついてない。金子さんが給餌しているところまでたどりついて声をかける。
「金子さん。停電です」
「わあってる。機械見てきてくれい」
「はい」
予備電源でまかなわれるのは、動物たちを生かす装置と、フロント側のお客さんのための照明やエレベータだ。水槽の照明が急に切れるとペンギンがパニックを起こすという話を聞く。水槽の壁に激突したりして危険なのだ。国立水族館では、予備電源で照明をつけつづけられるからその心配はない。
またバックヤードを駆けて、機械を見てまわる。非常灯しかついていないから暗い。水の浄化装置、冷却装置、空調、照明。それぞれが予備電源で作動していること、異常がないことを確認、機械の設定がかわってないこともチェックする。作動音がうるさい。機械がまわる音に加えて、空気の流れる音、水がバシャバシャと落ちる音がしている。
周囲の音に、無線の声がまじった。
『飼育員、飼育員』
壮介が出る必要がある。
「はい、飼育員です」
『久保田くんに受付にくるように言ってください』
「久保田です。どうしました」
『受付に相内さんがきてます。至急お願いします』
なんてタイミングだ。このバタバタはなんなんだ。なにかの陰謀にでも巻き込まれているのか。だとしたら、首謀者は相内さんしかいない。
「なんの用だっていってます?」
『いまちょっと話せないみたい』
残りのチェックを済ませて、バックヤードを駆けた。さっきから、ずっと駆けっぱなしだ。ボロボロの体がいうことをきかずに、いつものようにスムーズに走れない。満身創痍でヒロインのために駆ける映画の主人公になった気分だ。
相内さんが職場にきて、しかも受付から至急で呼び出したということは、ただごとではない。なにかあったのだ。事件の見立てが間違っていて、館林まで犯人の手がおよんだのか?ますます映画の主人公みたいだ。ともかく無線をもってきていてよかった。
受付の近くのドアに勢いよくぶつかって、慣性を殺した。ドアの向こう側に大きな音が響いただろう。人がいたら、よけてくれたはずだ。ソロソロとドアを開け、体を隙間から通してバックヤードからエントランス横に出る。
受付の富田さんと目があった。富田さんが示した先に、館内のキューブソファに臥せっている相内さんが見えた。壮介は駆け寄り、横にすわりこむ。
「おい、沙莉!どうした。沙莉!」
壮介は頭に衝撃を受けた。頭をあげる。富田さんのチョップを食らったのだった。
「落ち着きなさい。この子はなんともないから。走ってきて疲れているだけ。あと、途中から雨が降り出して、少し濡れてる」
相内さんが、伏せていた顔を横向けた。眉根を寄せている。
「け、警察が」
「警察?警察がきたのか?逃げてきたのか?」
事件に相内さんが関与していたということか?壮介が、可能性を疑ったことだった。
「いまから普通列車で鹿児島まで行くんだ。そしたら、知り合いの漁師がいるから、沖縄、台湾と渡るんだ。ウェイボーという中国のツイッターみたいのにアカウント作って、連絡に使う。おれのアカウント知らせるから」
ふたたび富田さんのチョップ。
「つい、面白くて聞いちゃったじゃないの。この子の話を最後まで聞きなさい」
「警察が、友達つれてっちゃった。どうしよう。久保田さん」
相内さんが体を起こす。力が抜けた。ソファに背をもたせかけて床にしゃがみこむ。とたんに体中の筋肉痛が襲ってきて、顔がゆがみ、息がとまる。
「なんだ、すっごい焦ったよ。相内さんがどうかしたのかと思った。友達か」
「久保田くん、あからさまに気を抜かない」
「すみません、お騒がせしました」
気づけば、まわりに人だかりができていた。壮介は立ち上がって、まわりのお客さんに頭をさげる。お客さんたちが散開してゆく。落ち着いてきたところで、相内さんの横に膝立ちになって話を続ける。
「相内さん、まさか友達を警察から奪い返せとかいわないですよね」
「奪い返す?ううん、彼女が犯人じゃないって証明してください」
「犯人じゃないのに連れていかれたの?警察もバカじゃないから、犯人じゃなければ解放されるんじゃない?」
「罠だったら?冤罪で死刑になっちゃうかもしれない。わたしのせいかもしれないのに。久保田さん、助けて!」
興奮しすぎたのだろう、相内さんは魅力的な目から宝石の涙をこぼした。ああ、これは強力だ。物語でよく女を泣かすやつは許さないというセリフがあるけど、そんな気分にさせる力があると、胸が熱くなった。でも壮介は映画の主人公ではなく、こんなときはとんでもなく間抜けだった。
「お、おう」
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