第16話 ダウンしてしまった
朝起きたとき、少しノドに痛みを感じた。壮介は夏の寝苦しい今の時期、エアコンをつけっぱなしで寝ている。ノドの痛みは、おそらくエアコンで空気が乾燥したせいだ。うがいをして冷蔵庫から野菜ジュースを出し、コップに半分注いだ。口をつけると、一気に飲み干した。そうとう水分が不足していたらしい。クラゲの水槽に目がいく。もちろんクラゲは乾燥しない。まわりに十分水がある。挨拶のつもりか、パクッと傘をとじた。もうコップに半分、野菜ジュースを注いで飲んだ。
壮介が寝ているソファは、エアコンからほぼ水平に吹き出す冷たい空気がちょうど落ちてくるあたりなのかもしれない。キッチンから部屋を見渡すと、そのように見える。あまり体によくない。はやく警察が事件を解決してくれるといいけど。相内さんがうちにいたのでは、ベッドを占領されてしまってソファで寝る生活から抜け出せない。ほかにも支障がある。
朝食を済ませ、いつも通り静かに家をでる。自転車をこいでいるうちにノドがいがらっぽくなって、咳き込んでしまう。ノドの乾燥はしつこいのかもしれない。
ペンギンの餌用の魚は冷凍して保存されている。解凍しなければ餌をやれない。解凍に時間がかかるから、前日から解凍をはじめなければならない。
午後、壮介は冷凍庫から凍った魚の塊をだしてきて、海水のはいった専用の水槽に放りこんだ。いまは、エンペラーペンギンのペンスケとキングペンギンにはホッケ、アデリーペンギンにはマメアジを餌として与えている。魚の入手しやすさなどでメニューはかわる。
これであとは放っておけば翌朝には魚が解けている。次は何するんだったっけと思ったら、目眩に襲われた。水槽の縁に手をかけてすわりこむ。額に手をあてる。急に熱がでてきたらしい。
ベッドに寝た状態で気がついた。医務室だ。動物病院じゃなくてよかった。
「お、目が覚めた」
美作さん。イルカのトレーナーだ。
「ああ、餌を解凍してて立ってられなくなったんだった。美作さんがここに?」
「重かったぞ」
「ごめん。あれ?仕事あるよね、ありがとう、もう大丈夫だからもどって」
「残念でした。久保田が起きたら家まで送ってやれって、課長にいわれちゃったんでした」
「えー。一人で帰れるのに」
「なぜそんなことがいえるのか。立っていただけで気を失った人間が」
「科学的ではないと」
歌うように節をつけて、まあねと言った。
「ありがとう、お願いします」
「素直でよろしい」
折りたたみイスからベッドの端に腰を移す。手が伸びて、壮介の前髪をかきあげる。顔を近づけ、額をつけた。
「熱高いな。気分わるいんじゃないの」
「いや、なんか幸福感がある」
「それ、死ぬ直前なんじゃ」
壮介はなんだかおかしかった。
「なぜ笑う。あ、美女の顔が近くで拝めて幸せってことだった?」
「いや、ぽかぽかして、世界が輝いてみえて。うん、女神が見えるからです」
「危機を察知するくらいの精神活動はできるみたいね」
「帰るなら引継ぎを」
「金子さんが全部まかせろっていってたよ」
「ああ、金子さんが。じゃあ大丈夫だ」
壮介は一度目をつぶって、開けた。
「美作さん」
「なに?」
「本当に女神だなって感じてるよ」
「そりゃヤバい。もう一度寝た方がいいな。わたしはちょっとひと仕事してくる。もどったら家に送るから。それまで寝てな」
「はい」
壮介は目を閉じた。今朝のノドの痛みは、すでに風邪の症状があらわれたものだったようだ。そういえば、昼も食欲がわかなかった。熱があるのに、こんなにぽかぽかで快適なのは、熱があがりすぎているせいか。いまノドはあまり痛くない。
壮介が気づいたとき、美作さんが医務室のドアを開けてはいってくるところだった。
「ごめん、起こした?」
「ちょうどいいタイミングだったみたい」
「そう。調子はどう?起きあがってみて」
壮介はベッドで体を起こす。頭がガンガンした。こめかみのあたりを渡すように左手を広げて親指と薬指で押さえる。
どれといって、美作さんがまた額をつけて熱を見る。
「あいかわらずか」
「申し訳ない」
「借りは高くつくよ」
「分割でお願いします」
「牛丼一箇月とか?」
「本当に高かった」
「よし、じゃあ行くか」
美作さんにうながされて、壮介は靴をはいてベッドを抜け出た。美作さんが肩を貸してくれる。高さがちょうどよい。
「お大事に」
背中から医務の人の声。いたのかと驚いた。美作さんとのやり取りを聞かれていたかと思うと恥ずかしさがこみあげる。壮介は一度振り向いて医務室を出る。医務の人の姿は見えなかった。
「いたんだね」
「知らなかったの?」
「おでこで熱はからなくても、体温計だしてくれたんじゃない?」
「ぼおっとしてればいいの」
よくわからない指示を受けて、考えることをやめた。
美作さんは、水族館の公用車に自転車を載せて一緒にアパートまで送ってくれた。また肩を借りて玄関前までたどり着いた。ズボンのポケットにある鍵を渡して開けてもらう。ドアを開けて、美作さんが固まった。
「だれ?」
「だれ?」
耳の近くの美作さんの声と、部屋の中からの声が一緒に聞こえてきた。部屋に相内さんがいるのを話していなかった。
「えっと、相内さん。芸大生。泥棒ではない」
壮介は都合よく力尽きた。
つぎに気づいたときには、夕方になっていた。部屋に入ってくる光が夕方の光だ。壮介は自分のベッドに寝ている。横に相内さんの寝顔があって驚いた。そういえば、体に接しているものがある。足を動かしたいと思って、足にのっかっている、たぶん相内さんの足を手でどける。いや、手の感触がおかしい。しっとり柔らかで、なめらか。
「なにしてんですか」
手から相内さんの足らしきものが逃げていった。足が解放された。
「起こしてすみません。足が固まって、動かしたかったので」
「それで、股間をまさぐるんですか」
「股間?いやいや、そんなつもりは」
「股間をまさぐるつもりはなかったと、そんなことしたくなかったのにやらされてしまったと。被害者ヅラですか」
「そんなこと言ってません。なんか感触がおかしいとは思ったんですけど」
「乙女の柔肌を蹂躙したんですよ」
「柔肌って、服はどうしたんですか」
「体をあたためるには直接っていうでしょう」
「ごめんなさい」
「やっと容疑を認める気になりましたか」
「わざとじゃないんです、刑事さん」
「そんないいわけが通用すると思っているのか」
「でも、熱があって、体がポカポカだったのに、あたためる必要があったんですか?」
「それは、やってみたかったからです」
「おれのせいじゃないじゃないですか」
「久保田さんのせいです。女の人に抱きついて帰ってくるのが悪いんです」
「誤解です。肩を借りてただけです」
やっぱりそういうことになるか。
「久保田さんを連れてきた人、そのあとどうしたと思います?」
「なにかありましたか」
「わたしが手を貸そうとしたら、慣れてるから大丈夫って言うんです」
「はあ」
「久保田さんをベッドに連れて行って、クローゼットからパジャマだして着替えさせて、どこからか冷えピタをだしてきて貼りつけたんです。わたしがやるっていっても、自分がやった方が早いからっていって手を出させてくれなかったんですよ。しかも、すっごい手慣れてる。この部屋のどこになにがあるか知り尽くしてる。そんな感じで」
「まあ、美作さんだから」
美作さんは、同い年なのに姉御肌なのだ。
「ついでに、おじやまで作っていきましたよ」
「ありがたい」
「わたしが腹立ててるのに感謝しないでください。余計腹が立つ」
「まあまあ、いつも相内さんがご飯つくってくれるのもありがたいですよ?」
「そうですか?」
「そうですよ。苦手な料理に挑戦してくれて、大感謝です」
「別に、苦手じゃないけど」
「そうでした」
午後に倒れてまだ夕方だから、長いこと寝ていたわけではない。でも、体はかなり楽になった。相内さんとも、どうにかやりあえる。
「美作さんは、同期なんですよ。就職して一年目とかは、水族館から近いから同期でうちに集まってよく宴会してたんです。それで部屋の中を熟知してるんです」
「もしかして、泊ったことあります?」
「美作さんが?。女性だからないと思うけど。どうだろ。あのころけっこう、みんな酒飲んで朝までってことあったから。もしかしたら」
「演技しなくてもいいですよ」
「え、演技じゃ、ないです。本当にわからないんですって」
「付き合ってもいなかったですか」
「とんでもない」
「聞いてもいいですか。彼女いない歴というやつ」
「え。えーと、ノーコメントで」
「ふん」
「あの、それで、もう体はあたたまりました」
「それはよかったです」
「あっち向いてるんで、服、着てもらえますか」
相内さんが抱きついてきて、ぎゅーっと締め付けられる。足もからめてきている。なんだかとっても、言葉ではいいあらわせない。
「相内さん、いまのは?」
「体があったまったか確かめたんです」
「なんという斬新な確かめ方だ」
反対を向いているあいだに相内さんは服を着てくれた。天国と地獄はとなりあわせだ。人間には地上がふさわしい。地上がどこにあるかはわからない。壮介は地上を探してふらふらとさまよっている。
壮介もベッドをでて、テーブルでポカリを飲む。
「夕食はうどんにしますか?」
「あれ?美作さんがおじや作ってくれたんじゃ」
壮介の体はおじやの受け入れ態勢が万全だ。
「おじやは、わたしが食べます」
「そんな」
「文句が?」
「少ししかないんですか?」
「いえ、たっぷりありますよ」
「それはなにか、女のプライド的な」
「そんなところです」
「相内さんにおまかせします」
壮介はうなだれた。今度は、美作さんになんといっていいかわからなくなる。
相内さんの作ってくれたうどんを食べた。体が熱くなって汗をかいている。
「はい、ベッドに行ってパジャマ脱いでください」
手にタオルをもっている。
「体なら、自分で拭けます」
「拭かなくてもいいんですよ?久保田さんの匂い嫌いじゃないんで」
自分で拭くことは許されないらしかった。いわれるままに、ベッドでパジャマを脱いで上半身裸になった。
「恥ずかしがることないじゃないですか。背中を洗ってあげた仲なんですから」
「はあ」
首、腕、背中を拭かれて、気持ちがいいことは気持ちがいい。背中になにか触る感触があって、のけぞる。
「いまの!なんですか」
「ちゃんと拭けたか、ちゅっと確認しただけです」
「ちゅっとどころか、舌で舐めましたよね。もう、斬新な確認の仕方はやめてください。確認はいいですから」
「それじゃつまらないじゃないですか」
「あとは自分で拭くんで」
タオルを受け取ろうとするけど、相内さんは手を引っ込めて渡そうとしない。
「コミュニケーション」
「いっぱい話をしてコミュニケーションは取れてると思いますよ」
「スキンシップ」
「そういう誘惑するようなことを我慢するかわりにデートする約束なんですけど」
「そんな約束」
「デートの約束しませんでした?」
「しました」
相内さんがしおれてしまった。また熱があがりそうだ。
寝るときは、同じベッドで寝るしかなかった。相内さんは壮介の腕に抱きついて寝た。手の位置が非常に困った。この調子では体がもたない。抱き枕を調達する必要があると覚えようとした。たいてい寝て起きると忘れてしまう。
翌日、壮介は休暇をとった。まわりの人にうつすといけないから、体調を悪くしたら休暇をとる決まりになっている。一日のほとんどをベッドで過ごした。相内さんがなにかと普通の世話をしてくれた。機嫌がなおったと、壮介はほっとした。
早退と一日の休暇のあと仕事に復帰できた。相内さんはデートを延期にすべきかということを気にしていたみたいだ。迷惑をかけた人に挨拶をしてまわる。医務室の人には、何もしてないと言われたけど、ホントだよと心の中でツッコんでおいた。
「お、復活したね」
壮介はイルカのプールまで遠征してきた。朝の日差しが強烈で、目の前に手をかざさないと目が開けていられない。水面に太陽光がギラギラ反射している。イルカのトレーナーはサングラスをかけている。かっこいい。
「ありがとう。助かったよ」
「なんの。お互いさまだよ。それより、余計なことしちゃったかな」
「ああ、相内さん?うん、なんか対抗心が刺激されたみたいだった」
「彼女なの?」
「いや、保護してるつもりなんだけど」
「絶滅危惧種かなんか?」
「そんなものかな」
「なにそれ、面白い。フラれて傷ついたらおいで。わたしが保護してあげるから」
「芸仕込まれそうで怖いな」
「うまい」
手にもった笛をくわえて、合図とともにピッと吹いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます