第14話 密室殺人かもしれない事件(2)

 水槽にはいって、午後の給餌をする。お客さんが大勢見ている。相内さん作成のオブジェも好評だ。

 相内さんは、いまごろ荷物をとって館林に向かってきているだろうか。このまま相内さんと関係のないところで事件が終わってくれればいいけど。たとえば、ピッキングした油画の大学院生が壁画の大学院生の頭を殴っておいて、なにかの原因で亡くなったとすれば、一番シンプルですべて解決、メデタシメデタシなんだけど。中に生きた人がいるのにピッキングするアホはいないわけで、現実はキビシイ。いや、ピッキングはいつしたのかわからない。事件より前にピッキングしてアトリエに忍び込んだことがあったのかもしれない。事件のときはノックしたとか、鍵が開いていたとか。するとどうなる?うん、メデタシかもしれない。

 背中にバシィーンと衝撃があって、壮介は我に返るとともに、蹲踞の姿勢から一歩前に足を出した。はずみで餌のはいったバケツを蹴飛ばした。驚いて振り返ると、ペンスケが無言で立っている。

 いつの間にか自分の世界にはいってしまい、給餌の手が止まっていた。一度散ったアデリーペンギンたちがまた殺到して、バケツに頭を突っ込んでいる。大騒ぎだ。さっきまでのこんな状況を見かねたペンスケがフリッパーで背中を叩いて現実に引き戻してくれたらしい。お客さんが見ている前で失態を演じてしまった。

 観覧スペースを見ると、お客さんは笑っている。夏休みだ。被害は大きい。水槽の前で父親に脇を抱え上げられている小さい男の子は、壮介を指さしていた。苦笑いとともに手を振る。

 エンペラーペンギンは現存する最大のペンギンだ。フリッパーで叩かれたときの衝撃は大したもので、アザができたりする。壮介は背中が痛かったけど、苦笑を顔に貼りつけてアデリーペンギンの給餌をあらためて開始した。

「すまん。考えごとしてた」

「シャキッとせえ。あの子のこと考えとったんか」

「まあ、そんなところだ」

 無駄と知りながら、頭を整理するために、ペンスケに芸大の事件のことを話した。

「それで、仕事に身が入らんかったんかいな」

「いまはうちにいるから、大丈夫なはずなんだけどな」

「なんや、部屋に連れ込んどるんか」

「まあ、そうなんだ」

「なんも心配することあらへんやんか」

「相内さんが、事件に関わってないかってことも心配なんだ」

「犯人側の人間かもしれへんのか」

「犯人とまではいわないけど、なにか後ろ暗いことがあるかもしれないなと」

「ほうか。そしたら逮捕やな」

 終業時刻が近くなると、壮介は落ち着かなくなり、業務終了後は素早く帰り支度をして水族館をあとにした。ケータイの履歴に着信はなかった。

 自分の部屋の前にきて、こういうときはどうやって入っていったらいいんだろうかと、わからなくなってしまった。チャイムを鳴らすべきなのか。なにもなしで鍵を開けてはいっていっていいものか。ノックするのはおかしいよな。

 チャイムを鳴らしてから鍵を開けた。鍵は部屋にいる間も閉めておくようにいってあった。一歩中に入ると、相内さんがベッドの横でズボンに足をいれようとしているところだった。その姿を横から見てしまった。目が合った。なんともいえない目の光を宿している。壮介は、踏み入れた足をもどしてドアを閉めた。

 これが、ラッキースケベ。現実にあるとは考えていなかった。ファンタジーの世界の出来事だと思っていた。あずみと長いこと一緒に暮らしていたけど、一度もこんなことはなかった。これは、運命なんだろうか。ドアにもたれて空を見る。夕方ももう終わる。

 黄金の淡い光が、レースのカーテンを抜け、南西向きの部屋のあちこちに反射して、やわらかな光となって下半身下着姿の相内さんの美しい肢体を浮かび上がらせていた。フェルメールの絵のような、素晴らしいとしかいいようのない眺めであった。

 しかし、これは現実。このあとすぐに相内さんと顔をあわせなければならない。なんといったらいいのだろうか。謝ったらいいのだろうか。礼をいったらいいのだろうか。褒めたらいいのだろうか。

 廊下の手すりに手をついて、うなだれる。気まずい。逃げてしまおうか。

 背中に何か触るものを感じて、壮介は飛び上がるほど驚いた。

「着替え、終わったので、はいってください」

 振り向いたときには、相内さんの背中しか見えなかった。いまの口調は、怒っているようではなかった、と思う。恐る恐るドアを開ける。相内さんはソファにかけていた。

「突っ立ってないで、中に入ってください」

 ドアを後ろ手に閉めて、靴を脱ぐ。部屋にはいって、いつもの場所に荷物を置く。洗面所で手と顔を洗って、うがいもする。ソファの前にゆくと、相内さんが見上げてきた。

「あの。ど、どうでした?そんなにダメでした?」

「いえ、とんでもない。けっこうなものでございました」

 おかしなことを言っているという自覚が、壮介にはあった。しかし、どうにもならない。となりに腰かける。相内さんの目は、壮介を逃さない。

「見たくなかった?」

「それは、なんとも答えられません」

 見たかったと言えば、そんなつもりでいままで接していたのかということになるし、見たくなかったと言えば、相内さんに魅力がないようにとられてしまうし。答えのない質問のようなものだ。

「えーと、これからはチャイムを鳴らして、しばらく待ってから開けるようにします。今日は、ちょっと焦って開けてしまったので」

「なにかあったんですか?焦るようなことが」

「なんというか。相内さんが、ちゃんといてくれるかなと」

「わたしを心配して?」

「ま、まあ」

 相内さんが抱きついてきた。これは、刺激が強い。さっきの映像がまだ目に焼き付いているというのに。

「あの、相内さん?」

「ずっとこうしていられたらいいのに」

 それはどういうこと?と聞きたかったけど、野暮だと思いなおして、黙っていた。相内さんが首にまわした腕に手をおく。肩に頭をもたせた相内さんの声。すこしくぐもった。壮介は、耳のすぐ近くで聞いた。

「また、事件があったんです」

「えっ、事件?」

「今度は、絵画科の四年生が、やっぱり自分のアトリエで、頭から血を出して倒れてたんです」

「それで、亡くなったの?」

 壮介は、相内さんの頭に向かって話す。

「意識不明で病院に運ばれました」

「そう、助かるといいけど」

 さっき相内さんが言った、ずっとこうしていたいというのは、不安だからということか。余計なことを言わなくてよかった。

「それは、やっぱりワイドショーで?」

「いえ、ラインで、ガッコウの友達から教えてもらいました」

「それは、知ってる人?」

「いえ、知らない人です」

「そう」

 ショックを受けている相内さんにあれこれ聞くのは、忍びない。明日にでもまた新聞を見るか。

 しばらくして相内さんは、もう大丈夫と言って壮介から離れ、ソファにすわりなおした。壮介は、相内さんを元気づけたいと思って、夕食を外に食べにでることを提案した。

「いいですね、なに食べますか」

「おいしいものですよ」

「うーん、お腹いっぱい食べたい」

「なら、ハンバーグとかどうです」

「食べたい!」

 歩いていけるところにハンバーグ屋があって、壮介は何度か行ったことがある。相内さんにも気に入ってもらえるはずだ。

「あの、すみません。蒸し返すようだけど、さっきはなんで着替えをしてたんですか」

「忘れてました。自転車を借りて買い物に行こうと思ってたんでした」

 相内さんも思い出したらしく、うつむいている。

「じゃあ、ハンバーグ食べた帰りに買い物しましょう。荷物持ちします。せっかく着替えたから、相内さんは自転車乗りますか?」

「ドラッグストア、行きたいんです」

「ハンバーグ屋をすこし行ったところにあります。ちょうどいいですね」

「じゃあ、歩いて行きましょう。わたしも歩きます」

 ハンバーグ屋まで相内さんと並んでぶらぶら歩いた。壮介は、シンプルにハンバーグとライスのセットにした。相内さんは、デミグラスソースで煮こんだ上に目玉焼きまでのったハンバーグとライスのセット。

「ライスを少なめにしてもらって、デザートを食べますか?」

「ライス普通盛でデザートを食べます」

「大丈夫ですか、ハンバーグけっこうボリュームありますよ」

「例のあれです」

「例の?」

「ベツバラです。言わせないでください」

「恥ずかしいことなんですか?」

「食いしん坊みたいじゃないですか」

「いいじゃないですか、食いしん坊だって」

「嫌ですよ、食いしん坊な女なんて」

「そうかな。おれはいいと思いますけど。じゃあ、食いしん坊ではない相内さんに耳寄りな情報を教えましょう」

「なんですか」

「このお店のハンバーグ、網脂というのを使ってるんです」

「網脂って、脂が網になってるんですか」

「そう。こう、網状になってるんです。網に脂がついてるんじゃなくて、脂が網状なんですね。内臓のあたりにあるんだったかな。牛の肉からはがしたら、そのままで網の格好になってるみたいですよ」

「それをどうするんです?」

「ハンバーグのタネを包んで焼くんです。そうすると、理由はよくわからないけど、ジューシーなハンバーグになるんです」

「理由はわからないんですか」

「おれが知らないだけです。もしかしたら、包むことによって、つなぎがなくても大丈夫とか、そういう理由かもしれません」

「あまり、耳より感が」

「まあ、いいじゃないですか。とにかく普通とちょっと違う贅沢なハンバーグなんですよ」

「そうですね」

 相内さんの大人な対応に、軽く傷ついた。

 網脂のおかげのはずだ。ハンバーグはおいしかった。相内さんも満足したみたいだった。デザートが思いのほかボリュームがあって、相内さんに何度かあーんとやって食べさせてもらった。壮介は照れくさい思いをした。

 ハンバーグ屋をでて、二ブロック先にドラッグストアがある。買い物かごをもって、相内さんが買い物をする。適当に店内を見ているように言われて、アイスを見たり、お菓子を見たり、雑誌を見たりした。壮介はコンビニやスーパーで商品をチェックするのがわりと好きなのだ。グンマになってからコンビニは姿を消したけど。相内さんが会計を済ませたところで合流して、袋をひとつ壮介がもった。

 部屋に帰って、壮介は近いうちに着ないと思われる服を段ボールにしまった。カラーボックスの引き出し二個分が空になって、相内さんに明け渡された。相内さんが荷物を整理しているあいだに、ツイッターのチェックをして、風呂に入ることにした。シャワーを浴びて、体を洗う。

「久保田さん」

「はい?」

「はいりますよ」

「はいぃ?」

 許可を出していないうちにドアがカチャッといって、相内さんが顔を浴室にいれた。

「お邪魔します」

「お邪魔しないでください」

 恐る恐る見ると、相内さんは部屋着のズボンの裾をまくっていた。裸でなくて、すこしホッとしたような、残念なような気分だった。

「もう遅いです」

「遅くないから出てください」

「断る」

「そんな」

「なにもしませんよ」

「じゃあ、出てってください」

「背中を洗うだけです」

「自分で洗えます」

「わたしが洗った方が気持ちいいですよ。それに」

「なんです?」

「これからお世話になるお礼と、さっき恥ずかしいところを見られてしまったので、久保田さんもサービスしろってことです」

「サービス?」

「いい体してますね」

「いやん」

「触っていいですか」

「そういう店じゃないんで」

 相内さんの手が、肩甲骨のあたりをなでる。壮介に力が入る。

「おー、引き締まってますね。かなり固い」

「満足しました?」

「まだまだ。あれ?これどうしたんです?」

 触られたところに激痛が走る。

「あいってっ!どうなってるんです?」

「アザみたいに青黒くなってますよ」

「まさしくアザです」

「女性に悪さでもしましたか?」

「あたっ!」

 またアザを、今度は押した。

「今日ペンスケに、叩かれたんです」

「ペンギンに叩かれるとこうなるんですか?」

「意外でしょう。結構、力強いんです。フリッパーは堅いし」

「フリッパーって、手のことですか?」

「そうです」

 相内さんは、体を触りまくった。壮介は、なにがなんだかわからなくなってしまった。

「そろそろ出てってもらっても?」

「まだ背中を洗ってません。タオル貸してください」

「アザは避けてくださいよ?」

 壮介が差し出すと、背中をこすりはじめた。

「もう、いいんじゃないですか」

「洗えたか確認しますね」

 今度は素手で、泡のついた背中をなでまわされた。

「そんなサービスは行ってません」

「よいではないか、よいではないか」

 シャワーのお湯を出す。

「ほら、手だしてください」

 泡だらけの手を洗い流す。足もシャワーで流す。相内さんがシャワーで背中を流してくれる。悪い気分じゃなかった。

「じゃあ、これで出てってください」

「邪魔者扱い」

 相内さんはスネて浴室からでていった。体のつぎに、顔、髪と洗って、湯船に体を沈める。背中のアザに浴槽の壁があたって痛い思いをした。すわりなおして、ため息をつく。浴槽の壁に頭をもたせかけて、目をつぶる。

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