第5話 お宅訪問(1)

 水曜日の朝、休日に目覚ましをかけない壮介は、自然に目を覚ました。十時だった。寝すぎだ。昨日のうちに床を掃除してあるから、朝になって準備することは特にない。朝食を食べて食器を洗い、コーヒーをいれてくつろぐ。

 相内さんとは午後一時くらいに駅で落ち合うことになっている。電車の時間が決まったらメールで知らせてくれる。

 南北の窓をあけて部屋の空気をいれかえる。人を待つ時間というのは落ち着かないものだ。音楽をかけて、本を読む。ちょくちょく時間を確認してしまう。まだ二時間くらいある。ダメだ、集中できない。本をあきらめてツイッターをながめる。

 部屋にいても手持無沙汰だ。壮介は部屋をでることにした。駅ちかくまで行って本屋を一周すれば時間がつぶせる。

 大型商業施設の駐輪場に自転車を停める。エスカレータで本屋のある階を目指す。百円均一の店がある階で一瞬とまって、なにか買うものあったかと思案したけど思いつかなかった。そのままエスカレータにのる。本屋で雑誌コーナーをひととおり見て回る。写真の雑誌、科学の雑誌、音楽の雑誌をそれぞれ手にとってパラパラとページをめくる。買いたいと思うほどの記事が載った雑誌はなかった。

 専門書のコーナーは貧弱で、興味の湧く本は皆無だ。すでにわかっていることで、壮介が足を向けることもない。最近はツイッターで情報を入手して、ネット通販で本を買う。店舗で買うのは、雑誌か文庫くらいのものだ。品ぞろえが貧弱なのだからしかたない。雑誌や文庫も、専門書を買うついでにネットで買うことが多く、いっそう店舗で買わなくなる。

 文庫本のコーナーでは、表紙を見せるようにディスプレイしてある本だけを眺める。背表紙が見えるように棚に並べてある本はチェックしない。一度見れば、たいして入れ替えはないからだ。ディスプレイしてあるものがしばらくしたら棚に並ぶようになる。壮介は小説を読まないから、ほとんどの本を素通りする。

 なにも買わずに建物をでて駅にやってきた。このあいだ相内さんを介抱したベンチにすわって改札でも眺めていることにする。ケータイを見たら相内さんからメールがきていた。駅につく時間を知らせてきたのだ。壮介は、了解とだけ打って返信し、ケータイをしまった。あとはベンチにすわって待てばよい。

 相内さんは、なにをしにくるのだったか。ただ、部屋に招待することになったという記憶しかない。あのときの話は、酔った女の子をホテルに連れ込んで襲うものだという話をしていた気がする。女の子自身がそんなことをいわないようにも思う。なにか違う趣旨の話だったのかもしれない。目的がわからないから、どうやっておもてなしをしたらよいのかもわからない。コーヒーをいれて、ケーキを食べるくらいでよいのだろうか。なんだか教師の家庭訪問を受けるような気分だ。壮介にペンスケ以外の子はないけれど。

 改札を見ていると、思っていた以上に人がでてくる。平日の水曜日に駅の利用者なんかあまりいないものと思っていたけど、ちがったようだ。

 館林になんの用があってこれだけの人がやってくるのだろうか。水族館、動物園、遊園地がある。改札をでてくる人は、そういった施設の客にも見えない。主婦らしき女性数人のグループとか、スーツの男性、スーツの男女、学生らしき人もいる。高校生のことはなんというんだったか。児童?いや、学童だったか?生徒という言い方を思い出した。生徒がそれっぽいと思う。授業は、サボったのか。不可抗力の遅刻か。それとも早退か。期末にはまだ一ヶ月くらいありそうだ。

 スーツ姿の男性がとなりのベンチにすわった。壮介は一般の企業に勤めたことがないから、会社員がどのように仕事をしているのかわからない。仕事でやってきたのだろうけど、目的地が思いつかない。館林はオフィス街ではない。国会は前橋にある。商業施設は高崎に集中している。ついでにいうと、首都機能の分散で、官公庁は仙台に、最高裁は名古屋にある。

 そのうち人に混じって相内さんが歩いてきた。気づいたときには改札を抜けて壮介の近くまできていた。

「ようこそ」

「いつもきてますよ」

「そうでした」

 相内さんが、手を差しのべてきた。冗談のうちなのだろう。乗っからなければならない。手をとる。

「では、姫。ご案内いたします」

「ええ。よろしく」

 姫の手を引いて駅をでた。駐輪場のまえで立ち止まる。

「自転車をとってきます」

「待っていてよ」

 まだ姫様をやっていた。そんな人だったっけ。駆け足で自転車を引きだしてころがす。

「昼はどうします?食べました?」

「いえ、まだ」

「うどんなんてどうです?」

「うどん?なにかあるんですか?」

「昔から有名なんです。館林うどん。食べたことあります?」

「いえ。じゃあ、そこにしましょう」

 ほっとした。女性と食事をする場合、店を決めるのがやっかいなのだ。今回はすんなり決まってよかった。うどんは嫌だといわれたら、すぐにはほかの候補が思いつかない。

 ツルツルっと喉ごしのよいうどんを食べて、途中ケーキ屋に寄って、いよいよアパートへ向かう。

 はじめにクーラーのスイッチをいれる。季節は梅雨にはいっているけど、今日は晴れて気温が高い。狭い部屋にふたりで過ごすには冷房が必要だ。

「大丈夫ですか、男臭くてダメとかあったら言ってください」

「うーん。なにも匂わないですね。空気清浄機まで動いてる」

「なにもなくて拍子抜けですか。外に出かけます?」

「いや、そうじゃないんですけど」

 むしろ、散らかっていた方が男らしくていいとか?片づけをしてくれようと思ってたとか?いやいや、そこまで親しくないのにそれはないな。壮介は、なにを期待されていたのか分からない。わからないことは考えても仕方ない。

「で、うちにきてなにしたかったんでしたっけ」

「なにってこともないんですけど。久保田さんの部屋ってどんなかなと思って」

「こんなでした」

「これ、クラゲですか?」

「ああ、それだけは自慢ですかね。生きたくらげです。死んだら補充するんですけど。ミズクラゲという種類です。暗くするとかなりいい雰囲気になるんです」

「暗くなります?」

「え。えーと、男と二人きりで暗くしていい雰囲気とか、やめておいたほうがいいですよ。相内さんは、けっこう天然ですね」

「なんでですか?」

「男の人に警戒心とかもったほうがいいかと」

「でも、男の人の部屋にきちゃったら同じことじゃないですか?」

 どうやら、警戒する必要のない人類だと思われているらしい。なんだかバカバカしくなった。一人でドキドキわくわくしてしまった。

「わかりました。じゃあカーテン閉めますね」

 遮光カーテンを閉めて暗くした。水槽は底面の直径四十センチくらい、高さ二十センチくらいの円柱を寝かせて、転がらないように台に載せたような形をしている。水槽に設置してある照明が色を変える。クラゲが浮遊しながら傘を閉じる。

「わー、本当だ。キレイ!これ、わたしでも飼えます?」

「毎日一回餌をやって、週一で中の海水をかえられれば」

「やめておきます」

「えっ。楽じゃないですか。海水は、粉混ぜて作れます」

「一回じゃなくて、ずっと続けなくちゃいけないと思うと」

「そんなものですか」

「クラゲが見たくなったら、またきます」

「水族館なら、いろんなのいますよ」

 むっとした顔で、相内さんが睨んできた。壮介は、おかしなこと言ったかなと首をかしげる。

「そんな怖い顔しないでください。相内さんの目チカラがあるんだから、暗がりでそれは怖いです。なんかヘンなこといいました?」

「わたしの目、そんなに感じワルいですか」

「すみません、そういう意味じゃないです。相内さんの目は、すごく魅力的です。その目で睨まれると、すごい迫力があるということです。まずは無表情にしてください」

「こうですか」

 むっとしていた顔から表情が消える。

「あ、もうそれだけで、すごくいい。カメラマンだったらシャッター切ってますね」

「そうですか?脱ぎますか?」

「」

「冗談ですよ?」

「すみません。冗談だってわかっても、なんといっていいかわからなくて。帰っていいですか?」

「ここです」

 相内さんが笑った。

「よかった、笑ってくれて。なんで怒ったんです?もうくるなって感じでした?」

「わかってるじゃないですか」

 今度はかわいらしくほっぺをふくらませた。

「紅茶いれるんで、ケーキを食べましょう。それで機嫌を直してください」

「ずるい。ケーキで釣るなんて」

 カーテンを開けて、部屋を明るくする。相内さんはまだ笑顔だった。ケーキの威力絶大。

 二人掛けのソファにならんですわってケーキと紅茶を楽しんだ。相内さんが彼女になってくれたような、幸せなような、苦しいような複雑な気分を、壮介は味わった。でも、きっと男女という意識がないから、こんな風に親しくしてくれているのだ。

「音楽は、どんなの聞くんですか?」

 話題がなくなったときに便利なテーマだ。特に壮介に興味があるわけではない。

「クラシックとか、ジャズとか、ロックとか。いろいろですね。なんかかけますか?」

「はい、かけてください」

「じゃあ、パット・メセニーで。フュージョンというジャンルです」

 ターンテーブルにレコードを置いて専用のアクセサリで埃をとり、アームのバランスをみて、レコードを再生する。

「パット・メセニーというのは、ギタリストの名前です。本当はパット・メセニー・グループというのがグループ名なんです。けっこう、こんな感じでさわやかな曲ばっかりです」

「聞いたことない音楽だ」

「ですよね。音楽の世界も広いので、みんながちがうものを聞くのが当たり前です」

「これ、オススメですか?」

「そういうわけでは。オススメが必要ですか?どんなのがいいですか?」

「なんだろ、海っぽいの?」

「海っぽいの。海っぽいの?海っぽいってどんなだろ。ハワイアン?ヒーリングミュージックってやつですか?どっちもうちにはないけど」

「いえ、とくに好みとかなくて」

「どんなときに聞きたいですか?絵を描いたり彫刻したりしながら?」

「そうか、そうですね」

「そうすると、クラシックで軽快な感じのとか、いまみたいなフュージョンでさわやかな感じのとかかな。でも、フュージョンはレコードしかないから、クラシックにしますか。いくつか貸しましょうか?あれ?再生できます?」

「アイポッドしか」

「じゃあ、アイポッド。いまあります?あ、なければ、今度もってきてください。そしたら適当に曲入れます。水族館にもってきてもらえれば大丈夫ですよ」

「また」

 ほっぺをふくらませる。壮介はほほえましいと思う。

「冗談です、またきてください」

「いいんですか?」

「ダメです」

「もう」

 腕をはたく。壮介には、相内さんがドラマの登場人物に見える。

「いいです。押しかけます」

 壮介は、若くしかも美しい女性と密室で二人きりというのが、落ち着かない。

「ケーキも食べて、紅茶を飲んだことだし、レコードが終わったら出かけますか」

「どこ行くんですか?」

「海?ここにいてもすることないです」

「なんか、いてほしくないですか?追いだそうとしてます?」

「そんなことないですよ。さっきのは冗談です。部屋がよければ、部屋でいいんですけど。あ、エッチなことしたいです?勝負パンツはいてきました?」

「そんなことありません!」

 そっぽを向いてしまう。

「ふっふっふっ。ここまできてそんなことが通用すると思ってるんですか?」

 相内さんの肩に手を置く。ビクンと肩に力をいれて反応する。予想以上の反応だった。

「ほら、ソファに深くすわって」

 もう少し大丈夫かなと踏んだ。一度立ち上がって、ソファの座面に片膝をつき、背もたれに手をついて相内さんに顔を近づける。

「男の部屋にノコノコやってくると、こういうことになるんですよ」

「か、覚悟ならできてます」

 体を緊張させて目を堅く閉じている。すごく強がっているのがわかって、壮介はいとおしくてたまらなくなってしまった。

「ごめんなさい。相内さん。大丈夫、襲ったりしません」

 相内さんに片目を開けてうるんだ瞳で見上げられると、壮介は弱かった。相内さんが胸に抱きついてきて、ソファに倒れ込む。

「え?うおっ」

 壮介は一緒にソファに倒れた。体を這いあがるようにして、今度は相内さんが壮介にのしかかった。顔の横に手をついて、トーンを落とした声でささやく。

「久保田さん、女を部屋にいれると、こうなることもあるんですよ。覚悟はできてますか」

「え?相内さん?えっ?」

 うろたえてしまって、身動きひとつとれない。覚悟なんてできているわけない。相内さんの目に見つめられて、魂が吸い込まれそうだ。

「わたしも、襲ったりしません」

「もう、ビックリしました。本当に襲われるって思いましたよ」

「冗談ばっかり」

 相内さんは壮介の体をよけて、ソファにすわりなおした。動悸がおさまらない。キッチンに立って、プーアール茶をいれているあいだに心が落ち着くのを期待した。

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