第4話 ペンスケ(2)
相内さんがきていると知らされて、壮介は南極の展示スペースにやってきた。相内さんがいつものようにスケッチしている。観覧スペースの段の下から正面に対するわけにいかないから、少し横からまわり込むようにして段をのぼる。水槽を振り返ると、ペンスケは立ちつくしている。顎で水に入れと合図を送る。ペンスケは、顔を横に向けて知らんぷりを決め込む。ペンギンの目は頭の横についているから、横を向いたところで、壮介とバッチリ目が合うだけなんだけど。
「相内さん、こんにちは」
「あ、こんにちは」
相内さんの横に立って水槽を眺める。アデリーペンギンが壮介の存在に気づき、そわそわしている。餌ならやったばかりだぞ。
「ずっと立ったままですか?」
「え?ええ、ペンギンさんは立ってるだけです」
「あれじゃ、置物を置いてるのとかわらないですね。すみません」
「いえ、ペンギンさんに注文をいってもわからないですから」
「あ、ああ。まあ、そうですけど」
どうにかペンスケを水に入れて泳ぎ回らせられないものか。いまのままでは相内さんに申し訳ない。名案は浮かばなかった。
「今日は、とっておきをお見せします。スケッチしたいのとちがうかもしれないけど」
「とっておきですか。楽しみです」
相内さんを飼育員室の自分のデスクに案内して、動画を再生した。
「まだこのあたりはお見せしてなかったと思うんですけど」
はじめは、孵卵器であたためられている卵だ。早送りをする。卵が割れて、中からヒナがでてくるシーンが流れてゆく。まだ立ち上がることができない。くたーっとしている。早送りをやめる。ヒナがピーピーと鳴く。頭が黒く、目のまわりから首にかけてが白い。首から下はまだほとんど裸だ。白くふわふわの羽毛に覆われるまでに一週間くらいかかる。
動画は、主に壮介が撮影したペンスケの誕生からヒナ時代の記録だ。相内さんは声もなく見入っている。
「どうぞ、好きに見てください」
「いいんですか?」
いつにも増して相内さんの目が輝いている。壮介は、我が子の自慢をするような気になって、黙ってうなづいた。
給湯室でカップ二杯のコーヒーをいれた。飼育員室にもどっても、相内さんはもとのまま身じろぎひとつしないでディスプレイのヒナに釘づけになっている。
「絵はいいんですか?やっぱり」
「え?なんですか?」
「いや、いいんですけど。絵に描きたいのとちがったかと思って」
「絵?忘れてました。だって、かわいいんだもん」
「ありがとうございます」
「なんで久保田さんがお礼言うんです?」
「え?ああ、ヘンなんですけど、おれが卵をもらってきて、孵卵器で孵して、餌やったりして育てたものだから、自分の子供みたいな気になってるんです。我が子をかわいいと褒めてもらった気分ですね」
「まだ若いのに」
「まあ、子供がいてもおかしくないお年頃ではあるんですけどね」
「そうなんですか?わたしとあまり変わらないかと思ってました。そっか、お仕事されてるんですもんね」
「まあ、そうです。あ、コーヒーどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
相内さんは、コーヒーに手をつけずにまたディスプレイに集中した。
仕事にもどろうかというときになっても、相内さんは停止しているかのように画面を見つめている。これは、邪魔しちゃ悪いと思って、仕事にもどるにもどれない。壮介が思案にくれていると、ちょうど先輩の飼育員でペンギンも担当している金子さんが飼育員室にやってきた。相内さんのことを金子さんに頼むことができた。
相内さんのことが気になったけど、動物の世話は気を抜くことができない。できるだけ考えないようにして働いた。
一日の作業を終えて飼育員室にもどると、さすがに相内さんはいなかった。金子さんに聞くと、金子さんも付きあいきれずに、別の人にまかせてしまったと言った。どうやら、壮介がもどる少し前までいたらしかった。顔を見る機会を逃してしまって惜しかったけど、また会えると思って自分を慰めた。
終業時刻になり、水族館の建物を出て駐輪場に向かう。海の上の空にかかる薄い雲が淡くピンクに染まっている。逆の方角、平地の方はやっぱり雲がかかっていて、夕焼けで濃く染まっている。
黒い影がすぐ目の前に飛び出してきた。突然のことに心臓が止まる思いがしたけど、それは相内さんだった。足元の植え込みの陰に隠れていたらしい。相内さんだとわかると、夕日に照らされた水族館をバックに立つ姿が、絵のように美しかった。波音がするから、絵というより映画かもしれない。
「久保田さん。どうしました?」
「いや、べつに」
どうもしない。ちょっと心臓がドキドキしているだけだ。
「あの、いいもの見せてもらったので、なにかお礼したいと思って。食事をごちそうしたいんです」
「いやいや。あれは水族館のものなので、おれにお礼されても困っちゃうんです。スケッチをもとに、いい作品を作ってもらうのが一番のお礼です」
「そうですか」
せっかくの気持ちを無にしてしまって申し訳ない。相内さんが気落ちしているように見える。こんなこといいのか疑問だけど、壮介は言わずに済ませられない気分だった。
「あの、割り勘で一緒に食事してもらえませんか。美人さんと食事ができるのは、気持ち的には価値があるんですけど。それで、お礼のつもりということで」
「よかった。はい、それでいいです。すみません、わがまま言って」
「いや、ぜんぜん。太田に住んでるんですか?」
「はい、大学の近くに」
「じゃ、駅に向かっていって、途中のどっかで食事しましょう」
「はい」
こんな役得いいのだろうか、少し心配だ。でも、うれしい気持ちが遥かに勝っている。自転車を駐輪場からだす足取りが軽い。
水族館のゲートを抜け、自転車を押して相内さんと並んで歩く。なんだか、すっごい青春なんじゃないかと思う。高校生くらいの青春だ。
館林にきてオシャレなお店に行ったことがないから、壮介にはアテがなかった。相内さんがはいってみたいお店があるというから、そこにした。
「ありがとうございます。わがままに付き合ってもらっちゃって」
「こちらこそ、ありがとうございます。相内さんと食事できるなんて、すごい幸せです」
テーブルに水とおしぼりとメニューが運ばれてきた。メニューを広げる。
「なにがいいですかね、お酒飲みます?というか、未成年ですか?」
相内さんは、うつむいている。
「あれ?どうかしました?」
「いえ、なんでもありません。わたし二十歳です」
「電車で帰らなくちゃいけないから、ソフトドリンクがいいですかね」
「スパークリングワインで」
「スパークリングワインですね。あと、前菜は、このおまかせのサラダでいいですか」
「はい」
壮介は、店員に注文した。
「お酒、いける口ですか?」
「えー、普通ですよ」
「芸大の人って、いっぱいお酒飲んで、芸術論を闘わせたりするんじゃないんですか」
「そういう人もいます。わたしは、そんなすごくないので、黙ってます」
「黙々と飲む?」
「そんなには飲みません」
「まだ二十歳なんだし、そうですよね。心配になるので、今日は飲みすぎないでくださいね」
「大丈夫、帰れなくなるほど飲んだことありませんから」
壮介は笑顔で返した。運ばれてきたスパークリングワインを掲げて、相内さんの作品の完成を祈った。
「ヒナのときのペンスケ、かわいかったでしょう。作品になりそうですか?」
「ペンスケっていう名前なんですか?」
「おれが勝手につけて、そう呼んでるだけですけど。本人は気に入らないみたいです」
「気に入らないってなんですか?」
「ああ、呼んでも無視するって意味です。なに食べます?海が近いって言っても、このへんじゃ魚とってないから、海がなかったころと変わらない感じなんですよね。ムール貝なんてどうです?」
「はい、食べます」
「あと、肉でも」
「鴨」
「え、鴨?ああ、これ。これにしますか」
「はい、よければ」
店員を呼んで、料理とワインを追加した。イタリアで鴨食べるのかとか、普段どんなものを食べるのかとか、ひとしきり料理の話をした。
「芸大の入試って大変なんでしょう?」
「浪人する人もけっこういます」
「グンマは授業料タダだから、日本からくる人も多いんじゃないですか」
「そうです。同じ一般入試枠になってて、競争しなくちゃいけないんです。前より競争厳しいかもしれません」
「相内さんはグンマの人なんですね」
「そうです」
「授業料がタダになったとき、おれは大学はいってたからよかったけど。大学院のときは、すこし厳しくなったみたいでした。同じ大学から進学するのは、そんなに難しくないから進学できたけど。大学院は給付金もらえるんです。ウハウハとまではいかないけど。授業料払うのと給付金もらうのじゃ、まったく待遇が違いますよね。給付金がなければ、進学できなかったかもしれない」
「大学院いったんですね。わたしも、大学院いくのかなーとか、すこし考えはじめてるんです」
「ふーん。日本とちがって、チャンスはいろいろあるから、進学してもしなくてもなんとかなります」
「そうですね。ん!ムール貝、ぷりぷりでおいひい」
運ばれてきたムール貝のワイン蒸をさっそく口にいれていた。壮介もひとつ食べる。ニンニクが効いている。たしかにおいしかった。熱いうちに食べたい料理だ。黙ってムール貝に取り組む。
スパゲッティも食べ、デザート。コーヒーと紅茶をそれぞれ飲んで、店をでた。
「いいお店でしたね」
「お付き合いいただいて、ありがとうございました」
「大丈夫ですか?ちょっと、シャベリがノンビリになってますよ」
「すこししか酔ってません」
やっぱり酔っている。腕につかまってきた。アルコールは苦手なほうだったかもしれない。あまり強くない壮介でもたいして酔っていない。この状況は、正直なところ悪くない。
相内さんを支えながら、駅の売店でアイスとポカリを買って、駅構内のベンチに腰をおろす。
「はい、ポカリ」
キャップをとって手渡してやると、相内さんはポカリを飲んだ。
「アイスどうします?抹茶味ですけど、食べます?」
相内さんがうなづく。カップのフタをとって、木のスプーンですくい、口までもっていってやる。パクッと食べた。ちょっと餌をやっているような気分で楽しい。いつもギャングに襲われるように給餌しているのとはわけがちがう。
アイスを食べ終えた。うつむいていた相内さんの顔が、壮介のすぐ目の前まで近づく。
「どうしました、気持ち悪い?」
「そうじゃないです。なんで連れ込まないですか。チャンスじゃないですか」
「連れ込む?チャンス?どういうこと?」
「酔った女の子をホテルに連れ込むんですよ」
「え?相内さん泊っていきたい?ホテルなんてこの辺ないですけど」
「カップルが行くホテル」
「そういうところはもっとないな。行ってみたいんですか?」
「そうじゃなくて。久保田さんの部屋はどうなんですか」
「うち?歩いたら十五分くらいかかるけど」
「うぐぅ」
相内さんは、何を考えているのだろうか。付き合っていない男とホテルでいいことするような子だとは思えないけど。ということは、好意をもってくれているということだろうか。まさかね。
「うちなら、休みの日にきてもらったほうがいいかな」
「本当に?行っていいんですか」
「うちきたいですか?面白いことないけど」
「行く」
「じゃあ、休みの日に」
「いつ?」
酔ったときの表情もかわいい相内さんが、すごい目ヂカラで迫ってくる。
「次の休み?水曜なら休みですけど」
すこし上体を引く。相内さんはコクっとうなづいた。前日にクイックルワイパーで床を掃除すればいいか。
「連絡先」
「ああ、メールとか」
ケータイをバッグから出し、プロフィールを表示して見せる。相内さんがショートメールでメールアドレスを知らせてきた。お返しに空メールでアドレスを知らせた。相内さんは、酔っているせいだろう。ふにゃりと、やわらかく笑った。
ポカリを相内さんにもたせて改札のところでわかれた。壮介は自転車を押して十五分かかる道を帰る。顔がにやけてしまうのは仕方ない。
しばらくソファで溶けて、相内さん帰れたかな、心配だから電話してみるかなと思っているところにメールが届いた。どうやらまっすぐ帰れたらしい。水曜日を楽しみにしていると書いてある。壮介はメールを返信した。
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