第5話
「仁、おはよう」
「おはよう、母さん」
あれから1ヶ月ほど経った。2人で過ごす日々は平穏に、安らぎに満ちていた。穏やかになった母の容態は見るからに停滞しているように思える。
未だ原因不明の不治の病には変わりないが、精神状態によって病状が左右されるということは確からしい。
「いつも悪いな」
「構わないよ。むしろ、嬉しいんだ」
家事を始めとした身の回りの世話は俺が全て担っている。なるべく、母には身体を休めてもらいたいから。かといって、動かないのも健康に悪いので、自力での移動や裁縫など手足の運動になることは任せている。
「もうすぐ出来るから座って待ってて」
「ああ」
送られてくる食料はやはり貧相で、でも、母は嫌な顔1つせずに美味しいと言って食べてくれる。
「お待たせ」
「ありがとう。では、いただきます」
手を合わせ、汁物に手をつける。
「美味しいな。うん、やはり、仁のすまし汁が1番だ」
あぁ、こんな日が一生続けばいいのに。やっと、幸せと思える日々を享受することが出来ているのに。時限の針はすぐに迫り来る。
食事を終えたら、俺は片付けと掃除を、母は編み物に手をつける。
「今は春明けだから少し暑いぐらいだが、冬になると大層冷え込むからな」
そう言って母は毛玉に手を伸ばす。ここに来てから毎日手袋と首掛けを編んでいるが、進んだのは数10cm程。今から編まないと、冬には間に合わないようだ。
「もう梅雨だな。雨は嫌いじゃない」
「梅雨って何?」
「雨が多く降る時期さ。私もそれくらいしかわからない」
ここの季節は独特で、何やら目が回りそうだ。そもそも、引っ越しは転移術で行われたからここが何処か分からない。いつか聞こうと思っていたが、聞きそびれてしまった。
「夜はカエルの大合唱さ。煩くて眠れないかもな」
笑みを零しながら話す様はとても楽しげで。本当によかったと心から思う。
「母さんは此処が好きなんだね」
「あぁ。住んでみて、なお深く気に入ってしまったよ」
この別荘は母が祖母から受け継いだものらしい。
「此処には争いという文字はない。生き物は皆、それぞれの生を謳歌し、正しい食物連鎖の枠の中で生きている。母は、この美しさを教えたかったのか 」
ここに妖怪と呼ばれる怪物はいない。純なる動物たちは野や森を駆け、虫たちは花を啜り、魚は清流を泳ぐ。歪んだ生態は何一つないのだ。
「秘密の楽園、か。よく言ったものだな、母上」
その口調に悲しみはない。まるで感謝するかのようにそっと、口ずさんでいた。常に戦いの場に身を置いていた母にとって、この場所は特に新鮮で心地良いようだ。
「この土地はな、元々有栖園家の領地じゃないんだ。母が見つけて、勝手に家を建てた。国も知らない、母と父と私だけの秘密の場所だ」
「へぇ、そうなんだ。ここは大体どの地方の辺りになるの?」
「
「じゃあ、ここは恒というよりはエスノール公国なんだ」
エル・ローマリアとはエスノール公国の西側に位置する禁域である。そこでは多くの怪物たちが根城を作り、その中でも高知能な個体がいくつか組織を作っているという。しかし、その禁域にも構わず進む祖母にはもはや感嘆しかない。
「これほどの土地への引越しをよく、
有栖園
「ああ見えても父は子バカ孫バカだ。私が本家を出ると手紙を出したら、真っ先に1人でこの別荘の掃除をしてくれた。他の者に知られるとまずいからという理由でな」
意外だ。あんなにいつも不機嫌そうにしている祖父がそんなことを。
「それにここの食料や衣類品や家具、生活必需品などの調達も全てやってくれている。今は自分の生活だけでも精一杯のはずなのにな」
母の病が発覚して以来、有栖園家の名誉は地に落ちた。領地は改易され、築き上げたコネも全て水の泡。さらに、母の治療のために破格の金を費やした。そのため、貯蓄も少ない。かの名家はもはや没落したと言ってもよい。それなのに、祖父は支援してくれている。
「つまり、本家は何もしてくれてないのか」
「してくれるはずないさ。黙って出てきたのだから」
「え?」
驚いた。本家に、父に何も言わずに出てきたのか。俺は元より顔を合わせるつもりはなかったが母がそうするとは思いもよらなかった。
「それでも、父の方にも何の便りも来ないということはつまりそういうことだ」
母の声色に憂いはない。既に吹っ切れているようだった。
「身辺の整理が出来次第、父も此方へ隠居するらしい。あと数年の内に来るだろうな。そうなったら、ここで自給自足だ。なに、心配するな。父は農業を網羅している。その時は食料も2年ほど買い込んでから来るらしいから、その間に叩き込んでもらえ」
「そっか、楽しみだな」
「あぁ」
新緑の風は新しい門出を祝うように躍る。若き香りは新たなる希望の芽を慈しむように舞う。
「こんなところに逃げ込んでいたのか」
風よ、躍るならば1人で戯ろ。昏き雲など連れて来るな。
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