第4話
「あぁ」
予定調和の目覚め。もはや3度目ともなると、慣れたものだ。これが正直となるか、否か。いや、もう俺は何をすればいいのか分からない。
本家の自室で眠っていた。部屋の姿鏡から俺が10代前半だということが窺える。腹は空いていないが足は自然と食堂へと向かっていた。
「あ?」
食堂には父がいた。珍しい。今日は休みなのか。露骨に嫌そうな顔をしながらため息を吐いて、大袈裟に新聞を広げていた。
俺は食堂を素通りして、母屋へと向かおうとした。
「挨拶もなしか?」
「どうせ殴るくせに良く言うよ」
どうにもこの頃本音が漏れる。いやはや、これは直した方がいいだろうて。
「分かってるなら、顔を見せるな!」
ほうら、殴ってきた。そりゃあ、気に入らないだろうね。結局、母さんが1番の女だったから。出来損ないが生まれたからって手当り次第に名家の女に手を出して、それでも満足できずに遊び呆ける。こいつも憐れな男だ。
殴打の痛みなんて蚊ほども感じない。空っぽの器を殴っても、空洞に響くだけだから。
目を腫らしながら、母屋を練り歩く。ある使用人は不快そうに顔を歪め、ある使用人たちはコソコソと話し合い、ある使用人は嘲笑を零した。
ああ、こいつは母を裏切った下女だ。ここにいるということはもうあの女が母屋に、母は離れにいるのか。無駄足を踏んだな。
「何しに来たんだい?義兄さん」
ああ、会いたくない奴もここにいたのか。
「散歩さ。今日は天気が良いからね」
「そんなに目を腫らして、天気も何もないよ。ほら」
俺より少し背の低い義弟は背伸びをして、俺の腫れた目をさすってくれた。すると、見る見るうちに腫れは引いて、元の形に戻ったのだった。
「義兄さんも、なりたくてそうなってるわけじゃないのにね」
こいつは優しい。だから、嫌いだ。もし、その力を鼻にかける憎たらしい小僧であったらなら、俺も幾分溜飲が下がったことだろうに。
「
「バレないようにするから平気」
きっと、この子は既に俺より聡明で出来た子なのだろう。ああ、羨ましい。だからこそなんだよ。俺の前から消えろ。
「では、
「うん」
冥藍とは 彼の母の名前であり、彼女は現在、父の正妻に位置する。なんと彼女は母の実の妹であるのだから驚きだ。母ほどではないにしろ、その実力は折り紙付きだったらしく、父は母の面影を重ねて、彼女を妾にした。その結果、このようなことになっているのだ。
だからこそ、母は狂った。
「居ないか」
食堂に戻れば、父の姿はなかった。どうせ、俺を避けながらあの女の元へと向かっていったに違いない。汚らわしい。穢らわしい。くわばら、くわばら。
離れに戻り、自室からもう少し北へ行くと、低い金切り声が聞こえてきた。少しだけ足が縺れそうになるが、踏みとどまり、止まった足を持ち上げながら進んだ。
「入るよ、母さん」
「入るな!汚らわしい!お前なんて私の子じゃない!返せ!!お前があの子を喰って化けているんだろうが!」
ああ、1番酷い時期だ。まだ症状が軽くて辛うじて身体が動くから、もどかしくて苛ついて、ヒステリックになってる。
「俺は紛れもなく、仁だよ」
「五月蝿い!お前なんか塵だ!塵芥だ!この屑が!」
あの時は、こんな心無い言葉で傷ついたものだ。それもそうだ。思春期の少年にとって、親の憎悪ほど歪んでしまうものはない。
「いいや、俺は母さんの息子の仁海だ」
「黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!」
なんて苦しそうなんだろう。どうすれば、その苦しみを取り除くことが出来るのだろう。どうすれば、何をすれば、安らぎが
「若風が木の葉を掠らせて♪」
安らぎだ。この歌こそが、俺にとって
「出ていけ!消えろ!今すぐに!」
母は辺りの物を投げつけてくる。もう術も満足に使えないのだろう。
「我が子は森を震えさせん♪」
硬いものが額にあたり、皮膚が切れて血が出てくるが全く気にならない。
「止めろ!止めろ!黙れ!黙れ!黙れ!」
「さあ唄え♪恐れるならば♪」
「う〜!」
「さあ唄え♪「「願うるならば」」
「「お前のために今日とて祈らん」」
俺は歌い、母は呟いた。
「よく歌った子守唄だ。お前は寝つきが悪かったから」
「これを聞かないと眠れなかったんだよ」
心地の良いあの感覚は今でもこの身に染み付いている。
「仁、少し背が伸びたか?」
「大きくなるさ。育ち盛りだからね」
「そうだよな」
母は苦笑する。猛り狂った炎が風前に消え去ったかのように。
「こんなみっともない母で失望したろ?現実が気に入らないから喚き散らして、息子に当たって、窘められる。なんて慚愧な生き物だ」
「人間なんてそんなもんだよ。純真が故に染まりやすく、清らか故に穢れ狂う」
「ああ、やっぱり背が伸びたな。もう私なんて追い越しそうだ 」
眩しそうに見つめる母。俺はそんな大層な人間じゃないよ。
「心身が落ち着くまで住む場所を移そう。例えば、風が心地よい長屋に。ここはあまりにも不純物が多すぎるから」
「それなら、あの別荘だ。いつか、仁と宗尊と行きたかったあの家がある」
「そこでこれからの事をゆっくり考えよう。大丈夫、俺は母さんの子だから」
「そうだ、そうだな。行こう。行こうか」
引っ越しは驚くほど簡単に行われた。必要最低限の家具と、必需品と食料の送達だけを取り付けて3日ほどで住まいが変わった。
その間、義弟とも父とも冥藍とも顔を合わすことはなかった。
「あぁ、この匂いだ。この若葉の香り。あの日のことを思い出す」
引っ越しの翌日、母は日中縁側に座り、過去に想いを馳せていた。どうやらこの別荘辺りは4季性らしく、季節に合わせ、春夏秋冬と呼ばれている。なるほど、移りゆく景色は心身養生には持ってこいだ。
「そうだ。仁、蹴鞠を教えてやろう。まだ身体が動くうちに見せておきたいんだ」
母は楽しげに箱から鞠を取り出すと、拙い足取りで庭に出た。
「無理しないでよ」
「いいか?歌を歌いながらポンポンと蹴るのは女児だけだ。男なら如何に長く高く、また、上品に蹴るか、だ。」
母さんは女だろうに。
「いくぞ」
母が蹴りあげると、鞠はあらぬ方向へ飛んで行ってしまった。
「おっと、失敗失敗」
舌を出しながら、恥ずかしそうに取りに行く。もはや、満足に身体を動かすことが出来なくなって来たのだろう。
「ん?」
ここである違和感を抱いた。病状の進行度の矛盾だ。前の母は、既に車椅子だった。今の母よりも若いのにも関わらず。だが、今の母はまだ足が動かせる。何故だ?
「なあ、見てるか?」
おそらく、前の母には負担を掛けすぎたのだろう。そのため、病状の進行が早く、早逝だったんだ。
「見てるよ」
なるべく、母に負担をかけない。永く生きてもらうためには今のところ、この方法しかない。そこで、ゆっくりと解法を見出してみる。もう、母の死は見たくない。
結局、俺は救われたいだけなんだ。皆、死ねばいいという陳腐な怨みは、唯の強がりにしか過ぎない。心の奥底では、皆と幸せに生きたいという子供じみた願望が這い回っている。大丈夫、まだ壊れていない。俺は正常だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます