第3話
あの頃より窶れている。覇気など見る影もない。勝気な眉は少し垂れ、少し怯えた様子で己を窺う。
「ご飯が出来たから、一緒に食べよう」
繰り返される惨劇に脳の処理は追いつかない。反射的に頷くと、母は嬉しそうに手を合わせた。
「今日の仁は優しい、あの頃の仁だ」
記憶はないが想像に難くない。それまでの己に酷く嫌悪感と憤りを覚えると共に、なぜ、母を生かし苦しめたのかと呪う。
無意識のうちに食卓に着くと、そこには白米と汁物が1品置いてあった。
「冷めないうちに食べようか」
なんて貧相な食事だ。名家が食べるものとは思えない。汁を啜ると、塩味がキツくて少し噎せた。
「ま、まずかったか?」
そうか。下女も居なければ使用人なんて1人もいない。食事どころか身の回りのことも母と己がしなければならない。しかし、この感じだと俺は─
「母さん、これからは俺が全部するよ」
なに、俺にとっては慣れたもんだ。10年近く、汚い離れでそうやって生きてきたのだ。おそらく、物全般の支援はされているはず。いや、そんなことはもう関係ないだろう。
「仁、ごめんな」
「いいんだよ。謝るのは俺の方だから」
無闇に生き地獄を味わわせた俺の罪は重い。今すぐにでも楽にしてあげたいが、どうにも手が箸を離さない。
「美味しいよ、母さんの料理」
初めて味わうお袋の味は、塩っぱくて、少し甘くて、きっと忘れられそうにない。
「嘘でも、嬉しいな。初めてその言葉が聞けただけで、なんて嬉しいんだろう」
泣かないでくれ。母さん、俺は、俺は
「ごめんなぁ、こんな不甲斐ない母親で。せめて、私なんぞから産まれなかったら─」
「俺は母さんの子がいいよ。母さん以外の母親なんて考えたくない」
そうだ。この薄っぺらな世界は、純真な者を汚し狂わせる。愛を叫ぶ道化は、より好みな華を見つけては摘んで捨てる。味がないと知れば、吐き出し、より甘い華を求めて嘘っぱちの雄弁を吐き散らかす。
「ごちそうさま」
飯なんて腹に入れば全て同じだ。胃に溶け、腸で吸って、血肉となる。そこに旨味を求めるのは完全に嗜好でしかない。
「私も仁以外の子は考えられないな」
2人だけの世界は、こんなにも清貧で美しい。共に穢れぬなら、2人でも狂わずに生きていけるのかもしれない。母子の愛は確かで、そこに不純物が入り交じったから、あんなに母は醜くなってしまったんだ。この世界では俺が醜くて、母は美しいまま。でも、病が蝕んでいることには変わりない。きっと、今でもその痛みを我慢しているだろうに。
「ごちそうさま」
母も手を合わせるが、食事は全く減っていない。
「実は、味見し過ぎてもうお腹いっぱいなんだ」
照れながら優しい嘘を吐く。今更、そんなに取り繕わなくたっていいんだよ。あぁ、胸が苦しい。苦しい。苦しい。
「片付けは俺がやるから、母さんは休んでいて」
「いや、一緒にやろう。その方が私は嬉しいな」
息子と一緒に何かをやる。そんな些細なことすら今までやってこなかったのだろう。だから、片付けをするだけで、こんなにも嬉しそうに笑うんだ。
「なあ、仁。今日の夜は一緒に作ろう。出来なくたっていい。作るだけでいいんだ」
今にも舞い上がりそうなほどに。それで幸せなら、構わない。尽くして尽くして、苦しんだ時に楽にしてやろう。きっと、それが最善なんだ。
片付けを終えた後、母を布団へ寝かす。思いの外、身体は軽く、確実に病魔が進行していることを知らされた。
「仁、障子を開けてくれないか」
母に言われた通りに障子を開けると、気持ちの良い緑風が吹き込んできた。
「いい風だな」
ようやく、ここが母の言っていた別荘だと気づいた。その風は強くも弱くもなく、身体を包むことも刺すこともなく、ただただ撫でていった。少し青臭い薫りを連れて。
「私はこの匂いが好きなんだ。子どもの頃、この季節になると辺りの野原を駆け回って木の実を探しては食べて、虫を捕まえては投げ飛ばして遊んだもんだ」
「今もそうしたい?」
「流石に今は落ち着いたさ。でも、仁にもそういった無邪気な冒険を味わわせてやりたかかった」
「俺は別にいいよ」
「そうだな。これは唯の自己満足だ」
日差しは嫌になるほど地を照らし、中にいる俺たちの影をより濃くした。少し気まずくなって、視線を左右に動かすと、棚の上に鞠が寂しく鎮座していた。
「蹴鞠、教えてよ」
何を言い出したのか。ふと、思ったことが零れてしまった。もう、盆には返せない。
「今から、そこでやるから。口頭でいいから教えて」
あの母もやりたがっていた蹴鞠。結局、死ぬまで本家に居たあの人にはやってあげられなかった。だから、この母にはせめて下手くそなりに。
「あぁ!もちろん!これでも、昔は『神足のさっちゃん』と呼ばれていたからな。私の教えは厳しいぞ?」
水を得た魚のよう。あの身体のどこにそんな元気があるのやら。俺は棚から鞠を取ると、草鞋を履いて庭に出た。
「あれ?」
実際にやってみると何と難しいことか。蹴ると鞠はあらぬ方向へ飛んで行った。
「違う違う!そんなに足を上げたら鞠が逃げる!」
病気が嘘に思えるほど、母の声は鋭く重い。少し怖気付きそうになりながら、鞠を放っては蹴る。
「そうだ!足は見ないで鞠を見る!慣れないうちは動きを最小限に!」
こうして蹴鞠は昼食を交えながら日中行われた。日が傾きかけた所で、俺の体力が尽き、夕飯となった。
「今日は人生で1番楽しくて、幸せな日だ」
野菜を剥いていると、横で米を研ぐ母がポツリと零した。
「父さんとの日々よりも?」
ドス黒いモノが顔を出す。嫉妬?それとも怨恨? どちらにしろ、隠しきれぬ負の愚物に苛立ちを抑えきれない。
「かもな」
尊く、清らかなりや。今すぐにでも己の喉笛を掻っ切りたい。しかし、それは母を苦しめることに繋がる。なら、己をいたぶるのは母のいないところで、だ。
それからは、無言で飯を作って食べた。飯の間も、「いただきます」と「ごちそうさま」だけ。食事の片付けの際も、会話をすることはなかった。
食事を終えると、母が眠いと言い出したので布団へと運ぶ。
「今日はようやく母親らしいことが出来た1日だった」
布団へ入ると、母は独りごちに呟いた。
「明日もそんな1日だよ」
「そうだな。明日もだ。明日はもっと、厳しくいくぞ?」
「うん」
「仁」
「何?」
「顔を見せてくれ」
「どうしたの?」
覗き込むように母に顔を見せると、愛おしそうに頬を撫でた。燈籠の火がゆらりと照らす。白染んだ顔に少しだけ生を灯すように。
「幸せだ。母とはこんなに満ちた者なのだな」
そうして、「もう眠る」と母が言ったので、燈籠の火を消して、自室に戻り、己も眠った。蹴鞠の疲労は確かに蓄積していたようで、案外深く眠ってしまった。
翌日、目を覚ますと陽は頂点へと差し掛かりそうになっていた。
母もまだ起きていない。さすがに母も疲れたか。なら、飯を作って起こそう。
漠然と考えながら雑炊を作った。これなら、母も食べやすいだろう。
食卓まで移動させるのもと思い、雑炊を土鍋に移して、盆に乗せて、母の部屋まで運んだ。
「母さん、もう昼だよ。雑炊にしたから、何か口に入れよう」
襖の奥からは返事がない。よほどつかれているのか。起こすのが少し億劫になるが何も食べないのは身体に悪い。
「入るよ」
襖を開けると、母は未だ眠っていた。
「母さん、起きなよ」
声を掛けるが一向に起きる気配がない。
「母さん」
背中が冷えて痒い。ただの予感であってくれと脳内が駆け回る。
「起きてよ」
頬に触れると酷く冷たい。鼻に手を翳しても空気が来ない。脈は─。考えるより早く、身体が動いていた。
心臓に衝撃を与え、口から空気を送り込む。体力が続く限り、これを繰り返した。
「はァっ!はぁっ!ハァッ!ハぁっ!ハアっ!はあッ!」
五分ほどで酸欠になり、畳に倒れ込む。
「うぅ...ぐぇ...」
己はなぜ嗚咽を零す。もうこれ以上、母は苦しまくて済むではないか。これこそ、自身が望んだ結果ではないのか。
「か゛あ゛さ゛ん゛!」
今日も蹴鞠を教えてくれるんじゃなかったのか!あの、塩っぱい味噌汁を飲ませてくれるんじゃなかったのか!嘘つき!嘘つき!
「あ゛」
そうか。俺は生きて欲しかったのか。もっと、母に生きて欲しかった。自己矛盾に気づき、そして、己の過ちにも気づく。
死は幸せでも救いでもない
母もそれを望んでいるはずがない。
なら、どうすればいい!既に終わっている俺たちは何をすれば救われる!どうすれば、昨日を享受出来るんだ!
「があああああああああ!」
喉がとてつもなく痒い。掻き毟れば掻き毟るほど痒みは増して、肉が削がれる。爪に皮肉が詰まるがもはやどうでもいい。
もう、いいよ。俺はどんなに苦しんだっていい。だから、だから、母だけは、どうか救われますように。どうか、祝福に満ちた人生を送ることができますように。俺が無間地獄に堕ちて、母の病魔が祓われるなら、喜んで堕ちよう。どうか。どうか。どうか。
lllllllmorillll
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