第2話

「仁海」


 その微笑みは確実に精神を蝕む。憎いままでいたかった。その微温に一度触れれば、もはや忘れられない。反実仮想が脳裏を撫で回し、不快感で涎が滴る。


「相も変わらず無愛想な顔だな」


 呆れたように頭を撫でる母。神よ、なぜ彼女が苦しまねばならぬ。かく戦乙女がごとき、かく聖母がごとき。呪われる道理がない。何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ。


 憎 い


「どうした?お腹が空いたか?」


 俺を憎んだ母が憎い。その母を捨てた父も憎ければ、歪ませた世界が憎い。何もかもが。苦しむ道理などなかろうに。あぁあ、痒い痒い痒い!心臓が!脳髄が!全身が!


「よしよし」


 母は己の口に乳房をあてがう。慈母の施しに目が眩む。母とはこれほどまでに。なぜ、気づかなかった。否、あれでは気づけるはずがない。あのような関係に愛など見透かすことができようか。温かい。人肌に触れたのは何時ぶりか。それもきっと、歩けるようになるまでだ。祭事の際には冷めきってしまう。それまで、二年だけ、浸かってしまっても─。


 気づけば一年ほど過ぎていた。甘美な夢は現実を惑わせ、悦楽に溺れさせた。限られた日々を無碍に、堕落に、なんて気分のよい。


「仁海様は聡明でございます」


 舌足らずな声で前世で得た知識を振るうと周りは褒めちぎる。まともに動けぬから勉学だけでも力を入れていたのだ。それでも、あの義弟には敵わなかったが。あれは完璧すぎるから仕方がない。


「これほど優秀な仁海様であればこの華宮家も安泰でございますね」


 これが上の者が味わう満足感か。これが虚構でなければきっとこれほど滑稽だとは思わなかったのだろうな。くだらない。今すぐにでも死んでしまおうか。もう、満足だ。母の手の温かさも、乳の味も、笑顔も、甘い声も、愛も失ってしまうなら─


 は覚えている。脳の血管を弾け飛ばすように下腹部にぐっと力を入れる。そうすると、ほら、じんわりと─


「仁海!?」

 

 幼児の爆破ぐらいなら誰も無事でいよう。せめて、この時間軸での母は狂わぬように。祈りを込めた祝砲だ。


 弾け飛ぶ感覚。これにて今世の幕を閉じよう。



llllllllll



 脳内に光が満ちて、瞼が自然と上げられる。木目の天井と薄い桜の薫り。ここ一年で飽くほど嗅いだ愛しき芳香。己は死にそびれたのか。


「仁海!」


 目を腫らし、縋りつく母。己の為に涙を流しているのか。そう思うと自然と己にも込み上げてくる。


「よかった!よかった!よかった!よかった!─」


繰り返される言葉に一抹の澱みもない。一点の歓喜が浴びせられる。


「母さん。ごめん─」


でも、仕方ないことなんだ。母さん、駄目なんだよ。俺たちはもう─


「ぐっ」


母の戦果は度々、耳にしていた。父ほどでないにしろ、恒では負け知らずの猛者だった。あの病気さえなければ。患い弱った母を世界は嘲笑った。親しかった下女も、母を足蹴にして妾に従いた。あの憎たらしい母であれば何とも痛快で憐れで、心安らいだ出来事だったことか。その安らぎも顔を合わせる度に苦痛に変わっていった。


「し゛ん゛」


驚くほど無防備な首筋。筋力強化を掛ければ、幼児でも絞めることなど容易い。この慈ましき母はあの苦しみを味わうべきではない。されば、今ここで─


「あ゛い゛し゛て゛る゛よ゛」


ああ、母さん。僕もだよ。僕も母さんを愛してる。だから、逃げよう。こんな不条理な世界から。僕らの愛が汚されないように。その想いを抱いて、旅立って。俺はもう少し後でいくことにするよ。


力無き抱擁。すんでだらりと腕が落ちる。虚ろな瞳は己から視線を外さない。


「ひっ!」


盆を抱えた下女が異変に気づいたのか、襖を開けていた。


母を裏切る下女ごときがこの聖域を踏み躙るな!


「ぎょえ!」


女は踏み潰したカエルのような惨状となり、息絶えた。今更、何の力だ?怨みか?憤怒か?そんな呪いが幸せを齎すとでも?


「狂っている!」


どうすればよかった? 前世みたいにいきてみろと? めげずにやれと? 俺にそんな強靱な精神などない! あったとしても結果など変わりようがない!あれは決定事項だ!治療法もなければ寛解などしない!愚かに苦しめるならば、いっそ己の手で安らかに去ねらせようて。


脳内には子守り唄が木霊する。母のハスキーな声は驚くほど落ち着いて、気持ちの良い眠りへと誘うのだ。


「若風は木の葉を掠らせて♪」


俺たちだけが苦しむのは公平でない。


「我が子は森を震えさせん♪」


だからといって、皆苦しめとは言わない。


「さぁ、唄え♪恐れるならば♪」


せめて、俺たちにも─


「『滅鬼殺神』!」


父の声が聞こえた気がした。ここではまだ片手で数える程しか顔を見ていないあの父の声。多忙が故か。それとも─。とにかく、声だけ聞こえた。顔は視認できなかった。俺がぐちゃりと潰れてしまったから。


「何があったのだ...!」


宗尊は明らかに憔悴している。目を血走らせ、全身は脂汗に浸かっていた。


「咲蓮!仁海!うおおおおおお!!!」


愛する妻よ!息子よ!俺が居ない間に何が起こったのだ!仁海が危篤だと戻ってみれば......憑かれたのか!?俺の息子に憑いたのか!?下賎な人外共があああああ!!!!


数日後、華宮の名前が恒から消えた。それから、恒における全てのモンスターが次々と姿を消した。その勢いは他国にも見られ、世界におけるモンスターの数が激減した。語られるには、そこには怨嗟に呑まれた狂鬼が暴れ回ったいたからだという。



llllllmorilllll


「起きる時間だぞ、仁」


 どうしてか、懐かしい。重低音が鼓膜に染み渡り、多福感を覚える。


「母さん」

 

 悪い夢を見ていた。そうに違いない。自身から発せられる声は幼くも幼児のものではない。けれども、母は未だ愛称で語り掛けてくれる。くそ、なんて悪夢だったんだ。


 しかし、目を開ければ知らぬ天井。


 ここはどこだ?旅行にでも行っていたっけ?  


 横に目をやれば、が苦々しげに微笑んでいた。


「久しぶりだな、母さんだなんて言葉を聞いたのは」


 ああああああああああ!悪夢が終わらない!!!!!!!






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