月の石
紺道ぴかこ
月の石
ホテルの一室を訪れると、俺を呼んだ当人であるマキはタバコをふかしていた。
「遅かったじゃない」
部屋に入ってきた俺を見て、慌ててタバコを灰皿に押しつける。そばに置かれた果物ナイフの刃が、タバコの煙を浴びて鈍く光っていた。
俺と会う前はできればタバコは吸わないでほしいのだが、会っている最中に吸わなくなったのは「やめてくれ」とさんざん言い続けた功績だろうか。
「なんの用だ、急に呼び出して」
ドアの近くに立ったまま、ぶっきらぼうに問いかける。一刻も早く立ち去りたいときに限って、マキが緩慢な動作で腕を絡めてくる。
「用事なんてないわ。会いたかっただけ」
「帰る」
踵を返そうとするも、マキにしがみつかれた。
「どうしたのよ、なにかあるの?」
「妻の誕生日なんだ。前にも言っただろ」
「……忘れたわ、そんなの」
マキは眉をひそめたと思ったら、すぐにまなじりを下げて猫なで声を出し始めた。
「どうでもいいじゃない、いずれ別れる奥さんの誕生日なんて」
「別れる気はない」
ネクタイへ伸ばされた手を振り払う。宙をつかんだマキの口が、への字に曲がっていた。俺から離れ、呆然とした表情を浮かべる。
「……あたしと結婚してくれるのよね?」
「誰がそんなこと言ったんだ」
俺にとってのマキは、ただの遊び相手だ。「浮気」だの「不倫」だのと呼ばれる、危険な遊び。妻がいるからこそ成立するのだから、離婚などするわけがない。
それに、妻以外の人間と生活をともにするなんて、頭の片隅ですら考えたことがない。考えられない。
リップグロスでぬらぬら光る唇をゆがめ、マキが金切り声を上げる。
「愛してるって言ったじゃない! あれは嘘だったの!?」
「きみのことは愛してる。もちろん妻のことも。ただ、きみと妻への愛は違うから、きみとは結婚できない」
「意味わかんないんだけど」
「とにかく、妻と別れる気はない。それを理解してくれないなら、きみとの関係はここで終わりだ」
吐き捨てるように告げ、呆然と立ちつくすマキを置いてさっさと部屋を出る。
……またやってしまった。やれやれと肩をすくめ、エレベーターへ向かった。女はどうしてみんな、結婚を求めるのだろう。俺が欲しいのは気楽に大人の遊びができるドライなつき合いのできる相手であって、家庭ではない。なんなら家庭はすでに持っているし、充実だってしている。家庭では手に入らないものを満たしてほしいのに、誰もわかってくれやしない。女というのは、妻にならなければ気が済まないのだろうか。
ホテルを出ると、雲一つない夜空が広がっていた。六月の梅雨まっただ中という時期に、一滴も雨が降っていない。満月の優しい光が、夜道を照らしていた。
背広の内ポケットに手を当て、それの感触を確かめる。喜んでくれるといいな、なんて年甲斐もなくにやけている自分がみずたまりに映っていた。
「待って!」
一歩踏み出した途端、先ほど別れたばかりの女の声に呼び止められる。振り返ると同時に、なにかが勢いよく腹に衝突した。皮膚の内側を冷たいものが貫く感覚に、息がつまる。
視線を落とすと、果物ナイフが月の光を浴びて鈍い光をはなっていた。アイロンがけがされた真っ白なシャツに、どす黒いなにかが染み出す。
目の前には、獲物を狙う虎のようにぎらついた目をしたマキがいた。
「あんたが悪いのよ」
体を強く押され、地面に倒れ込む。立ち上ろうとしたが、腕にも足にもまったく力が入らなかった。体にしびれが浸透していく感覚を最後に、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
ゆるやかに体を揺さぶられる感覚で目を覚ます。辺りは真っ白な霧に包まれていた。先ほどまで眺めていた満月はどこに行ったのだろう。視線を巡らせてはじめて、ここがホテルの前ではないことに気がつく。
一定のリズムで体が揺れる。ゆったりと水を掻く音が、前方から聞こえてきた。立ち上がろうとしてよろめき、慌ててその場に手をつく。俺の動きに合わせて、足元が揺れた。
俺は舟に乗っていた。ホテルを出た俺がどうやってこんなところに移動してきたのかわからないが、静かな波の音と水辺特有の涼しさは、ここが舟の上であると教えてくれていた。
はっとして、背広の内ポケットを探る。箱の角に指が届いて、ほっとした。万が一なくしでもしたら、どうしようかと思った。
「だれ?」
霧の向こうから聞こえた声にぎょっとする。……いや、霧の向こう、というのは大げさか。濃霧の中、小さな舟に乗っているもう一人の人影が動いた。舟が微かに揺れる。
四つん這いになって近づいてきた影が、俺の鼻先で止まる。現れたのは、小学生くらいの女の子だった。俺を見つめて首を傾げると、二つに結んだやわらかそうな髪がさらりと揺れる。
「おじさん、だれ? どこから来たの?」
少女の口からもれる吐息にどぎまぎする。愛人の口から漂うタバコ臭とは正反対の甘いにおいに、不覚にも心臓が跳ね上がった。こんな感覚は、妻と出会ったとき以来である。
さすがに近すぎると思ったのか、少女が一歩後ろへ退く。とはいえ、少女の着ているパジャマが花柄であることが、濃霧の中でも認識できるくらいには近い。
「さっきまで私しかいなかったのに、いつ来たの?」
わからん、と小さく答える。逆に今どういう状況でどうしてこうなっているのかを教えてほしい。少女がさらに問いかけてくる。
「おじさん、死にそうなの?」
なにをふざけたことを言い出すのか、そう思って見た少女の表情に、ふざけた調子はみじんもない。ただ淡々と、自分の考えを述べているだけのようだった。
「私ね、自分が死にそうだな、って思うと、いつもここにいるの。でもしばらくすると霧が晴れて、部屋に戻ってるの」
死にそう、と思っているわりには冷静な声音である。いつもいる、ということは、自分が死にそうな状況に慣れているということだろうか。
「きみは、病気なの?」
「そうよ」
悲しみも苦しみも感じられない、無機質な答えが返ってくる。
「小さい頃からずっとなの。大人になるまで生きられないかも、って言われてる。だからいつかきっと、この舟であの世まで運ばれちゃうのよ」
そのいつかは今だったりして。冗談とも本気ともとれず、俺はただ眉を寄せるしかなかった。
「それで、おじさんも死にそうなの?」
ストレートな質問に、すがすがしささえ覚える。……さて、この子の言う通り、自分は死の危険にさらされているのだろうか。数秒で心当たりに思い至る。
「死にそうかも」
「病気? 事故?」
「刺された」
今度は少女が眉をひそめる。
「……なにしたの?」
「愛人に別れを告げただけさ」
子どもには刺激が強すぎるかもしれない、と思ったが口に出した後ではもう遅い。
「ふうん」
少女の反応は意外にも薄く、拍子抜けしてしまった。もしかしたら、「愛人」という言葉を知らないのかもしれない。
「おじさん、浮気してたのね」
知っていたか。
「刺されるほど愛されていたのに、別れようと思ったのね」
刺されることが果たして愛情表現になるのかどうかはさておき、そんなに愛されてもうれしくない。
「俺の一番は妻だし」
「ならどうして浮気したの」
「遊び」
「……最低」
表情こそ変わらないが、いや変わらないからこそ、たった二文字の言葉が心に突き刺さった。最低、か。やっぱり、端から見ればそう思われるのか。わかってはいたものの、改めて口に出されると少し……いや、かなり堪えた。
不思議なものだ。今までいくら浮気したって、罪悪感などこれっぽっちも感じなかったのに。相手が見ず知らずの少女であるだけ、まだマシではあるが。妻に言われようものなら、間違いなく立ち直れない。
「子どもにはわからないだろうけど、大人はいろいろ大変なんだよ」
言い訳がましく口にすると、少女はすん、とした様子で膝を抱えた。
「そんなに大変なら、私は子どものままでいいわ」
調子を変えぬまま、ぽつりとこぼす。
「どうせ大人になれないし」
先ほどの二文字よりも、俺の心を深くえぐる。まだ若いのに、生きることを諦めている。無機質な態度から感じ取れるそれが、悲しくて苦しくて、つらい。
「まだわからないだろう、これから具合がよくなっていくかも」
「無理よ」
「最近の医学は発達してるんだから、簡単に治せるよ」
「無理よ」
「元気になったらやりたいこととか、いろいろあるだろう? それを楽しみに待っていれば、すぐによくなるさ」
「……無理よ」
少女がぎゅっと体を縮ませる。華奢な体が、余計に小さく見えた。
「やりたいことなんてないもの。大人になったって、楽しいことなんてない」
淡々とした声に感情は見えない。けれど少女の体は小刻みに震えていた。ああ、そうか。この子は必死に自分に言い聞かせているのか。大人になってもいいことなんてない、だから生きようとすることは無意味なのだ、と。
「俺は、楽しいよ」
「浮気相手に刺されたのに、よくそんなことが言えるわね」
「それは悪かったと思ってるけど……でも、それで『生きていなければよかった』とはならない。生きていなければ、俺は妻と出会えなかった。妻に会えたから、俺は生きられるんだ」
「不倫している人に言われても、説得力ないわ」
「そうだろうな。よく聞かれるんだ、『どうして奥さんと別れないの?』って。俺は大人の遊びをしたくてつき合っているのに、みんな結婚を求めてくる。でも俺の一番は妻なんだ。妻と愛人のどちらかを選べと言われたら、間違いなく妻を選ぶ。あいつとじゃなきゃ、ずっと一緒になんていられない。俺とつき合うやつらはそれをわかってくれないんだ」
「……奥さんに『浮気はやめて』って言われたら、どうするの?」
難しいことを聞くもんだ。
「……やめるよ、たぶん」
「たぶん?」
「情けないけど、もう癖みたいなものなんだ。だから我慢するのは難しいかもしれないけど……あいつの頼みなら、聞くよ」
しばらくの沈黙の後、少女がふう、と息をつく。
「大人ってわからないわ。おじさんも、おじさんの奥さんも」
「俺はともかく、妻も?」
「だって、おじさんがしょっちゅう浮気しているのなら、間違いなく気づいているもの。なのに『やめて』って言わないなんて、意味わかんない」
少女の言う通りだ。たぶん、妻は俺の浮気癖に気がついているだろう。でも、それを責めてきたことなど一度もない。我慢しているのか、愛想を尽かして諦めているのか。俺と話しているときの彼女の笑顔を思い返すと、どちらでもないような気がした。
「たぶん、あいつもわかってるんだろうな。俺の一番は、自分以外にありえない、って」
「……やっぱり、大人ってよくわからない」
でも、と少女が心なしか声を弾ませる。
「大人になれば、わかるのかな」
大人として考える基準が自分たちでいいのかいささか不安ではあるが、大人になったときのことを少しでも考えるようになってくれてよかった。不思議なものだ、ついさっき出会ったばかりの少女の行く末を案じるなんて。こんなに心配した女性は、今まで妻以外に存在しなかった。
「霧、晴れてきたわ」
少女の言う通り、舟が進むにつれ白い霧が薄れていく様子が感じられた。
「霧が晴れると、あっちに戻れるの。よかったね、おじさん。まだ生きていられるわ」
「きみもね」
視界が明るくなっていく中、彼女の顔に影が差す。
「今回は運がよかったのよ。きっと近い内に、私は」
私は。もう一度つぶやくが、先を続けようとはしない。青白い唇を震わせるだけで、言葉が出てこないようだった。
そりゃそうだよな。本当は、きみは。
彼女の願いを、どうにかして叶えたい。初対面の少女にこんな感情を抱くなんて自分でも不思議でたまらないけれど、理屈じゃないのだ。俺の浮気癖が治らないのと同じで、心が、そうしたいと言っている。
内ポケットの中のものに手を触れる。世界一愛する女性へ贈ろうと準備したプレゼント。もしもこれが、彼女の力になってくれるのなら。ポケットからラッピングされた長方形の箱を取り出し、少女へ差し出す。
「……なに?」
「開けてごらん」
半ば押しつけるように渡して、少女がラッピングを解くさまを見守る。丁寧に取り去られた包装紙の下にあるものを見て、少女が息をのんだ。
「キレイ……」
クリアケースの中で、ペンダントにつけられた宝石が静かに光沢を帯びていた。少女がケースを顔の前まで持ち上げ、自身の瞳によく似た透明な宝石をじっと見つめる。
「ムーンストーン、って言うんだ。六月の誕生石でね、妻にプレゼントしようと思って」
「ムーンストーン……」
宝石から視線を外さぬまま、少女はかみしめるように口にする。
「きみにあげる」
少女が大きく目を見開き、俺に視線を向ける。淡々とした印象の彼女が、はじめて感情を顕にした瞬間だった。
「なにを言っているの!?」
「いつか俺に返しに来てよ。そうすればなにも問題ないだろ?」
「問題だらけよ! もらえるわけないじゃない」
「ちょっと貸すだけさ。俺に会いに来てくれるまで」
「無理よ、そんなの!」
少女が激しく首を振る。無理なんかじゃない。そう伝えたかったが、即座に否定されそうなので諦める。俺だって、どこかもわからない場所で出会った見知らぬ少女と簡単に再会できるとは思っていない。でも、会えるような気がするのだ。必ず俺の元にペンダントを返しに現れる。なんとなく、しかしたしかな予感がしていた。
「とにかく、約束だよ。必ず」
必ず、生きて。
最後の言葉は、光に飲まれて、消えた。
「あなた!」
目を開けて最初に見えたのは、見慣れた妻の安心しきった顔だった。
「よかった、目が覚めて……!」
身じろぎすると、腹に鈍痛が走る。ベッドに逆戻りするのと妻が慌てて俺に手を伸ばしたのは、ほぼ同時だった。
「刺されたのよ。まだ動かないで」
やわらかく、しかし有無を言わさぬ声音に従わざるをえない。もっとも、痛くて動く気も起きなかったが。
「……俺を刺した奴は?」
「すぐに捕まったわ。動機とか素直にしゃべったみたい」
動機……考えられることは一つしかない。問題は、妻がそれを知っているかどうか。
「なにか聞いたか?」
「なにかって?」
「そりゃあ」
続けようとして、口ごもる。妻がその事実を知っていようがいまいが、彼女の前でさらけ出すのはためらわれた。
うろたえる俺を見て、妻があきれたようにため息をつく。
「知ってたわよ、あなたが浮気してることぐらい」
ふと、霧に包まれた舟の上で出会った少女のことが頭をよぎる。緩やかな波の音も水辺の涼やかさも、そして少女の吐息もまざまざと感じとれた、不思議な夢だった。
「おまえは、やめてほしいと思う?」
なにが、というのはあえて言わなかった。言わなくても、妻ならわかると思ったからだ。案の定、妻はわかりきった様子できっぱりと首を横に振った。
「今さら言ったところでしょうがないでしょう? それに」
俺を見上げるようにして、いたずらっぽく笑う。
「一番は私だって、わかってるわ」
妻につられて俺も笑う。やっぱりこいつには敵わない。
視線を落として、妻の胸元で透明に光る宝石が目にとまった。
「それ……」
胸元に手をやり、妻が微笑んだ。
「ごめんなさい、勝手につけちゃった。すごくキレイだったから」
「……いや、いいんだ。もともとおまえにあげるつもりだったから」
少女にあげたはずのものがなぜここにあるのか。驚くようなことではなかった。しょせん、少女と出会ったのは夢の中。現実ではない。
それでも、少女とはまた会えそうな気がした。これは予感ではなく、確信だ。
「あなた」
俺の掌を、妻の掌がふわりと包み込む。透明な宝石によく似た瞳が、俺をまっすぐに見つめていた。
「ありがとう」
月の石 紺道ぴかこ @pikako1107
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