地下室の僕と白衣の姉さん

砂塔ろうか

地下室の僕と白衣の姉さん

 薄暗い地下で、目を覚ます。あいも変わらず空気は澱んでて爽快感とは無縁な場所だ。

 重いまぶたをこすって、僕は身を起こす。


「おはよう。今日もいつも通りの時間だね」

「……ん。おはよう、姉さん」


 薄汚れた、シワだらけの白衣の裾が踊る。姉さん——エルナ・サークロジャは僕に笑いかけて、いつもの質問をした。


「調子はどう?」

「いつもと同じだよ。この地下の空気がマズいってことも含め、いつもと何も変わらない」

「そう。それは良かった。……本当に、素晴らしいよ君は。変わらない才能……いや、普通を維持し続ける才能というべきものがあるのだろうね」

「それっていいことなの?」

「ああ。たとえば、ここに泣きやすい人と泣きにくい人がいたとする。私たちは万人を泣かせる絶対的な方法を探る研究者だ」

「……タマネギ切らせれば良くない?」

「仮定の話だよ。タマネギは存在しないことにしよう。……さて、そこで問題は、この時、研究材料として優れてるのはどっちかって話だ」

「泣きやすい人と泣きにくい人でしょ? 泣きやすい人はまあ、なにやっても泣くだろうし……あっ。そういうこと?」


 姉さんは静かに首肯した。


「そうだ。泣きやすい人が泣いたところで、なんの参考にもならない。だが、泣きにくい人が泣いたならそこには研究の余地がある。『泣きにくい人が泣いたということは、これは万人を泣かせる方法となりうるのではないか』……ってね。君についても同じことさ。薬や実験の結果、意図した通りの変化を見せる人間は何も面白くない。だが、意図しない変化を見せる人間、これには価値がある。反応が良すぎる場合はなにが過剰な反応を引き起こしているのかを調べられるし、反応が悪すぎる場合はなにが恒常性を維持しているのかを調べられる。

 ——つまるところ、やっぱり私は、君を弟にして正解だったって話だよ」


 僕が姉さんの「弟」になったのは5年前のことだ。


 故郷が賊の襲撃に遭ってなにもかもを失った僕は、奴隷商人の一団に捕獲されて奴隷として売りに出されていた。それは研究者向けのオークションだったらしく、健康な被検体を求める客で会場はいっぱいだった。

 そこで僕を買ったのが、姉さんだ。

 姉さんは僕を弟として扱い、勉強を教えたりマナーを仕込んだりしてくた。サークロジャ家は研究者の一族として知られているらしく、爵位こそないものの社交界でも一目置かれる存在らしい。もっとも、それを知ったのはつい最近のことなのだが。


 15歳になった僕は、サークロジャ家の人々を本物の家族同然に愛していた。だからこそ、僕への投薬実験が開始された。

 はじめに足の腱が切られた。身体のあちこちにチューブが刺され、様々な液体を注入されたり血を抜かれたりした。


「これはきっと、君の家族愛を試す実験になるだろうね」


 姉さんは言った。その意味するところは、未だによく理解できていないが……その日からずっと、僕はこの薄暗い地下室に囚われている。


 地下室には僕以外にも被検体がいるのだけれど、たいていの場合、ほんの一週間程度で彼らはもの言わぬ骸となってしまう。薬剤の投与に肉体が耐えられないのだと、姉さんは言っていた。そしてだからこそ、薬剤への強い耐性を持つ僕は素晴らしいのだとも。

 きっと姉さんと僕の価値観は一致してない。だけど、僕もこの強い耐性ある身体には感謝している。

 おかげで、こうして何ヶ月もの間、ずっと僕は姉さんと言葉を交わせてる。姉さんは忙しい人で、同じ屋敷で暮らしていても顔さえ見られないことがほとんどだった以前に比べれば明かに、僕は幸せだった。


 そして姉さんも、僕が被検体となってから笑顔を見せることが増えた。


「君のおかげで私は幸せになれる」


 そうも言ってくれた。

 きっと僕たちの幸せは合わないだろう。姉さんは研究者で、僕は被検体。根本的な価値観が、見えるものが違うのだ。だが、それでも構わない。

 どんな形であれ、姉さんと一緒にいられたらそれが僕の幸せで、姉さんにとっても、僕という存在が幸せに繋がることは確かなのだ。

 ならば僕はきっと、永遠に幸せでいられる。たとえこの身が姉さんに使い潰されるとしても、姉さんの幸せの礎になれるのなら、それでいい。僕は満足だ。


「バカバカしいものだな……そんなに目ェ輝かせ『姉さん』『姉さん』なんて」


 思考を断ち切ったのは、地下室の隅に設けられた檻の中、真紅の瞳をした少女の睨めつけるような視線だった。彼女もまた姉さんの被検体の一人で、僕と同じ『特別』。

 名前が分からないので、僕は勝手に「吸血鬼さん」と呼んでいる。その呼び方に彼女は不服そうな顔を見せるが、自分から名乗ることもない。


「……でも、君は姉さんの血をおいしそうに吸ってる」

「貴重な食事はありがたく、感謝の念をもっていただくものだ」

「良い心掛けだね」

「しかしてお前は、あの女の血を糧に生きてるわけではない。むしろ搾取されている」

「でも幸せをもらっている」

「この状況で?」


 吸血鬼さんは眉を顰めた。


「ああ。この地下室に囚われていれば、姉さんと一緒にいられる。だから僕は、ずっとこのままでもいい。僕が死んでも、それは姉さんの幸せへの道を舗装することになる。だから、いいんだ」


 吸血鬼さんは哀れむような表情をして、


「バカだな」


 と小さく言った。


 ◆


 数日後の夜。夢を見た。

 僕は暗闇の中を歩いている。狭く段差のまばらな階段を上り、上り、上り続けて地上へ出る。すると、そこには父さんがいた。勿論、本物の家族の方ではない。サークロジャの方だ。僕は彼に笑顔で挨拶する。

 だけど彼は、驚愕に目を見開いて、「エルナ! エルナ! ——!」と娘の名を、姉さんの名を叫んだ。

 鮮血が走る。

 首から飛沫を上げて、彼は倒れた。

 僕は歩く。そういえば、足の腱が切られたはずなのに歩けているのはなんでだろう。

 ……まあいいか。夢なんだし。

 僕はサークロジャの屋敷を歩いて回った。みんな、僕を見るとびっくりしたような顔をして、次の瞬間には鮮血を走らせてる。ぐらりと身体の軸がブレて、倒れる。だけどみんな、どこか救われたふうに笑っていた。


 そして最後に会ったのが、姉さんだ。


「ありがとう。私たちを、サークロジャを愛してくれて」


 姉さんは笑っていた。そこで、僕の記憶はプツンと途切れる。


 気がつくと姉さんの倒れ臥す姿が目の前にあった。首を何か鋭いもので切られていた。その鋭いものとは、僕の右手だった。


「…………なん、だ……これ」


 右手は硬質な剣のようになっていた。指を開こうとしてみると、それはすぐに元々の指の形に戻る。薬か何かの影響で幻覚を見たのだ——そう思いたかったが、姉さんの倒れた身体が、濃密な血の臭いが、現実逃避を許さない。


「……ふ。やはり、君は素晴らしい。まさか、ここで薬の効力が切れてしまうなんて」

「姉さんっ!?」


 驚いたことに、姉さんは首を切られたにもかかわらず、まだ息があった。僕はその身体を抱き上げる。


「ま、待って今止血を——」

「大丈夫。……これはただ、吸血鬼に血を吸わせ続けた後遺症で、死に損なってるだけ、だから」

「……? なにが、大丈夫なんだよ」

「放っておいても、悪魔の研究一族、サークロジャは滅びるということだよ。この穢れた血は、後世に残すべきでは、ない」


 姉さんがなにを言っているのか、わけが分からなかった。そんな僕を差し置いて、話は続く。


「騙すような真似をして申し訳ないと思ってる。でもこれで、『』の製法を知る者はいなくなる。サークロジャは、地獄に落ちる」

「『好意を反転させる薬』……?」

「ああ。忠誠を誓う騎士に暗殺を。慈母に虐待を。孝行者の息子には親殺しを。——強制させる悪魔の薬だよ。おそらくは、万人に有効な、ね。……それが、今、私と君の研究によって完成し、永遠に失われる。サークロジャは遥か昔からの役目をついに果たして、消える。この一瞬のために、サークロジャの呪われた血はあった」


 あとで屋敷に残された日記を読んで分かったことなのだが、サークロジャ家は元々、他国を陥れる薬剤の研究開発のために生み出された家系だったらしい。そして、その血にはある呪いが込められていた。


 ——『成果を出せ』『生まれた意味を忘れるな』。少しでも役目を放棄しようとすると、そんな幻聴が精神を容赦なく蝕み続けるというものだ。


 ああ、と姉さんは息を零す。


「ずっと……辛かった。普通の幸せは手に入らないと分かっていても、諦めることができなかった。狂ってしまえば楽だったのに私は、中途半端に心が折れにくかったから……普通に、誰かに愛される夢を、追い続けてしまった」

「そんな、冗談はやめてくれ! 姉さんっ! 僕は、姉さんに使い潰されても——いや、使い潰されることが幸せだと、思ってたのに……こんなっ! こんなのは違う! 違うだろ!」

「ふふっ。ありがとう……こんな私を、愛してくれて。そしてごめんなさい。私一人、勝手に幸せになってしまって……」

「謝ったって許さない! 許さないぞ僕は! ……そうだっ! 吸血鬼! あの子に血を吸わせれば——」

「無駄よ。もう助からない」


 割り込んできた声の主は、僕が呼びに行こうとしていた吸血鬼さんだ。彼女は首を振って、人差し指を一本立てた。


「吸血鬼が眷属にできるのは、一夜に一人まで。だからもう、その女を助けてやることはできない」

「そういうことだよ。今宵、君は眷属になった。私の枠はない」

「ハ…………? 僕、が?」


 そっと、口もとに手をやる。すると確かに、異様に長く鋭利になった犬歯が、そこにはあった。

 それに、よく考えたらおかしい。ここには月明かりがわずかに差し込むだけだ。なのに、僕は今、昼間と同じくらい——いや、それ以上によく視えている。


「はっはははっ……そ、それじゃあつまり? こういうことですか?」


 もう笑うしかない。僕は状況を整理する。


「僕は家族を皆殺しにして、幸せになってほしかった姉さんさえも殺して。なのに生き続ける? 何年も何千年も?」

「一つだけ訂正だ。君は確かに私を幸せにしてくれた」

「でも……っ! 僕はこんな展開、望んでなかった!」


 そうする間にも、姉さんの体温は下がり続ける。呼吸は浅くなる一方で、よく見れば、目の焦点がもう、合っていない。


「だいたい、なんで僕を吸血鬼なんかに……」

「君、足の腱を切られてただろう。それじゃあ歩けないじゃないか」


 そんなことのために、僕は眷属にさせられたのか……?

 だが、姉さんならばやるだろう。それは確信をもって言えた。

 苦しい。辛い。僕の命を姉さんにあげられるのなら、僕は喜んで差し出す。『僕を犠牲にして姉さんが幸せになる』……それが、僕の望んでいた未来だったから。僕の幸せだったから。

 でも、姉さんの側は違った。『僕の愛によって地獄に落ちる』……きっとそれを、姉さんはずっとずっと、願い続けてきた。


 …………なら、僕は、諦めて姉さんを逝かせてやるべきなのかもしれない。

 腕の中で、姉さんの命が失われていくのが分かった。吸血鬼になったからだろうか、以前よりも鋭敏に命の感覚が分かる。目を凝らせば、青く光り放つ魂のようなものを見ることもできた。

 そして、姉さんは魂は今、かすみゆく一方だ。

 だけどその輝きは喜びにうち震えているようで——もう、どうしようもないのだと理解わからせられる。

 正真正銘、姉さん——エルナ・サークロジャの魂は救済されていた。


 僕が受け入れはじめたのを察知したのだろう、姉さんはやさしく微笑んだ。


「最期に、約束してくれないか」

「……なに?」


 その約束を聞きいれてしまったらもう、姉さんは死んでしまうだろう。でも、僕は大人しく続きを聞く。


「君も、いつかは幸せになってくれ。私と同じかそれ以上の幸福を、手にしてくれ」

「うん。分かったよ。いつか、必ず……」


 僕は頷いてしまった。だけど、これで良かったんだ。姉さんは安堵の表情を浮かべることが、できたんだから。


「……ありがとう。君を弟にして、本当に、良かった」


 そう言い残して、姉さんは逝った。最期まで、まったく身勝手な人だった。


いにしえの盟約は果たされた。しかと見届けたぞ。サークロジャの終焉を」


 吸血鬼さんは誰かに報告するように言った。


「して、弟よ。サークロジャに非ずして確かに家族であった者よ。これからどうする」

「…………考える時間を、下さい」

「よかろう。ただし、一つ忠告だ」

「?」

「吸血鬼は『約束』を果たさなくては、死ぬことを許されない。自殺は無意味と心得よ」

「…………それを、姉さんは知っていた?」

「サークロジャは吸血鬼わたしを何代にも渡って解剖、研究し続けてきたのだ。知らなかったと思うか?」

「解剖しただけで分かるようなことじゃないと思うけど」


 吸血鬼さんは少しイラついた顔になりつつも、鷹揚に首肯した。


「知っていたとも。『すべてうまくいったら、お前のことを頼む』と約束を持ちかけてきた」

「それを吸血鬼さんは……」

「結論は早く出せ。子守りは得意でない」


 バタンと、扉を叩きつけるようにして吸血鬼さんは部屋を出ていった。

 部屋には僕と姉さんだけが残される。月の光が静かに照らすなかで、僕は姉さんを抱きしめて、そっと呟いた。


「……僕の初恋は、あなただった」


 あの、ギラギラとした目でいっぱいだった奴隷オークション会場で、あなただけが女神のように慈愛をもって僕たちを見てくれていた。事実はどうであれ、僕の目にはそう映った。

 きっと一目惚れだったのだ。

 僕にはあなたが、地獄に救済をたずさえてきた神様の御使いに見えていた。

 だから、どんな酷い扱いを受けようと、どんな薬を打たれようと、僕は耐えられた。

 きっと、僕に『普通であり続ける才能』なんてなかったのだ。あるとすれば、それは強固な愛。僕は恋して、愛していたからこそあなたと一緒にいようと、数々の実験に耐えることができた。


「さようなら。あなたの思い出を胸に、僕は行きます」


 こうして、僕の初恋は終わった。


 僕は地下室を出て。姉さんはその白衣を鮮血に染めて。

 それが僕たちの終わりだった。


 ——屋敷が燃える。赤く赤く。サークロジャの屋敷は業火に包まれた。あそこにはたくさんの被検体たちがいたはずだ。でも、僕の隣に立つ彼女は「誰も外には出られない」と言っていた。

 だから、これで良かったのだ。


「さようなら、姉さん……」


 こぼれ落ちる涙を拭うことも忘れて、僕は燃える屋敷を、その全てが灰になるまで見続けた。


(了)

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