羽ばたき Ⅴ
吹雪が荒ぶ中、振り下ろされた刃を刃で受け止める。同時に頬に飛び散ってきたのは、止まる気配が一向にない紅い雫だった。
おびただしい血を失い、足をふらつかせながらも、アスコルは柄から手を離そうとしない。彼が振るう剣はあからさまに力がなくなっていっているが、それでも従兄は剣を構え続けた。重い長剣を持ち上げるだけでも、もう精一杯だろうに。
「お前、どうしてそこまでやるんだよ」
アスコルはそこまでしてロスティヴォロドを殺したいのだろうか。シグディースの誘拐といい、伯父ほどでなくとも、いつの間にか従兄の恨みを買っていたのかもしれない。だとしたらこんな回りくどい真似をせずに、その場で殴りかかるなりすればよかったのに。
「お前には、分からんだろう」
鍔迫り合ってはいるものの、ロスティヴォロドが少しでも力を込めたら、立つのもやっとという風情の身体は吹っ飛んでいきそうだった。だのに、アスコルは律儀にロスティヴォロドの問いかけに応える。
「リューリヤを忘れて、新しい女に入れ揚げたお前には――」
アスコルは本当に、昔から変わっていない。図体は相応に大きくなったのに、中身はリューリヤがいた頃のままだ。
少年時代から死者に、過去に囚われ続けたままというのは、アスコルにとって良くないことだったのだろう。もっと早く、こんな馬鹿をしでかす前に、ロスティヴォロドが気づいてやれば良かったのかもしれない。
物心つく前から共に居たというのに、ロスティヴォロドはアスコルを救えなかった。当初は同じ場所にいたはずなのに、シグディースを見つけて一人闇の最中から抜け出した自分は、もはやアスコルの苦痛を終わらせることしかできない。
覚悟を固めた男は、従兄に与えた剣を己の剣の鍔に絡めて引き落とし、矢が刺さっていない方の肩から斜めに斬り捨てた。わっと上がった野太い歓声には、流石に伯父のものは混じっていない。
「……安らかに眠れ、愚息よ」
凍てついた風がロスティヴォロドの耳元まで運んできた、幽かに震え濡れた囁きは、どっと倒れ伏したアスコルにも届いたのだろうか。まだ僅かに息のあるアスコルの濡れた口元は、ほんの僅かに持ち上がっていた。
「で、お前、一体どうしてこんな馬鹿やったんだ? 言っとくけど、この期に及んで“母上のため”なんて嘘は付くなよ」
次第に小さくなっていくだろう従兄の言葉を聞き取りやすいように、傍らにしゃがみ込む。
「……参ったな。それで押し切るつもりだったのに、見透かされていたとは」
最期ぐらいは、アスコルも常に纏っていた心の鎧の全てを取り去るつもりになったのか。
「そうだな。母上なんか、本当はどうでもいい。ずっと――お前がシグディースを妻にすると言いだすまでは、忘れていたぐらいだからな」
こんなに素直なアスコルの姿は、今まで見たことはなかった。そして幾ばくかの後には、もう永遠に見られなくなるのだ。
「お前も気づいてただろ? 俺も、リューリヤのことが好きだった。で、惚れた女のために命を賭けるって、男として最高に滾るだろ?」
からからと笑うアスコルは、やり切った顔をしている。だから、お前ほんとに馬鹿だななどと、小突けはしなかった。
「リューリヤは、お前にずっと自分を想ってもらいたかったはずだ。だから俺は、お前がシグディースを妻にするのもいいと思っていた。お前が、シグディースを通してリューリヤを愛し続けるなら」
この世に居られるのはあと僅かだと、アスコルはいつになく滑らかに舌を動かす。だが紡がれる声は細くなるばかりで。
「……でもお前はもう、リューリヤのことなんてどうでもいいんだろ?」
「地下の国で家族と幸せに暮らしてくれてりゃいいな、とは思ってるが」
それをどうでもいいと言うんだ。
ぱくぱくと開いた口はそう発したかったのだろうが、アスコルの詰りはもはや音にならなかった。
「……だから俺は、呪いをかけたんだ。効果があるかは分からないが」
けれども死にゆく従兄が文字通り絞り出したささめきは、はっきりとロスティヴォロドを刺激した。もしかしたらそれは、耳ではなく心を介して伝わったものなのかもしれないが。
一体誰に。大体、呪いとはどういうことだ。
従兄の肩を掴んで問い質したくとも、アスコルは既に事切れていた。どこか勝ち誇ったかのような微笑を浮かべる亡骸の前で佇んでいると、赤子の鳴き声が鼓膜を
「元気な男子でござりまする!」
いつのまにやら連れてこられていた産婆が、急ごしらえの天幕の中から頬を上気させて出てくる。すると周囲は、アスコルが倒れ伏した瞬間よりもけたたましい歓声に沸き上がった。
「大公様、おめでとうございます!」
「和睦が成った日に御子息がお生まれになるとは、なんとめでたいのでしょう!」
配下の従士もサリュヴィスクの民も混ざり合って祝辞を述べてくる。常ならば真っ先にロスティヴォロドに擦り寄ってくるだろう伯父は、独り我が子の躯の前で佇んでいた。
囚われている間、シグディースは伯父の屋敷に押し込められていたらしい。確かにサリュヴィスクで最も豪壮なのは、代官として派遣した伯父一家に与えた邸宅であった。大公妃が産後の身体を癒すべく逗留するに相応しいのも。
伯父の妻の寝台で、上掛けに埋もれるかのごとく横たわるシグディースは、出産してから丸一日経っても目を覚まさない。産婆によると三男はこれ以上はないという安産で生まれ、シグディースの身体にも異常はないそうなのだが。とすると、シグディースが未だ眠っているのは疲労のためか。
シグディースはいきなり誘拐され、船で五日ほど揺られて極寒の地まで連れてこられた。更に慣れないサリュヴィスクで一月ほどを過ごし、極めつけは吹雪の中での出産だ。疲れがどっと押し寄せてきたのだろう。
赤子は乳を求めて泣き叫んでいるが、授乳を始めとした赤子の世話は乳母に任せるので、シグディースが眠ったままでも問題はない。繊月の眉を時折顰める妻が目覚めるまで側にいたいのだが、ロスティヴォロドにはまだ果たすべき責務があった。
過激派とは和解を果たしたとはいえ、サリュヴィスクの民会にどの程度までの自由を認めるのかについては、未だ一致に至っていない。和睦の証としてあちらの代表と同じ釜で炊いた
「ゆっくり休めよ」
月色の髪が張りついた秀いた額に唇を落とし、伯父の屋敷を後にする。今後のグリンスクとサリュヴィスクの在り方を左右する会議の場に、大公であるロスティヴォロドが出席しないわけにはいかないのだ。どんな事情があれ、サリュヴィスクに自治を認めたのは自分なのだから、なおさら。子や孫、更には子孫たちに迷惑をかけないためにも、務めは果たさなくてはならない。
エレイクの一族のいずれから選ばれるサリュヴィスクの公は、有事の際の防衛、教会の保護、及び裁判の務めのみを果たすべし。ただし、サリュヴィスクは他の地に課せられる税に加えて、自由の対価を購うべし。その対価はグリンスク大公によって定められるものとする。
ようやく双方が納得できる地点に辿り着けたのは、そろそろ大公たるロスティヴォロドだけでもグリンスクに向けて発たねば、という頃だった。
生まれて一月も経っていない赤子や、産後間もないシグディースに、長旅は辛かろう。せめて赤子が一ヶ月を越えるまでは二人はこの地で休ませることにし、従士を引き連れた大公は最北の始まりの地を発つ。
ロスティヴォロドは結局、シグディースとはろくに顔を合わせられないままだった。しかし、妻も本格的な冬が始まり屋外が雪に埋め尽くされる前に、戻って来させる手筈である。
一年も離れていないのに懐かしい屋敷に彼女が帰還しさえすれば、迷惑をかけたと形良い耳元で囁くついではあるだろう。その時、彼女は痛罵や拳を雨あられと浴びせかけてくるかもしれない。けれどもそれも命あってこそできる触れ合いだ。上の子供たちも、母の帰りと弟の誕生を飛び上がらんばかりに喜ぶだろう。
指折り数えていた、待ち望んだ日。戻って来た妻は、以前とは少し様子が違った。ある意味元からおかしいと言われればそれまでなのだが、矢車菊の青の美しい双眸には、言いようのない翳りが落ちている。
「――覚悟せよ!」
衣裳櫃に放り込んでいたらしい組紐文様の短剣を握る彼女の様子から、最初は怒っているのだろうかと考えた。
ロスティヴォロドにはシグディースに激怒される心当たりが幾つもある。
まず、計略に嵌って大公邸の襲撃を許し、身重だったシグディースに要らぬ労苦を味わわせた。出産が始まった彼女をアスコルから解放するためだったとはいえ、一歩間違えれば彼女の身を貫いていたかもしれないのに、矢を放ったのも悪かったのかもしれない。まだ産後の身体が癒えきっていないだろうからと、シグディースが帰還したというのに宴を張る準備さえしていないのも、彼女の誇りを害したのかもしれなかった。だが、いつまでも暴れさせていては大切な身体に障る。
「一体どうした? えらく情熱的じゃねえか」
短剣を取り上げ、寝台に細い身体を押し倒す。癖のない青金の髪が真白の敷布の上に広がる様は、例えようもなく美しかった。長子は髪も瞳も彼女と同じ色を有するが、髪質は自分と同じで緩い癖がある。次子と三子は、ロスティヴォロドと同じ鋼色だ。また子供たちはいずれも、サグルク人の神話の暁の女神さながらだと讃えられる妻の面差しを継がなかった。
子供たちが母親の美質を受け継がなかったのを残念に思いつつ、真っ直ぐな髪を指で梳く。すると切れ上がった大きな瞳ははらはらと涙を流した。そうして初めてロスティヴォロドは、シグディースは怒っていたのではなく、悲しんでいたのだと悟った。けれども、何を悲しんでいるのかまでは分からない。
「お前に何かあったら、ガキ共が泣くだろうが」
抱きしめながら慰めても、華の顔は露を含んだまま。再び共寝をする頃になっても、四度目の懐妊が明らかになっても。またその子が産まれても、シグディースは見えぬ涙を流し続けていた。
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