羽ばたき Ⅳ

 遠目にも麗しい妻は吹き吹雪の最中でも、毅然と歩んでいた。今年贈った黒貂の毛皮が巻きつけられた肢体はほっそりとしているが、腹部ははちきれんばかりに膨らんでいる。

 普段被せているものよりかは質が劣るが豪奢な布に包まれた顔に、疲労や焦燥の痕跡はなかった。どうやら過激派は外道の集まりであっても、ロスティヴォロドが憂慮していたほど頭が悪くはなかったらしい。

 だが、いついかなる時も弱音を零さぬ妻の眼差しは、ロスティヴォロドに助けを求めているようだった。それはそうだろう。首筋に剣を突き付けられているのだから、不安でたまらないはずだ。

「アスコル! てめえ、俺の女にちょっかい出したからには、従兄だからって容赦しねえからな!」

 たまらず、今にも布に隠れた首筋に突き刺さりそうな剣を握る男を詰る。高位の家臣たちに縋りつかれ、何とか身に着けた高貴な物言いなど、どこぞに飛んで行ってしまっていた。それにしても、シグディースを先頭にしてやってくるとは、なんと手抜かりのない奴らだろう。これでは、構えていた矢を放てるはずがない。

「――今すぐ大公妃様を解放せぬかこの愚息め!」

 口惜しさに唇を噛みしめていると、傍らの伯父が声を張り上げた。シグディースと腹の子に万が一があれば。さすれば甥であるロスティヴォロドの気が変わって処刑されてしまうやもしれぬ、との焦燥に駆られての行動だろうが。

「これはこれは父上」

 ロスティヴォロドに対しては無反応だったアスコルも、父からの絶縁状は耳できちんと拾い上げた。

「私を父などと呼ぶでない! お前とはもう縁を切らせてもらう! この日この時をもって、お前とは父でも息子でも何でもないわ!」

「それは願ってもないことですが、俺を先に息子と呼んだのは貴方ですよ」

 シグディースも自分も、サリュヴィスクの民の穏健派も。もしかしたら過激派すらも、この父子の親子喧嘩に巻き込まれただけなのかもしれない。だとしたらいい迷惑なのだが、自分とて異母兄ヴィシェマールから位を奪った身だ。あれとて、一般の民からしたらはた迷惑な兄弟喧嘩でしかなかっただろう。

 とにかくロスティヴォロドは、アスコルを裏切り者と非難するつもりはなかった。もっと前。それこそ彼の母が首を括って死んだ際にでも、声が続く限り伯父を詰っていれば良かっただろう。と、奴の肩に手を置きたくはなったが。それか、酒の力を借りてでもいいから、自分に胸の裡を吐露してくれていたら。

 遅すぎる哀愁にしばし浸っていると、妻の美しい双眸がはっと瞠られた。顔色も、いささかながら悪くなっている。

「まあ、無駄話はこれぐらいにしておきましょう。この寒さのせいなのか、大公妃様も先程から震えていらっしゃいますし」

 シグディースの異変を察知したのだろう。アスコルはこれ幸いと、昔から滑らかな舌を更に滑らかにした。アスコルが伯父に似たのは、顔立ちといざという時の舌の回り具合ぐらいのものだろう。抜け目なさや薄情さを受け継がなかったのは、アスコルにとっては幸か不幸か。

「サリュヴィスクの民はそう欲深くはないのですよ。確かに此度の企ては、当初は重税への怒りから始まったものでした。ですが民会にて和議を重ねた結果、富よりももっと価値があるものがあると気づいたのです」

「んな似合いもしねえまどろっこしい喋り方すんじゃねえよ、嫌味ったらしい。欲しいもんがあるなら、さっさと言いやがれってんだ」

 何らかの異変に見舞われているらしい妻を、少しでも早く取り戻したい。焦るロスティヴォロドの神経を、そのつもりはないかもしれないがアスコルは絶妙に逆なでした。物心つく前から一緒に居た従兄は、どうすればロスティヴォロドが冷静さを失うのか知り尽くしているのだ。

「――さっさと答えろ! でねえとお前の身体中に矢を生やして、針鼠にしてやるからな!」

 奴の思惑通りに動いてはいけないと重々承知しているのに、花の顔が苦痛に歪む様を見せつけられると、とても平静ではいられなかった。

 あのシグディースがあんなにもはっきり狼狽しているということは、もしや出産が始まったのではないか。

 ごうごうと唸る風の音は、ひび割れた呻きをロスティヴォロドに届ける。

 なぜ、選りによってこんな時に。頭を抱えて叫びたくなる頃合いで始まった陣痛は、敵味方を問わず寒風吹き荒ぶ野に集結した男たちを狼狽えさせた。

 特にサリュヴィスク側などは、蜂の巣を突いたような大騒動である。風の唸りに混じって聞こえる罵倒から察するに、シグディースと子の双方に万が一の事態があれば、皆殺しにされると怯えているのだろう。その通りだ。

 ロスティヴォロドの殺意が伝わったのか。はたまた人間として最低限備えていてしかるべき良心の囁きに負けたのか。過激派はとうとう、仲間であるはずのアスコルに剣を突き付けた。

「――お聞きください、大公様!」

 堂々たる体格の男が、紛糾する過激派の隙を伺っていたロスティヴォロドたちの前に進み出る。

「俺たちサリュヴィスクの民は、ただ俺たちの誇りと伝統を――民会によるサリュヴィスクの運営を続けさせてほしいだけなのです!」

 次に進み出たもう一人が絞り出した要求は、予想よりは受け入れやすいものだった。

「それさえ認めていただければ、サリュヴィスクはエレイクの一族の男子を公として戴き、グリンスクへの税もきちんとお納めいたします。他の国の君主の血筋の者を公として招聘したり、私どもの間から公を選出するような真似は決していたしません!」

 サリュヴィスクの深い森は最高の蜜と毛皮を育む。一定の枠内での自由を与えさえすれば、財布が懐に大人しく納まってくれるのなら、それで構わなかった。

 始まりの地に根付いた同胞も、かつて支配者であったサグルク人の豪族層も、無理やりに繋げば鎖を引きちぎらんとして却って激しく抵抗するだろう。ロスティヴォロドとしては、シグディースを取り戻すためという大義を抜きにしても、今ここで過激派の要求を認めてもよい。血が滲むまで鞭打たれて主人に怯えるようになった家畜よりも、放牧されのびのびと草を食んで育た家畜の方が味が良いと、誰かも言っていた。

 父祖が自由と引きかえに捨てた、遙かなる灰色の海に突き出た、大陸中部北方の半島。自分の代では叶わずともいずれ彼の地の民との交易を始めるのなら、その玄関口はサリュヴィスク以外にはありえない。しかし自分の子孫が、サリュヴィスクを上手く抑えられるかは分からない。だから来るべき時に備え、サリュヴィスクに自由と引きかえにしたエレイクの一族への服従の伝統を作っておくのも、悪くはなかった。

 しかし、一つ問題があるとすれば――

「いくらお妃様を取り戻すためとはいえ、剣を交えもせずに奴らの主張を呑めば、大公様は腑抜けと嗤われましょう。聡明なる祖母君や、勇敢なる御父君が築いてきた英名に、傷を付けてはなりませぬ!」

 拳を震わせてアスコルを睨みつける伯父の指摘通り。このまま過激派の主張を承認すれば、配下の諸族の長はロスティヴォロドが敗北したと取るに違いない。さすれば戦いもせず怖気づいた小心者など恐るるに足らずと、更なる反逆を招いてしまうだろう。

 一体どうやって落としどころを付けたものか、と考えている時間は余りなかった。シグディースは既に、立つことすらままならなくなっている。

「――狼の心を持った人でなしめ! 貴様など、大公様の剣に首を刎ねられればよいわ!」

 伯父が喉から絞り出した挑発は、ある意味アスコルの所業よりも余程人でなしだったのだが、一筋の光を齎してもくれた。

「――承知した。全部お前らの言う通りにしてやる」

「大公様!?」

 衝撃のあまり卒倒しそうな伯父の、これ以上ロスティヴォロドに口を開かせまいとしてか伸ばされた手を振り払い、男は弓を放った。ごうごうとうねり狂っていた、雪交じりの白い風が、ぴたりと静止した一瞬を突いて。

「ついでに、俺の妃に加えた非礼もなかったことにしてやろう。お前たちは焚きつけられだけだからな」

 非常に際どい賭けではあったが、斑の尾羽の矢は狙い通りにアスコルの左の肩口に突き刺さった。

 針めいた寒気は、とめどなく溢れる生命の雫すら、大地に滴ったそばから凍てつかせる。左半身を赤く濡らした男は、それでもなお作り物の笑みを面に張り付けていた。氷結した血潮の粒が赤く輝く足元に長剣を放られても、なお。

「大公妃さま。今の間に、どうぞこちらへ」

 救出されたシグディースの許に駆け寄って、細い身体を抱きしめ接吻したいのはもちろんだが、ロスティヴォロドには果たすべき務めがある。

「その剣を拾え」

「一体、何のためにだ?」

「俺と勝負しろ、アスコル」

 事実はどうあれ、アスコルにグリンスク大公の位を狙ってサリュヴィスクの民を扇動し、大公妃を拐かした反逆者の汚名を擦り付ける。

「従兄弟のよしみだ。お前が勝てば、この国からは追放するが命は見逃してやる。シャロミーヤでも草原でも善神教徒どもの国でも、好きな所に行けばいい。だが、俺が勝ったらこの場でお前の首を刎ねて処刑する。サリュヴィスクの民を焚きつけ俺の妃を拐かした罪は、死を持って購ってもらうからな」

 その上でこの従兄を処刑するというのが、ロスティヴォロドが導き出した、最良の落としどころであった。

 ロスティヴォロドを守るために鍛えられたアスコルの腕前は知悉している。が、肩に矢が刺さった状態の彼に負けるほど、ロスティヴォロドは弱くはない。追放という道をちらつかせはしたものの、手心を加えてやるつもりもなかった。

 ――それはそれは、寛大なことだ。やっぱり、お前が従弟で良かったよ。

 そもそも革の帷子すら纏っていないアスコルと、鎖帷子で身を守ったロスティヴォロドでは、アスコルが負傷しておらずとも結果は明らかである。けれども従兄はほんの一瞬とはいえ、心の底からの笑みを浮かべた。自分の婚約者だった少女に微笑みかけられた彼が浮かべていた微笑そのものを。

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