羽ばたき Ⅲ

 軍備を整えていると、三番目の妻やその間に儲けた子供たちを連れた伯父が、グリンスクまで落ち延びてきた。

「ああ、大公様!」

 着の身着のままで逃げてきたのだろう。重臣たちと朝議を行う場に通された伯父は、薄汚れくたびれていて。それでも伯父はロスティヴォロドの姿を確認するなり、跳ねあがらんばかりに喜んだ。そして次の瞬間には、妻と共に跪いて滂沱の涙を流しさえしたのである。

「ご無事で何よりでございます! 私は、大公様の身に万が一があったらと考えると、我が身が引き裂かれんばかりの想いでございました」

 ロスティヴォロドの子と五つも変わらない年頃のいとこたちは、ひたすらに自分たちを囲む戦士たちに怯えていた。まだ幼いいとこたちが、腹違いの兄の暴挙に関わっているはずがない。だが、アスコルの父である伯父の子であるからには、従士たちの怒りの的となるのは当然ではあった。

「大公様こそこの地の唯一の支配者。偉大なる御父君イシュクヴァルト様と、聡明なる祖母君ソーディヤ様の覇業を受け継ぐ者でございます」

 自分の靴に頬ずりする勢いでこびへつらう伯父の姿は、どんな事情があっても眺めていたいものではない。だがこの、いっそ潔さを感じさせるほど速やかに大切なものをかなぐり捨てる姿勢こそが、伯父をここまで生かし導いたのだろう。

 周囲を固める従士たちも、伯父のあまりの情けなさに警戒を緩めつつある。そういえば母は生前、まだ幼いロスティヴォロドの耳元で「兄さんみたいになっちゃ駄目よ」としきりに囁いていた。

「――そういうのはいいから、俺の質問に正直に答えてくれ、伯父貴」

 溜息を押し殺しつつ面を上げよと促すと、自分や母と同じ色の瞳を濡らしていた涙は既に乾いていた。

「伯父貴は、今回のあいつ・・・の動きを、一切関知していなかったのか?」

 伯父ならば、あえて名を出さなかった人物が誰か察せられるはずだ。

「……あやつをサリュヴィスクに伴いはしたものの、顔を合わせるのは月に一度あるかないかの頻度でしたので。お恥ずかしながら、あやつがサリュヴィスクの過激派と関わっているというのも、大公様に付けていただいた副官から指摘されて気づいたのでございます」

 私があれの動向に注意を払っておれば、このような大事に至る前に過激派をひっ捕らえ、一人残らず大公様の御前に引きずりだせましたものを。

 口惜しげに囁いて締めくくった伯父の拳を震わせているのは、長子の所業への憤りであり、我が子の内面を見透かせなかった後悔ではないだろう。伯父のそういった所がアスコルを今回の凶行に駆り立てたような気がしないでもなかった。けれども伯父とアスコルの不和はこの場で追求すべき事柄ではない。

「だったら、あいつを捕らえ次第処刑しても構わないんだな?」

「もちろんでございます! むしろ、私がこの手で直接始末を付けたいほどです!」

 寸毫の迷いも躊躇いもなく我が子を切り捨てた様子からも、伯父の発言に偽りがないのは裏付けが取れた。だいたい、ロスティヴォロドの伯父であるというただ一点に拠って生きる人間が、刃向かってくるはずはない。

 この伯父は何事もそつなく器用にこなすし、人当たりも柔らかい。なので雑事を任せるのには重宝する。だが、父親には決してしたくなかった。だからといってアスコルを哀れむつもりもないが。

 なんにせよ、伯父には約四年は恙なくサリュヴィスクを治めていたという実績があるので、討伐に参加させた方が得だろう。伯父は戦はともかく、その事後処理は得意なのだ。

「……おお。大公様の御寛恕が、卑小なる身に沁みわたります」

 ロスティヴォロドが意思を告げると伯父は再び眦を濡らしたのだが、その涙は本物かどうか。

「あなた」

 とうとう泣き出した子供たちを抱きしめながら、伯父の三番目の妻は細い声を絞り出した。

「何も心配はない。私は果たすべきことを果たすから、お前たちはここで大公様の勝利を祈っていなさい」

 ロスティヴォロドとさほど変わらぬ齢の妻に向けた伯父の顔は、盛りを過ぎてもなお端整で。だからこそアスコルの母は、伯父のような人間に文字通り命を投げ出すほど執着したのかもしれなかった。


 戦を行うには準備が必要だ。武器であれ食糧であれ、それらを運ぶ馬や道であれ。だが時節を逸せばシグディースの身の安全は保障できない。降り積もる豪雪のため、行軍は困難になろう。とはいえ用意を怠れば行軍の途中で脱落する者が出てくるのは確実だ。

 仮に一兵欠かさずサリュヴィスクに辿り着けたところで、不届き者どもに勝てるかは定かではない。長い行軍のため疲弊したこちらとあちらでは、たとえ数で勝っても戦闘で勝利できるかどうか。

 もしロスティヴォロドが敗北し、サリュヴィスクの乱を抑えきれなかったら。さすればやはりシグディースの命は危うくなるだろう。配下の諸サグルク部族やイヴォリ人の富裕層も、これ幸いとエレイクの裔の支配から抜け出さんとするに違いない。さすればこの地は、曽祖父たちが遙か西方の彼方からやってくる以前、有力な豪族が争い合う蛮地へと逆戻りしてしまう。

 イヴォルカの統一が崩壊すれば、これ幸いと南方の者たち――東南の善神教徒並びに草原の騎馬民族、西南の帝国が侵入してくるはずだ。父祖の栄光を受け継ぎまた発展させんと誓った身として、民や領土が異国の馬の蹄に踏みにじられるのだけは防がなければならない。

 伯父は先程、今回の襲撃に加わった者を指して過激派と呼んだ。つまりサリュヴィスク側も、一丸となってエレイクの一族の支配に抗わんとしているのではないのだろう。

「で、伯父貴。どうやってその過激派の奴らの襲撃から、ここまで逃れてきたんだよ?」

 伯父と、伯父一家にくっついてきた副官の疲れを癒すために、宴の間に料理を並べさせる。落ち延びる途中は満足に食べられなかったのだろう。自分の子と同じ年頃のいとこたちが、瞳を輝かせて菓子を貪る様は憐れみを誘った。

「寸でのところで、娘婿が危険を知らせてくださいましてな。どころか、“どうか生き延びて、こちらにも良識のある輩はいるのだと大公様に伝えてほしい”と、食料と護衛もくれた次第でして」

 持つべき者は、たとえ義理でも正義の心篤い息子ですな。

 髭に付いた豚の脂を手の甲で拭いつつ、伯父は溜息混じりに締めくくった。

 伯父と二番目の妻の娘の一人は、サリュヴィスクに根付いたイヴォリ人の貴族の家系に嫁いでいる。たとえ元奴隷の娘とはいえ、大公となったロスティヴォロドの従妹を与えられるほどなのだから、相応以上に力のある家だ。従妹の嫁ぎ先は今回の乱に関わっていないのだとしたら、あの家が古くから親交のある幾つかの、これまた有力な家も乱には関与していないのかもしれない。

「過激派は、話が通じそうな奴らか?」

「さあ……。お恥ずかしながらわたくしは、やつらの尻尾を掴めませなかったゆえ」

 残る懸念は、シグディースを奪った輩の頭の出来ぐらいのものだった。

 まだ目的を果たしていない段階で価値ある人質に危害を加えるほど、サリュヴィスクの過激派が愚かでなければよい。しかしシグディースの美貌が仇になる可能性もある。

 たとえ彼女が身を穢されたとしても、ロスティヴォロドはシグディースを以前と変わらず自分の妻として遇する。けれども、周囲はそうもゆくまい。ただでさえ敵が多い彼女を、大公妃の座から引きずり降ろさんと企む輩も出て来るだろう。そもそも、身重の身で暴行されたら胎内の子は流れ、シグディース自身も儚くなってしまいかねない。

 シグディースは故郷を滅ぼされ家族を殺され、仇であるロスティヴォロドに辱められても生き続けた。だから辱めを受けても、彼女は死を選びはしないだろう。しかし心がどんなに生きたいと望んでも肉体の力が尽きれば、土の下で憩わざるを得なくなる。

 人質として丁重に扱われるにしても、妊婦がサリュヴィスクまでの旅に耐えられるだろうか。既に妻が腹の子共々落命していたとしても、少しの不思議もないのだ。シグディースならば肉体を失っても、化けて出て復讐を完遂しにくるかもしれない。しかしロスティヴォロドは、そんな再会は望んでいなかった。

 あのほっそりしているが柔らかな身体を抱きしめ、青金の髪に隠れた耳元で、俺が不甲斐ないばかりに迷惑をかけたと謝ろう。その時、彼女は相変わらずつれない顔をしているのだろうが、無事でありさえすればよい。

 ただ妻を取り戻したい一心で軍備を整え、従士団にサグルク人の諸族の戦士も加えて北に発つ頃には、空は鉛色の布で覆われていた。厚い雲間から金色の陽光が針のごとく射すのは、一日のうちほんの半刻ほどだけ。真の冬の始まりは、もうすぐそこまでに迫っているのだ。グリンスクより北のサリュヴィスクでは、とうに河が凍り、雪が深々と積もっているのかもしれない。

 馬上で揺られていると、衣服を幾枚を重ねた上に更に毛皮を纏っていても、寒気は容赦なく隙間から侵入してくる。睫毛を凍らせ、歯の根を鳴らしながらも辿り着いたサリュヴィスクを守る土塁は、グリンスクに及ばずとも立派だった。ロスティヴォロドはシグディースを取り戻すために、この壁を破壊するのだ。

 馬に繋いで牽かせてきた攻城兵器で、雨あられと石を放つ。するとそのうち、厚い土壁にひびが広がった。落とされた卵の殻のごとくなった部分に攻撃を集中させると、僅かな土煙と共に穴が開いて。そこから覗くは父祖が最初に降り立った地の街並み。こんな折でなければ立派なものだと見惚れ、この街もまた自分の支配下にあることを誇れもしたのだろう。しかし今はとにかくシグディースである。

 妻を取り返すためならば、この街を焼野原にしてやろう。蓄えられた毛皮が灰になろうが、構わない。

 雷のごとく響くと讃えられた声を常よりも一層張り上げると、ややして鼻と頬を赤くした、あからさまに金持ちといった風采の若い男が進み出てきた。

「大公様。私です。恐れ多くも大公様の従妹を妻にするという栄誉を頂いた者です」

 攻撃を始めてからずっと、機会を窺っていたのだろう。両手を上げて丸腰だと示しつつ近づいてきた従妹の夫は、この街の穏健派の代表としてやってきたのだという。

「確かに税は多少重たくはありますし、彼らの主張には頷けるところもあります。が、奴らの主張の巻き添えとなって死ぬのは真っ平だというのが、サリュヴィスクの大多数の民の本音なのです」

 従妹の夫曰く、現在のサリュヴィスクでは過激派の勝手に耐えかねた者たちが過激派の家を攻撃し略奪するなど、混乱が生じつつあるという。過激派は、大多数を占める穏健派に迫害されれば、たちまち立ち行かなくなる。ゆえに過激派は、とうとうシグディースの解放を決断したらしい。

 受け渡しの場として指定された平野ならば、仮に過激派が約束を破り戦闘になったとしても、無辜の民を巻き込まずに済む。過激派もまたロスティヴォロドと同じ思惑の下で件の場を選んだのだろうが、そもそも刃の一つも交えずに済むはずがない。

「承知した。定刻に必ず我が妃を連れて来いと奴らに伝えろ」

 約束の場に陣を敷きつつ待っていると、不精髭が伸びた頬を白く儚い粒がそっと擦った。とうとうかと天を仰げば、案の定白いものが次々に舞い降りてきて。雪の勢いと歩調を合わせて激しくなる風は、鈍い銀の髪を揺るがせた。

 体は心臓まで凍てつきそうに冷えてしまったが、酒を飲むわけにもいかない。かくなる上はシグディースを取り戻し次第、過激派の奴らを血祭に上げてもよいかもしれない。さすれば身体も温まろう。だがしかし、いくら何でもこんな吹雪の最中に身重の女を連れて来るだろうか。だとしたら過激派はとんだ外道の集まりである。

 一、二刻前とは打って変わって、妻がこの場に連れてこられなければよいと祈る男の願いは、叶えられなかった。馬車が一台門の中から出てきたかと思うと、女が一人引きずり出されたのである。

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