羽ばたき Ⅱ

 破った敵もこの地に住まう同胞であり、躯を野に晒し獣の餌とするのは流石に忍びない。よってロスティヴォロドは、敵味方を問わず遺体を集めてポニャーネ族の集落へと侵入した。

 一目で首長の住まいだと判ぜられる豪壮な館の蔵には、小麦やら蜂蜜やら干し肉やらがたんまりと蓄えられていた。貂や狐、栗鼠リスの毛皮も。

 貯蔵分のうち、貢税として割り当てていた分と、更にその半量程を部下に命じて運ばせると、蔵はたちまち侘しくなった。辛うじて冬を越せるほどは残しているつもりなのだが。ロスティヴォロドとて従士たちに恩賞を支払わなければならないから、あまり手心を加えてはやれないのだ。

「……どうか、これを」

「要らん。お前の夫の墓にでも供えろ」

 館の広間の、首長の席だろう上座に坐す。するとポニャーネ族の首長の妻だという女が、震える手で蜜酒を差し出してきたが、断った。シグディースの足元にも及ばぬ容貌の、ついでに若くもない女に酌をさせたところで、美味い酒が飲めるはずがない。だいたい、何が盛られているか分かったものではない。 

 言外に下がれと命じたのだからさっさと出て行けばよいのに、女はいつまでも広間に残っていた。情報を引き出すすべくロスティヴォロドの前に引き出した三人の戦士のうち、特に若い一人が気がかりらしい。顔立ちが似通っているし年の頃からも、この女は残した戦士の一人の母親なのかもしれない。これを尋問に活かさない手はなかった。

 女の息子らしき戦士は重症を負っているが、すぐに手当すれば一命を取り留めるはずだ。しかし、一刻も放置しておけばどうなるだろう。もしくは、泥で汚れた首筋すれすれに従士が突き付けた切先が、若々しい肌に潜り込んだら。

「おい、女」

「な、なんでございましょうか……?」

 真っ青になって崩れ落ちた女は、緩慢な仕草でロスティヴォロドを仰いだ。

「お前、こいつらが着てる鎖帷子がどこから流れて来たのか知ってるよな?」

 駄目だ母者。話すな。

 今にも生命ごと消え入りそうな声で訴える青年の首筋にこびりついた泥の上を、真新しく鮮明な紅が一筋伝う。我が子の生命の炎が強風に晒されるやいなや、女は喉も裂けよとばかりに絶叫した。

「知っております! 知っておりますとも! それを言えば――何をすれば息子を助けてくれるのですか!?」

 半狂乱になって我が子の命乞いを始め、あまつさえ息子の襟首を掴む従士に飛びかかって剣を奪おうとさえした女の姿は、どこか亡き母に重なった。

「大公様の御前であるぞ! 見苦しい真似はよさぬか!」

 従士に抑え込まれてもなお我が子に駆け寄ろうともがいていた女も、力が尽きれば死んだように大人しくなる。啜り泣きが木霊する場で、沈黙を破ったのは頬を涙で濡らす女ではなかった。

「……サリュヴィスクでございます。サリュヴィスクからやって来た者たちが、あれを。やり取りをしたのは父上で、俺は後ろで聞いていただけですから、それ以上は把握しておりませぬが……」

 先ほどは母に黙っていてくれと願った青年は、重い口を動かした。恐らくは此度の戦で父を喪った彼は、母のためにも生きねばと考え直したのだろう。残る二人が彼の背に突き刺す視線の鋭さは槍すら通り越していたが、ロスティヴォロドは彼を腑抜けと詰れなかった。

 ロスティヴォロドは約束を踏みにじるほど外道ではないつもりなので、青年とその母親の拘束を解けと部下に命じた。手当をしろとも。ロスティヴォロドは公衆の面前で陵辱した女を妻にした。その自分が戦士としての道義など気にかけても、神に嗤われるだけだろうが。なお、その嗤う神が西南から齎された唯一絶対なる天空の主なのか、或いは父祖が崇めていた神々なのかは定かではない。あるいはそのどちらともなのかもしれない。

 母の腕の中で崩れ落ちた青年はそのままに、残る二人を別室へと移動させる。そうして引きずり出した情報が正しければ、鎖帷子は他の武器とともに、サリュヴィスクの商人に混ざってやって来た者に渡されたものらしい。

 援助と引きかえに、グリンスクからロスティヴォロドや従士たちをおびき出し、指定の日に交戦してほしい。サリュヴィスクはポニャーネ族に、このように働きかけたのだという。

 最北の始まりの地は、厳しい気候ゆえに小麦があまり育たない。ために、同じイヴォルカの他の地域からの輸入に頼りがちだった。小麦粉を入手するための貿易団などいちいち警戒していては切りがない。そのため祖父の代からサリュヴィスクの交易団に介入も監視もしていなかったのだが、こんな形で隙を突かれるとは。つくづくイヴォルカの広大さを痛感させられた。

 この森林と氷雪の地は、一人で治めるには広すぎるのだ。どこかに集中すれば、必ずどこかに目が届かなくなる。だからこそ父も、領土をロスティヴォロドと兄で分割して相続させようとしたのかもしれない。

 サリュヴィスクはイヴォルカの財布だ。肉どころか骨すら凍てつかせる寒さゆえに育まれる良質な毛皮と蜜こそが、他の国がイヴォルカに求める物品なのである。ゆえに、彼の地を失うわけにはいかない。

 サリュヴィスクの輩は何がしかの企みがあって、グリンスクを目指している。いわばポニャーネ族は合意の上で陽動に使われたのであるが、その目的までは知らされていないとのことだった。

 今回の戦においてロスティヴォロドは、全ての従士を率いてきたわけではない。むしろ残してきた数の方が多いぐらいだ。けれども始まりの地たるサリュヴィスクには、勇猛たるイヴォリ人が他の地域より多く根付いている。最北の地の同胞が一丸となって反旗を翻せば、残してきた従士たちだけでグリンスクを――シグディースや息子たちを守り切れるかどうか。

 直ちに配下を引き連れて、妻子の無事を確かめに行きたい。しかしロスティヴォロドはともかく部下たちにも、もちろん馬にも休息と怪我の手当が必要だ。ポニャーネ族から徴収した貢税の運搬にも、相応の人員を割かなければならない。せめて新たに派遣する役人の支配をポニャーネ族が受け入れるまでは、この地に駐屯させる兵にも回さなければ。

 母にかつての婚約者。祖母に父。ロスティヴォロドは数多くの大切な者を喪ってきたが、一瞬とはいえ目の前が暗くなったのは初めてだった。

 サリュヴィスクは一体何を目的としているのだろう。彼の地には他の地域よりも大目に税をかけているから、反感を買ってしまったのか。ならば免税を約束すればよいのだろうか。

 金を払えば妻と子が無事でいられるのなら、ロスティヴォロドは喜んで全財産を差し出す。財布が空になるのは、異母兄から大公位を奪うための戦の際に慣れている。しかしあちらがもっと別の――独立の承認を要求してきたら。

 自分たち一族の祖は相応の名家の出であったらしい。あくまで自由農民の中では、であるが。一方最北の地には、遙かな故郷の半島では貴族であったとか、王族であったという伝承を受け継ぐ家系が残っていた。シグディースも、遡れば自分よりもよほど名誉ある系譜に連なっているらしい。詩人が伝える唄に、先祖の名が織り込まれているほどだとか。

 そのような誇り高い輩が元奴隷の、奴隷に堕とされる前とてさして名のある家の生まれではなかった伯父を、すんなりと受け入れるはずがない。

 同胞の自尊心の高さはロスティヴォロドとて知悉していた。しかし唯一の身内となった伯父やその家族の他に、心の底から信頼できる者がいないのだ。他の者を送りこめば、いつ在地の勢力と結託して反乱を起こすか。

 だからこそロスティヴォロドは、シグディースに多くの息子を産んでくれと望んだのだ。血を分けた息子なら、どんなに遠くに派遣しても謀反を企てはしないだろうから。

 いっそこのまま北の果てに赴いて、謀反者どもを処罰した方がよいだろうか。それとも、ひとまずグリンスクに戻るべきか。考えあぐねた挙句、男が進んだのは後者の道であった。

 一晩身体を休めた後。ロスティヴォロドはポニャーネ族の監視役と怪我人は置いて、全速力で父祖が先住民から奪った都へと急いだのだが、間に合わなかった。

「……とうさま」

 乱闘の痕跡もあからさまな屋敷の奥では、幼い息子たちが乳母の胸に抱かれて震えていた。林檎の頬が涙に濡れている他は、子供たちの様子に変わりはない。だが、妻の麗しい姿がなかった。

「大公様。その、お妃様は、」

 八つ当たりだと承知しつつも、溶岩のごとく吹き出て身を灼く怒りと拳を、自分が不在の間従士たちを委ねていた男の顔面に叩き付ける。すると亡き父と同じ年頃の、齢に見合った高位に就いている男の鼻からは鮮血が滴った。

「あいつがどうしたって?」

「……此度のことは全て、我らの不徳の、」

「――御託はいいからさっさと吐けって言ってんだよ!」

 赤く濡れた顔面にもう一度憤怒をめり込ませると、今度は開いた唇の間から小さくて白い石のようなものが飛び出してきた。

 そうして床に叩き付けられた男は、他の従士の嘲りと憤りの眼差しに貫かれながらも、切れ切れに経緯を明らかにする。

 彼の語りによると、シグディースと腹の子は人質としてサリュヴィスクに連れ去られたらしい。どうにか取り返そうにも反撃を試みれば、謀反者がシグディースの大きく膨らんだ腹に剣を向ける。そのため唇を噛みしめ掌に爪を食いこませつつも、ほっそりとした後ろ背を見送るしかなかったのだとか。

「てめえはなぜ、あいつを奪われるようなヘマを犯した? てめえは親父も一目置いていた勇士だったはずだがな」 

 血で濡れた襟首をつかんでがっしりとした身体を揺さぶると、慄く指は拘束され部屋の片隅で転がされている女奴隷たちを示した。どことなく覚えのある面立ちの女たちは泣きじゃくっているのに、指摘されるまで存在に気付かなかった。つまり今の自分は余程頭に血が上っているのだろう。

「……大公様がポニャーネの地へと発って数日後、屋敷にアスコル殿が。アスコル殿は大公様の従兄で、怪しい者ではないから会うようにと、あの者どもが大公妃さまを無理強いしたところ、あの男がお妃さまを、」

 最後まで待たずに、ロスティヴォロドは命乞いをする奴隷を叩き切った。アスコルが何を考えてこのような真似に出たかは分からない。だが見つけ次第同じ目に遭わせて、肉塊に変えてやる。

「今日限りでてめえを屋敷の警備責任者の任から解く」

「もっともな沙汰でございます。この過失は、我が命でもっても購えませぬゆえ」

 毛先や袖の先から赤い滴を滴らせながら伸びた配下を振り返る頃には、若き大公は常の冷静さを取り戻していて。

「だから、大公妃をみすみす敵に渡した腑抜けとの汚名を濯ぎたけりゃ、俺と共にサリュヴィスクまで来い」

 どうか一思いにと首を差し出していた男ははっと面を上げ、主君の血塗れの顔を仰いだ。

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