羽ばたき Ⅰ

 澄み切った空の青さと黄変した葉の対比が鮮やかな秋の日。物々しく武装した配下を引き連れた、家来たちよりも一層美々しく鎧った男は、子供らと共に立ちすくむ妻の身体をそっと抱きしめた。

「ガキが生まれるまでには帰ってくるさ」

 膨らんだ腹を潰さぬよう、そっと。閨の外では布に隠された、すっかり伸びた星の輝きを放つ金の髪と、巻貝の耳元に唇を寄せる。

「産み月までに帰還できねば道が雪で埋もれる。それまでに片をつけねば、敵の只中に残されることになるから、当然であろうな」

 つんと澄ました麗しい顔は、様々な意味で相変わらずだった。男は苦笑しつつ、大きな瞳を潤ませて自分を見つめる二人の息子を、同時に抱き上げる。

「お前たちはお母さんと、腹の中の弟か妹を守ってやるんだぞ」

 癖の程度は違えど共にふわふわとした髪をなびかせ頷く息子たちの、幼い顔に浮かんだ決意を見届け、ロスティヴォロドはひらりと馬に飛び乗った。

 目指すはグリンスクより東、ポニャーネ族の地。かの部族は時期が巡っても貢税を寄こさなかった。どころか、不作であったかと伺いを立てに行ったロスティヴォロドの従士に刃を向けたのである。ために現物で徴収するついでに、懲罰を下すのだ。殺害されていたという役人の仇も取らなくてはならない。

「とうさま」

「ちゃんとかえってきてねー!」

 自分に似て声が大きい息子たちの、甲高い叫びに釣られて振り返る。その時既に、子らの母であり己の妻であるシグディースは、館の中へ戻るべく踵を返していた。


 ロスティヴォロドの母や伯父の出身部族であるベニャーネ族は、巡回徴税ポリュージエに訪れた祖父を殺害したため、祖母の恨みを買って殆ど壊滅させられた。もはや生き残りが細々と身を寄せ合うだけになった部族は、大陸の中部と東部を分ける森林と接する、湖沼地帯を拠としている。ベニャーネという呼称も、湖やら泉やら、とにかく水辺に住まう者ぐらいの意味だ。祖母によって火炙りなり水責めなりされて殺された首長の一族が、馬鹿な真似をしなければ。さすれば母や伯父は河川では魚を、森では蜂蜜でも獲って暮らしていたのかもしれない。

 同様にポニャーネという名称は、平原に由来する。つまりポニャーネ族は、平野部で暮らしているのだ。この平野は肥沃さで知られていて、始まりの地サリュヴィスクと比すれば遙かに温暖な気候も相まって、小麦その他の作物の栽培が盛んである。無論他の部族にも麦は作らせているが、ポニャーネ族からの税を諦めるわけにはいかない。

「もうすぐ奴らの土地に入りますゆえ、大公様並びに従士の方々は、どうかごゆるりとお過ごしくださいませ。見張りは我らで行いますゆえ」

 グリンスクを発って早二日。馬から降りて黒麺麭と干し肉の昼食を採っていると、ポニャーネ族から追われた従士を匿い、手当をしてグリンスクまで届けてくれた部族の長が近づいてきた。

 まだ若い長は、頬に刻まれた刀傷が目立つ顔を引き締めている。ロスティヴォロドの瞳には何の変哲もない野原としか映らないが、先祖代々この地で暮らしてきた者にならば判ぜられる目印があるのだろう。

 ロスティヴォロドが言えたことではないがまだ若い男が率いる部族は、古来ポニャーネ族とは敵対関係にあったのだという。今回ロスティヴォロドが要請する前に協力を申し出てきたのも、あわよくばポニャーネ族の土地を掌中に収めんとの狙いゆえだろう。

「グリンスクで大公様のつつがない帰りを待つお妃様のためにも、一刻も早く奴らを懲らしめねば。私もまた妻と子を持つ身ですので、大公様の御気持ちが痛いほど察せられます」

 それから若首長は、私は大公様とは違いまだ息子に恵まれておりませぬがとか、しかし娘は妻に似て中々の器量良しでとか、べらべらと捲し立てだした。

 話によると、彼の娘はロスティヴォロドの息子たちと丁度釣り合いがとれる齢らしい。もしかしたらこの男の真の目的は、己が血をエレイクの裔の血統に混ぜることにあったのかもしれない。

 祖母の出身部族であるオリョルチ族は、異母兄ヴィシェマールが領地として与えられていた、グリンスクとサリュヴィスクの中間付近を根城とする。イヴォルカの北方にはそれなりの勢力を及ぼしている彼らは、自分たちエレイクの一族にも今のところは友好的だ。だが、南の方と誼を結んでおくのも悪くない。父もそういった策略があって、異母兄たちの母である南方の騎馬民族の姫を娶ったのだろう。

「それは将来が楽しみだな。母である我が妃が並ぶ者なき美女であるゆえ、息子たちは齢二つや三つにして、女を見る目がいささか厳しい。だが、そなたの娘ならば気に入るやもしれぬ」

 期待を持たせる返事を、高位の従士たちに泣きつかれて致し方なく焼きつけた「威厳ある喋り方」で吐き出しつつ、ポニャーネ族討伐の手順を再び確認する。

 率いてきた軍勢に恐れをなしたポニャーネ族が直ちに恭順を誓い、税を差し出すのならばよい。さすれば、上層部はともかく他の者たちは傷つけずにすむ。だがあくまで交戦を望むのなら容赦はできない。税を納める民は無暗に減らしたくないし、配下の従士たちを徒に消耗させたくはないのだが。

 自分の孫がグリンスク大公の座に就く幻でも見えたのか。はっきりと頬を紅潮させた、一見腹芸を不得手としていそうな男が、ポニャーネ族と密かに共謀している可能性は、もちろんある。

 ゆえにロスティヴォロドは手振りと目くばせによって、警戒を怠るなと配下の従士たちに命じていた。昼食と休憩を終え、馬を舟としてさやさやとそよぐ草の海の航海を再開しても。だからこそ、粗末な土塁で囲まれた集落を紫紺の瞳で捉えられるようになって直ぐ、飛来してきた矢を察知できたのである。

 山鳥の羽根を付けた矢は、まだ木の実程の大きさの家々が身を寄せ合う方から飛んできた。つまり、威嚇か宣戦布告かのどちらかである。

 いつかロスティヴォロドを殺すために大公妃となり子を産んだシグディースのためにも、こんなところで死ぬわけにはいかない。だいたいロスティヴォロドとて、むさ苦しい野郎どもに囲まれた最期はごめんだ。寝台の上で息を引き取るのは不名誉な死、戦場で果てるのは名誉ある死と詩人が唄っていた時代は、既に昔となったのだ。

 従士たちと共に、まだ親指程の大きさの人の群れ目がけて矢を放つ。ポニャーネ族の者とて革の鎧ぐらいは着こんでいるだろうから、致命傷にはならないだろう。それでも、こちらは本気だと示さなければならない。

 こちらとて全員に鎖帷子を着せているわけではないし、矢を射られれば負傷するのは、馬も同じだ。西南の帝国とは違って、イヴォルカには馬を武装させるほどの余裕はないし、良い馬は高い。だから被害は最小限で抑えたかった。

 あらかじめ決めていた通り、陣を羽ばたく鳥の形に敷いて突入する。鳥の胴体に該当する最も重要な――ここを破られれば軍を二分され、包囲されてしまいかねない部分で弓を放ち斧と剣を振るうのは、無論ロスティヴォロドだ。この陣形は味方の数が敵よりも多い場合に有効である。地の利はポニャーネ族にあり、伏兵を配されていれば翼に攻撃を受ける可能性もあるので、一種の賭けであるのだが。

 あちらの方から飛んでくる矢によって崩れ落ちた者や、その者に躓いて倒れた馬もちらほらと出始めている。だがロスティヴォロドがトラスィニ公として対峙した騎馬民族の矢の技は、これの比ではなかった。遊牧民は弓と馬術の教師として、息子たちのために雇い入れたいほどの腕前を誇る。

 革製にしろ金属の輪を連ねたものにしろ、ここは流石に覆えぬ敵の顔目がけて、もう何度目になるか定かではない矢を放つ。大まかながら相対する戦士の顔立ちが明瞭になった程近づいて初めて分かったのだが、ポニャーネ族の間では予想以上に鎖帷子が流通していた。それも、新品が。

 彼らの先祖代々の敵である部族は、若き首長とその側近しか鎖帷子を纏っていない。ポニャーネ族は経済的にも技術的にも、此度の協力者と同程度であるはずだ。だのにポニャーネ族は、一体どのようにして高価な防具を入手したのか。

 鎖帷子は磨滅し、消耗しやすい。手入れするのも重労働だ。ために、鈍いながら遠目にも――丁度自分の銀灰の髪のごとく輝く鎧は、最近手に入れたものだろう。もしかしたら、どこぞから横流しされたのかもしれない。

 何としても、一人でもよいからポニャーネ族の上層部を生け捕りにしなければ。

 若き大公は元来鋭い双眸を剣にし、縦に陣を構える敵を見据える。ポニャーネ族は最もこちらの守りが薄い部分を突く算段なのだろう。つまり、味方が敵を包囲するまで中央が持ちこたえられるかに勝利はかかっている。鳥の胴の部分には無論精鋭を配しているし、ざっと確認したところやはり数の上では自分たちが勝っているのだが、気を引き締めてかからねば。

 熊もひるみそうな咆哮を上げ、迫ってくる男の太い喉目がけて弓を引く。するとしばしの後に紅い飛沫が宙を舞った。これからは、部下と協力者が事前に出した指示にどれほど従ってくれるかにかかっている。ロスティヴォロドは彼らを信じ、敵を屠るだけだ。

 妻の、子のために生き残る。ただそのためだけに剣を、斧を操っていると、地面は雨が降ったわけでもないのに泥濘んでいた。流れた血と、死の恐怖のあまり漏らされた液体が、大地を柔らかくしたのだ。

 こうなると馬が動きにくくなるので、場合によっては地面に降りて武器を振るう方が危険が少ない。脚が泥にはまってつんのめった馬の背から投げ出され、頭を石にぶつけでもしたら、場合によっては落命してしまう。だが幸いにも、大将たるロスティヴォロドが足を踝まで土に埋めるまでに、勝敗は決した。

 完全に敵を包囲してしまうと、閉じ込められた者たちが却って死に物狂いの攻撃に出ることがある。最初から殲滅するつもりならばともかく、今回はある程度は生け捕りにしたいのだから、あえて人ひとりならば通り抜けられそうな隙間を開けさせた。すると、包囲した敵たちは我先にと狭き門へ突進したのである。中には、自分の目の前の味方に斬りかかる者もいたが、彼らを嘲笑う気にはなれなかった。髭を血と泥に塗れさせて倒れ伏す者たちにも、妻や子が、老いた親がいるはずだ。守るべき彼らのために生き残りたいと願うのは、当然の心理である。

「お前たち、生きたいか? ならば武器を捨てろ」

 敵の戦士たちは、一部を除いては降伏を促せば戦意を喪失した。数少ない例外は、特に見事な帷子を纏っている者を二、三人捕縛した他は斬り捨てる他ない。よってロスティヴォロドは、彼らの勇敢さに敬意を表しながら、汗で光る首筋に剣を突き付けた。

 

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