鶺鴒 Ⅵ

 遠方よりの招待客やその伴も全てグリンスクを辞す頃には、妻の腹は隠しようもなく膨らんでいた。身体が安定する時期に入ったとはいえ、寒さは厳しくなるばかり。ために食事を除いては部屋から出るのも稀になったシグディースは、時折くすぐったそうにしている。どうしたと問うと、

「時折腹の中で、魚が動いているような感じがする。これが世に言う胎動であろうな」

 と、まろみを帯びた下腹部に手を添えながら応えてくれた。相変わらずの無表情は胎内の子を慈しむ仕草とそぐわなかったが。

 それはそれとして、ロスティヴォロドも胎動なるものを感じてみたいものである。しかし手を置いても耳を当てても、子は一切反応しない。

「そなたもしや、ややこに嫌われているのではないか?」

「まだ生まれてもない赤子に嫌われるなんて、んな馬鹿があるかよ」

 たまらず呆れ顔のシグディースに反論したものの、彼女の発言にも一理あるかもしれない。

 ロスティヴォロドは間違いなく腹の子の母親には嫌われ憎まれている。シグディースが抱える感情が、臍の緒を通じて子に伝わっているのなら。さすれば男かも女かも分からない我が子も、自分を殺そうと息巻いているのかもしれない。そのような意思が強い子供なら、男ならば並ぶものなき勇士に、女ならば息を呑むほどいい女に育つだろう。なんにせよ、子が生まれる春が楽しみでならなかった。

 荒れ狂う吹雪が視界を白く染め、道を埋める月になると、妻の腹はますます大きくなった。この頃になると、さすがのロスティヴォロドや伴の者たちさえ、無暗な外出は控える。つまり自然シグディースの側にいる機会が多くなった。

 暖炉の側で、突き出た腹の上に手を置く格好で縫物に勤しむ女の横顔は、神々しいまでに麗しく見えた。細い指は、いつかロスティヴォロドが仕留め、彼女の襟巻となった狐の毛皮の切れ端を握っている。子の産着に飾りとして縫い付けるつもりなのだろう。

 シグディースは美しいがいつも恐ろしい顔をしていると、周囲の者たちは影で囁いていた。ロスティヴォロドも下々の者たちの意見には同意する。けれども、自分たちの眼に映るシグディースが、彼女の全てではないだろう。

 故郷を滅ぼし家族を皆殺しにし、我が身を辱めた挙句孕ませた男の子のためにさえ、シグディースは産着を仕立て聖像画に跪いて祈るのだ。本当の彼女は、表面はどうあれ心を許した者には愛情深く、優しい女なのかもしれない。その慈愛がロスティヴォロドや、彼女を妬みが混じる中傷で貶める奴隷たちには、永遠に向けられないだけで。

 もしも、自分たちが復讐者と仇としてでなく、普通の――同胞の男と女として出会っていたら。などと考えるのは時間の無駄だ。

 ロスティヴォロドとシグディースが、つまりグリンスク大公家とシチェルニフの公一家が敵対しない。言い換えればあのフリムリーズ姫が、異母兄ヴィシェマールへの不貞を働かなかったとしたら。

 さすればシグディースは、未来の大公妃の妹を迎えるに相応しい男に嫁していただろう。女奴隷が産んだ庶子ではなく、父母が選び抜いた彼女に相応しい男に。つまり自分たちは、命を狙う者と狙われる者、全てを奪われた者と奪った者としてしか一緒になれない運命だったのだろう。神も随分と粋な計らいをしてくれたものだ。

「なんだ? そのように見つめられると、鬱陶しくてならぬわ」

「いや、お前はやっぱり美人だなと惚れ惚れしちまってな」

「そのような戯言、とうに聞き飽き、」

 雪の膚の上に置かれているがゆえに一層けざやかな紅唇に吸い付いても、柔らかさを増した肩は嫌悪に震えはしなかった。ロスティヴォロドは、これで満足しなければならない。ましてシグディースが自分の子を産んでくれるのだ。それで十分ではないか。


 待ち望んだ子は、春告げ草が雪の下から空色の顔を出す時分に生まれた。初産ということもあり出産には時間がかかったものの、産んだ妻も子も健やかであるという報に、男は逞しい胸をなで下ろす。

「男児でございます!」

 そうして次に、後継者を得たという喜びと安堵が身体中に広がった。氷雪が吹き荒ぶ屋外から暖炉の側に戻り、温めた酒を一息に煽れば、冷え切った肢体はじわじわと温まる。赤子らしくふくふくとした我が子、それも初子を膝の上に置き、名を付けた際に覚えた喜びは、例えようがない。だがあえて言葉の枠の中に押しこめるとすれば、このようなものだった。父も、長兄が生まれた際は感涙で目を潤ませたのだろうか。

「でかしたぞ、シグディース」

 たとえ安産でも、出産に臨めば大量の血潮を失うのは避けられない。身を床に横たえ回復に努める妻が目覚めているうちを見計らって、男は胸の裡から湧き出る感激を語った。

「顔はむくんでて、まだお前と俺のどっちに似てるかはまだ分からん。だが、このしっかりした手足はどうだ。きっと斧でも剣でも弓でも巧みに操れるようになる」

 かつてロスティヴォロドは、まずは息子を産んでほしいとシグディースに語った。息子は五人は欲しいとも。サグルク人の諸族の長や、時を経て土豪貴族と化したイヴォリ人の富裕層を牽制するためには、より多くの男児が必要だから。それはほんの戯れのつもりだったのだが、いざこうして息子が生まれると、喜びはひとしおである。

 ロスティヴォロドは支配者として最も果たすべき勤めをひとまず果たした。これでいつシグディースに殺されても大丈夫だろう。赤子にまつりごとや戦の指揮が務まるはずはない。だが支える者がいれば何とかなるのは、父と祖母が既に証明している。シグディースを陰で取り柄は容姿だけの役立たず、地位も財産も持たぬ身でよくも妃の座に就けたものよなどと中傷する輩も、口を噤むに違いない。彼女は立派に妻の務めを果たしたのだから。

「髪と瞳の色はお前と同じだ。将来はきっと色男になるぞ」

 産湯で清められ、絹の産着を着せられた赤子は、まだはっきり見えないだろう目を動かす。大きな双眸を向けられた女は、頬に影を落とす長い睫毛に囲まれた瞳を一、二度瞬かせた。返事をするほどの力がまだ戻っていないのだろう。浮かれるあまり長居しすぎたかもしれない。

 自ら光を放つような滑らかな頬に軽く唇を落とし、目蓋を完全に下ろした妻に別れを告げる。母乳を求めているのか子猫のごとく騒ぐ息子は、乳母に預けた。

 妻でない女の乳房を見てはならぬと、ついに父親となった男は子の部屋から出る。扉の外で様子を窺っていると分かったのだが、イジュスヴァルと名付けた息子は誰に似たのかは定かではないが、大人しい性質らしかった。

 息子は空腹に促された際を除いては、余程の物音を立てなければすやすやと眠り、徒にむずがりもしない。そんな息子は、天主の徒にするべく聖堂に連れて行く道中も穏やかだった。

 春の陽光で温まった大気は、しかし時折肌を刺すほど冷ややかになる。風邪をひかせてはなるまいと、お包みの上に更に黒貂の毛皮を巻きつけられた赤子は、父であるロスティヴォロドの腕の中でまどろんでいた。

「これはこれは。なんて健やかでお可愛らしい。産み月よりも三ヶ月も早く出産が始まったと伺った際、皆で神に祈りを捧げた甲斐があったものです」

 修道士たちは未だロスティヴォロドの結婚の経緯に思うところがあるらしい。とうに金で――西南の帝国からやって来た聖職者共待望の、あちらの様式に倣った聖堂を建てるという方向で決着をつけたというに。それでも修道士たちは、目尻を下げて赤子の顔を覗き込んだ。

 天主正教の教えでは、神に仕える者でも妻帯を赦されている。しかしより高位に登るのは、女色を含む欲の一切を断つと誓願を立てた者たちだった。この世とあの世での栄光と引きかえに家庭の安らぎと幸福を投げ打った修道士たちも、赤子には相好を崩さずにはいられないらしい。もしくは、イジュスヴァルが他の赤子と比しても、抜きんでて愛らしいのだろう。

 すくすくと大きさと手足の動きを増してゆく長子の愛らしさの分だけ、子を産んでくれた妻への想いも募る。あけすけに言ってしまえば、シグディースを抱きたくてたまらなくなった。それには懐胎が判明して以来ずっと禁欲生活を余儀なくされてきたという事情の他に、もう一つの理由がある。

 生まれた直後は肥った子猿と紛うばかりであった――それでも、親にとってはこの上なく愛くるしいものなのだが――長男の顔立ちは、月が一つ二つ過ぎると、ロスティヴォロド譲りであると明らかになった。はるばるサリュヴィスクから祝いの品を携えてきた伯父も、

「大公様が赤子だった頃を思い出さずにはおれません」

 と笑みを零すほどである。自分で言うのもなんだが、ロスティヴォロドも十分に美男の枠に入る容姿をしている自覚はある。しかし妻にした女の凄みのある美しさには及ばない。

 ロスティヴォロドは内心密かにシグディースに似た子を欲していたため、次こそはと意気込まずにはいられなかった。加えて、あまり考えたくはないが赤子というのは命を落としやすいものだ。無事成長しても、いつ戦場で敵の刃にかかって果てるか分からない。いざという場合に備えて、あと二、三人は男児を作るべきだろう。

 身体が十分に回復し月役が再開するのを待ち、妻を組み伏せる。するとシグディースは覚えがある限り初めて、恥じらいに似た感情をその面に乗せた。もしかして、体型が崩れたとでも気にしているのだろうか。子を産んで更に豊かになった胸と肥沃になった腰は、以前よりも一層魅力的なのに。

 断食明けの僧のごとく熟れた身体を貪っていると、ほどなくしてシグディースは再び妊娠した。やがて生まれた次男の面立ちは、シグディースではなく彼女の姉や弟に似ていた。

 かつてロスティヴォロドは、シグディースの姉フリムリーズ姫を、妹と比すれば取るに足らぬ容姿の女だと、内心で蔑んだものである。だが妻の姉に似た次子が、長男と同じくらいに可愛らしく紫紺の眼に映るのは、我ながら不思議なものだった。

 孕みやすい体質なのだろう。結婚して三年目には、シグディースは三番目の子を身籠った。

 三度目の懐妊中のシグディースは、無表情は相変わらずながらまだ膨らんでいない腹に手を置き、上の子たちの取っ組み合いの喧嘩を見守っている。彼女の横顔を眺めていると、ロスティヴォロドの胸はしみじみと暖かくなった。そうして幼き日に欲した家庭の安らぎを、幸福をついに得た男の中からは、かつての婚約者の面影はすっかり消え失せてしまったのである。

 

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