鶺鴒 Ⅴ

 矢車菊の青には及ばずとも、澄んだ青が天空に広がった秋晴れの日。母が仕立てた花嫁衣裳で身を飾った彼女は、思わず見惚れてしまうほど麗しい花嫁であった。その花と紛う顔には、相変わらず一切の表情が乗せられていないが。もっとも、家族を全て殺して自分を孕ませた男との婚礼で笑えというのが酷な話である。祭壇の前に二人で立っている現在、彼女が泣き崩れていないだけありがたかった。シグディースがそんな柔な精神をしていないのは承知しているが。

 聖堂から屋敷に戻り、大勢の招待客と祝いの料理ではちきれんばかりの広間で宴を張る。悪阻は治まりかけているとはいえ、これだけ多くの食物と体臭に直撃されれば、シグディースが嘔吐しても不思議ではない。だが危惧が現実になってしまえば、生涯に渡る汚名を着せられるのは彼女だ。

「どうした?」

 ゆえに若き大公は酒と肉を口に運びながらも妻の様子を意識して窺っていたのだが、白く美しい顔はやはり泰然としていて。

「何もありはせぬ。そなたは黙って酒を呷っていればよかろう。ほれ、器が空になっておるぞ?」

 しかし、押し出された声には確かな疲れが滲んでいた。懐妊した身で、久方ぶりに屋敷から出たのだ。移動の際は馬車を利用したとはいえ、シグディースが疲弊していて当然だろう。話に聴くシャロミーヤの都のように舗装された路地ならばともかく、小石が転がるむき出しの道を進むには避けられない振動も、堪えたのかもしれない。むしろ、よく夕刻まで平静を保っていられたものだった。

 シグディースの気質を鑑みると、この女はどんな不調に見舞われようと、初日の宴がお開きになるまでは不調を訴えないだろう。その強情さはいっそ感心に価するが、無理が祟って大事な身が最も避けがたい危機に襲われてしまったら。さすれば、腹の子どころかシグディースも命を落としてしまいかねない。だから、後で従士たちに非難されてもよいから、シグディースに休息を取らせるべきだ。幼き日に思い描いたものとはかけ離れているが、やっとできた妻と子を喪わないために。

「じゃあお前ら、朝まで適当にやっててくれ」

 たまらず豪奢な布に包まれた柔らかな身体を横抱きにした男は、腕の中から発せられる抗議を受け流して広間を後にした。ロスティヴォロドが不在の間は、招待客の筆頭の席にアスコルと並んだ伯父が上手く取り計らうだろう。

 披露宴が終われば、伯父はロスティヴォロドの子が相応しい年齢になるまでの代理として、サリュヴィスクに向かわせる。自分がいなくなった後の宴ぐらい上手く取りしきれないのなら、サリュヴィスクに送る代官はすげ替えねばならないだろう。

「今日はよく頑張ってたな。それに、本当に綺麗だった」

 心の底から湧き出た感想を、星辰の輝きを放つ金髪に隠れた耳元で囁く。その直後にシグディースの四肢の強張りが融けたのは、細い身体を寝台に横たえたからだろう。

 こんな格好ではくつろげはしないだろうから、婚礼衣装を脱がせる。その間、シグディースは実に大人しかった。ロスティヴォロドに裸体を見られたところで、覚える羞恥心など残っていないのだろう。

 露わになった肌は相変わらず透き通るように白いが、体つきは確かに変化していた。更に大きくなった乳房の下の、緩やかな弧を描く腹部は、崇高さと同時に艶めかしさを感じさせる。女の最も魅力的な姿とは、もしかしたら妊婦の姿なのかもしれない。自分の子を孕んだ女だ。何としても守らなければならないと決意させられる。

「お前、腹もだけど乳も大きくなったよな。もっと大きくなったら、そのうち母乳も出るようになるんだろうな」

 こんな作り物めいた女でも、孕めば身体は子を育むために変化する。シグディースの身に起きた変化は少し不思議で、神秘性すら感じてしまった。だがそれはそれとして、眼差しで早く着替えを着せろと訴える女を、少し揶揄いたい。

「頼むから、出るようになったら少し飲ませてくれねえか?」

「――阿呆か! なぜ我が子にも飲ませぬのに、そなたに飲ませねばならぬのだ!」

 案の定シグディースは頬をうっすら染めて反論してきた。

 仕組みは定かではなが、乳をやっていると次の子を孕めないと、昔から言われている。また、妻とした女の乳房は体格の割に豊かだが、乳の出まで豊かであるとは限らない。ゆえにロスティヴォロドは既に、生まれる子の乳母の候補を探していた。男であれ女であれ、我が子には乳をたらふく飲んで、健やかに育ってもらいたいから。けれども乳母を探すのは早すぎたかもしれない。

 ただ一度でいいから、ロスティヴォロドはシグディースが我が子に授乳する様を眺めてみたくなった。当然のことではあるが自分の前ではただの一度も笑わない彼女も、子に乳を含ませる際は微笑むのだろうか。ふとした思いつきを確かめてみたくなったのだ。たとえ妻の慈愛の笑みを拝めたところで、それはロスティヴォロドに向けられたものではないのに。

 物思いに耽っていると、妻となった女はロスティヴォロドの背に腕を回し、肌を密着させてきた。シグディースは閨事の最中でさえ、自分から何かをしてくるのは稀であるのに。きっと寒くなってきたのだろう。秋も終わりに近づいてきた晩だ。昔から、女の身体は冷やしてはならないと言われている。ましてシグディースは妊娠中なのに、とんだ馬鹿をやってしまった。

 どこか拗ねたような彼女に手早く衣服を纏わせ、自分もまたさっさと服を替える。そうして細い身体を抱きしめていると、快い蕩けるような匂いが――シグディースの香りが鼻腔に絡みついてきて。

 疲れもあってか、腕の中の彼女は既に寝入っていた。夜目にも白い額に唇を落としても、シグディースが起きる気配はない。相変わらず図太い女である。シグディースならば弱く儚かったリューリヤとは違って、何があってもロスティヴォロドの側に居てくれるのだろう。殺すために。

 たとえ子にさえ笑いかけなくとも、家族の仇であるロスティヴォロドの断末魔ならば、シグディースは緋に染まった面をほころばせるのだろう。最後に見るのが彼女の微笑ならば、そう悪い人生ではあるまい。

 改めてシグディースを妻とした喜びを噛みしめていると、ロスティヴォロドもまた寝入ってしまっていた。朝の澄み切った寒さに誘われて目を覚ますと、華奢な身体は未だ己の腕の中。

「……もう朝かえ?」

 細心の注意を払って寝台から降りたのだが、穏やかな寝息を立てていた女を起こしてしまった。あらかじめ用意しておいた贈り物は、月の蒼い光を選りすぐって紡いだかのごとき金髪が散らばる枕元に置いて、目覚めたシグディースを驚かせたかったのだが。

「ほい。受け取れ」

 寝起きのぼんやりとした女は、中々その細腕を差し出してくれなかった。けれどもロスティヴォロドの意図は伝わったらしい。繊月の眉の下の、湖畔で佇む花のごとく瑞々しく幻想的な青の双眸は、徐々にだが裂けんばかりに瞠られていった。

 シグディースがいつまでも硬直しているので、致し方なく上半身を起こした彼女の腿の上に包みを置く。自分と彼女の共通の祖たるイヴォリ人の慣習に倣うべく揃えた布地や装飾品は、どれもロスティヴォロドが自ら選んだ逸品だった。流石にこれならば拒絶はされまい。

「これとか、お前に絶対に似合うぞ。早速一着仕立ててみろよ」

 あいつに似合うだろうと一目で気に入った青い絹を、ふっくらとした胸に押し付ける。

「……今仕立てた所で、すぐに着られなくなるに決まっておろうが」

 すると麗しい顔はさっと俯いてしまったのだが、同じく麗しい声は幽かに震えていた。それが喜びによるものだと感じられたのは、そうであってほしいという妄想が入り混じったためなのだろう。

 サグルク人の神話に登場する月の娘を連想させる面が次に露わになった時には、いつも通りの無が広がっていた。しかし、顔色がいささか悪い。

「さて。宴に顔を出さねばな」

 だのに、シグディースは無理を押してまで婚礼の宴に出ようとした。この女は一体どこまで強情なのだろう。

「いや、お前せめて今日は部屋で休んでろよ。まだ疲れが残ってんだろ?」

「だが私もまた宴の主役ぞ。主役がいぬ宴など、盛り上がるものも盛り上がるまい」

 意思に関わりなくその座に就けられた彼女が、大公妃としての、花嫁としての義務感に駆られる必要は欠片もありはしないのに。

 報復はイヴォリ人の間で幾星霜と受け継がれてきた義務である。とはいえ、新しい神を奉じるようになってもなお血讐を果たさんとしている生真面目さもまた、シグディース自身には不利益を齎すかもしれない。現にシグディースは、ロスティヴォロドのような人間の手に落ちてしまった。彼女の美貌と家族を想う心に打たれ、彼女の願いを叶えるためならば命も惜しまぬ男など、その気になって探せば幾らでも捕まえられただろうに。

 シグディースは、自分が考えられる限り最悪の道を突き進んでいるのだと、気づいているのだろうか。ロスティヴォロドは指摘してやるつもりはなかった。折角捕まえた獲物をみすみす逃すような真似をするものか。

「お前の言い分ももっともだが、一番大事なのは腹の子を無事に産むことだ。何か言われても、俺が適当に誤魔化すから、」

 どうにか言いくるめて妻を再び寝台に潜り込ませた男は、既に出来上がった声が轟いてきている宴の広間へと戻る。シグディースには、後で温かくて食べやすい物を届けさせよう。ずらと並べられた、豪奢だが胃に負担をかけそうな品々ではなくて。

「待たせたな」

「おお、大公様。お戻りでございますか!」

 扉を潜って真っ先に視界に飛び込んできたのは、全くもって似合わない女の服を着て、訳の分からない踊りを踊っている伯父の姿だった。支配下のサグルク人の諸族の長はもちろん、時に戦場で睨み合い、時に杯を交わす遊牧民の首長たちも笑い転げている。だから、伯父は立派に務めを果たしたと言えるだろう。もっとも、少し離れた所でひっそり佇むアスコルは、ひたすら遠い目をしているが。

「シグディース様は?」

「あいつなら、俺が昨日激しくし過ぎたせいで、足腰立たねえんだと。初めてだってのに、六回も続けてやるのはまずかったかな」

 これ以上彼女について言及されるまえに、大げさな笑いで誤魔化して先手を打っておく。

「おや。それはそれは。……さぞかし、お愉しみだったのですねえ」

 シグディースの懐妊を把握しているはずの伯父は、事情を知らぬ招待客に見せるのはぴったりの、だらしなくも滑稽な笑みを即座に作った。この伯父は実直で純情な息子とは違って腹芸が巧みだから、父も重宝したのだろう。

「お妃はたまげるような美女だった。貴殿が浮かれるのも当然だ」

 異母兄から大公位を奪うための戦でロスティヴォロドに組した部族の長は、イヴォルカの言葉をたどたどしくもしっかりと紡いだ。

「だが、あの美しい姿を私どもがお目にかかる機会は此度だけなのですから、今宵は自重してくだされよ?」

「さあ、それはどうですかな? あれに世継ぎをと耳元で囁かれると、つい朝まで望みに応えてしまうのですよ」

 若き大公は大げさに破顔しながら、手振りで奴隷に空の杯を満たせと命じる。

「ならば、ご世継ぎが誕生した祝いに望みをかけるとしましょうぞ」

 イヴォルカ人に負けず劣らず酒を好む遊牧の民の長は、葡萄酒がひたひたに注がれた大杯を一息に干した。その剛毅な様は見事そのもので。シャロミーヤ渡りの貴石で飾られた器に、更にあちらの金貨銀貨を詰め込んで、記念の品として持たせることにした。

 

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