侘び鳴き Ⅰ

 政務の休息がてら中庭に出ると、四番目の息子が真っ直ぐな金髪を揺らしながら駆けてきた。

「とうさま、だっこ」

 息子らの中で最も母親に似ていると評判の四男は、最近とみに操る語彙を増やしている。母のそれよりも紫を帯びた双眸は、木の剣を振るう兄二人の勇姿をひたと見据えていた。ついでに、まだ五歳の三男はあちこちで木苺を探しては貪っている。奴隷に集めさせればよいものを、なぜ自分で集めるのだろう。腹が減っているのならば、菓子でも持って来させればよいだろうに。

 広い胸に我が子を抱きながら苦笑を零すと、小さく温かく、まだ柔らかな四肢はむずむずと動きだした。

「ぼくもにいさまとおなじことする」

「木苺集めか?」

「ちがう! きのえだをぶんまわす!」

 お前にはまだ危ないからやめろと言い聞かせても、四男は耳を貸さなかった。致し方なく、地面に降ろせばそのまま長子と次子に向かって突進しそうな体を抱きしめる腕に力を籠める。すると四男は終いには、びゃあびゃあと泣き出した。

「とうさまがぼくをなかまはずれにするーっ!」

 自分に似た大きな声で耳元で叫ばれると、本気で耳が心配になってくる。

「そんなことはしてねえだろ!」

「だったらにいさまたちのとこまでつれてってよ!」

 聴覚を保持するために。またこのまま抱きかかえていれば安全だろうと妥協して、幼くも真摯な顔で睨み合う上の子供たちに近づく。年子の長子と次子は、武術の師の教えを復習しているのだろう。ぶつぶつと何事かを呟きながら木剣を握っていた。

「頑張ってるな、お前たち」

 声をかけると、息子たちはぱっとあどけない面をほころばせた。ただし、長子は「父上」と品よく。次子は「親父!」と豪快に。

「休憩をしておられるのですか? グリンスク大公の務めを果たすには、気晴らしも時には必要となりますものね」

 生まれた順番を抜きにしても、将来の大公はこの公子しかおるまいと誰もが囁く長男は、ロスティヴォロドよりも余程きちんとした喋り方をする。シャロミーヤ渡りの教師を礼儀作法の師に付けた甲斐があったというものだ。

「大公がんなとこで遊んでていいのか? あとで目を吊り上げたおっさんどもに怒鳴られてもしらねえぞ?」

 一方次男は、幼い頃の自分ならこう言っただろうという、想像通りの言葉を発した。長子と同じ礼儀作法の師に習わせているのに、どうしてこんなに差がついたのだろう。

「木苺うまいぞ。あにきたちとおやじも食うか?」

 いつの間にかこちらに寄ってきた三男も、在りし日の自分そのものの口の利き方をするから、長男が特別なだけなのかもしれない。長子としての責任感とやらが、イジュスヴァルを実年齢よりも大人びさせているのだろうか。そんなものは、異母兄ヴィシェマールからは欠片程も感じた覚えはないが。ということはやはり、イジュスヴァルが特別に賢いのかもしれない。

 親馬鹿そのものの考えに耽っていると、意匠化した蛇、もしくは竜が絡み合う紋様が描かれた袖をくいと引かれた。既に地に降りていた四男は、すぐ上の兄が口内に押し込んだ果実を咀嚼している。四男は兄弟で最も母親に似て美しい顔立ちをしているが、唇どころかその周囲まで赤くした様は、人喰い妖怪でしかなかった。

 子らの愛らしさに細めた目を動かすと、長男の青い双眸とかちあった。賢くもまだ幼い長子は、突けばぱりんと砕け散りそうな、張りつめた様子である。

「父上」

「なんだ?」

「お伺いしたいことがあるのです。なので、少し離れたところに行きませんか?」

 もちろんだと頷くと、長子はやっと年相応の無邪気さを纏った。

「すみません、父上」

 生い茂る肝木カンボクの葉から滴った春の光は、柔らかな金髪を輝かせる。次男以下の子供たちは、父と長兄が離れたと気づきもしないではしゃぎまわっていた。

「で、聞きたいことってなんだよ?」

「……それは、その……」

 思いつめた表情と、話をするにあたって弟たちから離れ違ったことから、大まかな内容は察しが付く。

「母上は今、五番目の子供を……ぼくたちの弟か妹を懐妊しているのですよね?」

「あ? そうだぞ。秋ぐらいには生まれるはずだ。楽しみだな」

 もしかしてこいつ内心では、新しく生まれるきょうだいに母親の関心を奪われると、不安を募らせているのだろうか。

 我が子の痛ましくもある愛らしさは、逞しい胸を締め付けた。長子と次子は年子で、シグディースは次子以降も数年おきに身籠っている。だから長子は物心ついてからは、母を独占できた時間がなかったのかもしれない。

 現在悪阻で苦しんでいるシグディースの代わりに、ロスティヴォロドが抱きしめれば、幼い我が子が抱える侘しさも少しは慰められるだろうか。伸ばした腕は、しかし柔らかな身体に触れる前に静止した。

「ですが母上は、周囲のものたちいわく“子宝に恵まれている”のに、ちっとも嬉しそうじゃないですよね。いいえ、今回のご懐妊が明らかになる前から、ずっと」

 驚愕のあまり、息が止まりそうになった。イジュスヴァルは今年で八歳。様々な物事を理解できるようになる年頃ではあるが、本当によく周りを観察している。

 確かにシグディースは、子供たちがある程度自分で身の回りの用を済ませられるようになると、あまり見向きしなくなる傾向にあった。まるで動物の親が、ある程度育った子を追い払うかのごとく。

「それに母上は、父上がどんな贈り物を差し上げても喜びませんよね……」

 長子はいつのまにか、親が舌を巻くほど賢くなっていた。自分がイジュスヴァルぐらいだった頃など、今日の夕食の具入り麺麭ピロシキの中身は何か、ぐらいしか考えていなかったのだが。

 粗暴な自分と、脳まで筋肉でできているに違いないシグディースの子とは信じがたい聡明さは、教育の成果なのだろうか。だとしたら、次男の礼儀作法の時間をもっと増やすべきかもしれない。などとロスティヴォロドが現実から逃避している合間にも、大きな瞳は潤んでゆく。

「……母上は、お腹の赤ちゃんも、ぼくたちのことも、父上のこともお嫌いなのですか? だから、一度もお笑いにならないんですか?」

 涙を誤魔化すためだろう。しきりに瞬きしながらロスティヴォロドの返事を待つ長子が期待している答えは、どんな馬鹿にだって導き出せるだろう。

 この賢く、それでいて――むしろそれゆえに傷つきやすい子供は、自分の想像を否定してほしいのだ。自分が先程語ったのは全てつまらない勘違いで、自分たちは母に愛されているのだと、他でもないロスティヴォロドに笑い飛ばしてほしい。だがこの場は誤魔化しで切り抜けられても、いつか我が子たちが自分とシグディースの出会いや因縁を知るのは避けられないだろう。ならばいっそ、真実を教えてやるべきかもしれない。

「そうだな。隠してても仕方ねえから、全部教えてやる。まず、シグディースが前のシチェルニフの公の娘だってことは知ってるな? あいつには公である父親や母親に、姉や弟がいたことも」

 シグディースの心情からはあまりにかけ離れた問いかけに目を丸くしながらも、長子はこくりと首を縦に振った。

「でも、今のシチェルニフの公は俺だ。じゃあ、あいつ以外の前のシチェルニフの公一家はどこに行ったと思う?」

「分かりません」

 口さがない女奴隷たちも、まだ十歳にもならない公子の耳に、母の国が滅亡した経緯を吹きこまないだけの分別はあったらしい。きょとんと傾げられた頭からも、血色の良い唇から吐き出されたのは真実だろう。

「あの世だよ。ちなみに、送ったのは俺だ」

「え?」

「つまり俺は、あいつの家族の仇なんだな。だからあいつは俺のことが嫌いなんだ。分かりやすく言えば、だが」

 姉以外の家族の首をシグディースの目の前で刎ねたとか、大勢の従士の前でシグディースを犯したとか、子供には聴かせられない事実は省略した。けれどもロスティヴォロドが詳らかにした過去は、子供にとっては十分すぎるほど酷い話だったろう。普段は薔薇色に染まっているふっくらとした頬は、みるみる蒼ざめていった。

「……じゃ、じゃあ、母上はやっぱり、僕たちのことが嫌いなんですか……?」

 常識に従えば涙に濡れた声が指摘する通りなのだろう。しかし、シグディースの頭の中は常識では計り切れない。それにシグディースは偽りの姿でロスティヴォロドを欺こうと企てるほど頭も良くなければ、毎日ずっと演技を続ける忍耐力もないはずだ。

「そりゃねえよ。だってあいつ、お前ができたときからずっと、自分で産着縫ってんだぜ? ほっといてもんなもん幾らでも用意されるのに、大公妃であるあいつ自ら」

 だから、作り物めいた指を針で刺し、作り物でない証を滲ませる妻の姿から感じたものが、偽りであるはずはない。

「今は悪阻のせいで追い詰められてるけど、もう少ししたらあいつはお前たちの弟か妹が無事に生まれますようにって、聖像画に祈りだすはずだ。その時のあいつの顔見たら、んな不安も吹き飛ぶさ」

 柔らかな身体をあやすように高く抱き上げると、長子は凍りついてた面をぎこちなくもほころばせた。しかし母親譲りの瞳には氷の欠片が浮いたままで。

「……じゃあ、母上はぼくたちのことをきらいじゃないんですね?」

「おう」

「でも、父上は、それで――母上に嫌われたままでいて、いいんですか? 悲しくないんですか?」

 遠慮がちに紡がれた問いかけは、槍となって引き締まった胸を貫いた。

「ぼくは、頑張れば父上や他のみんなが褒めてくれるから、お勉強だって剣の稽古だって頑張れます。だけど母上は、父上が何をやっても笑わない。父上を赦してくれないんでしょう?」

 なのに母上と一緒にいて、「むなしく」ならないんですか?

 それきりイジュスヴァルは、その可愛らしい唇を閉ざしてしまった。

 我が子に突き付けられた問いは、ロスティヴォロドももう何度も自問自答したものだった。

 大公となったロスティヴォロドなら、シグディースほどではなくとも美しく、それでいて自分を愛してくれる女を手に入れられただろう。たとえば死んだ婚約者のリューリヤのような。そして、そんな女に満足して愛せたら、どんなにか良かったか。さすれば、子に要らぬ気苦労をさせずに済んだだろうし、ロスティヴォロド自身もっと楽に生きられたはずだ。けれどもロスティヴォロドはもう、天頂から冷ややかに下界を見下ろす月のごとき彼女に、心を乱され奪われる前には戻れないのだ。

 こんな想いをすることになると分かっていたら、リューリヤを喪って直ぐにでも、恥を忍んでシグディースに求婚していればよかった。父に命令されたからとはいえ、彼女の両親や弟を殺さなければ良かった。衝動に任せて彼女の純潔を奪っていなければもしかしたら、と後悔した晩は数えきれない。傍らに、腕の中に愛する女がいる。間には子もいる。だのに心は一欠けらも手に入らないのが、心臓が引き裂かれるほど辛いものだとは。

 ロスティヴォロドのこの想いは、シグディースを妾にして孕ませ、夫婦として過ごす中で育まれていったものだ。それ以前のシグディースはただの面白くて抱き心地がよい女でしかなかった。だからたとえ時を戻しても、自分は彼女に同じ暴挙を働くだろう。つまり自分たちは、今のような形でしか夫婦にはなれなかったのだ。

「――俺はお前たちと違って大人で、何より大公だから、大丈夫なんだよ」

「そうなんですか?」

 地面に降ろした我が子は、ひたすらきょとんとしている。どうかこの子も含めた息子たちは、自分のような苦しみを味わうことのないようにと、男は祈らずにいられなかった。 

 

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