鶺鴒 Ⅱ

 従士たちを無事言いくるめた男は、自分の子を身籠った女の元まで急いだ。少しも待たれてはいないだろうが。

「まあ、大公様!」

 案の定、シグディースは今日も熟睡しているらしい。ロスティヴォロドを出迎える気配は一切なかった。懐妊すると吐き気の他、やたら眠気を催す女もいるという話だから、これもまた妊娠に伴う症状の一つなのだろう。ならば、思う存分快眠してもらいたいものだ。どうせ目を覚ましても吐き気に襲われるだけだろうから。

「あの御方のだらしなさには私どももほとほと困り果てておりまして……」

 今日でお役御免になるとは露ほども考えず、女奴隷たちはシグディースの行状を次から次に非難した。そうせよと命じてもいないのに。

 シグディースはエレイクの一族に刃向かった男の娘であり、家族の仇としてロスティヴォロドの命を狙っている。その彼女を罵るのは、ロスティヴォロドに阿ろうという意図ゆえなのかもしれない。だが妻にする女への雑言は、右から左に受け流していても不愉快だった。

 そもそも、ロスティヴォロドはシグディースに従順さなど欠片も求めていない。むしろ彼女と本格的に日々を共にして気づいたのだが、自分はどうも高慢な女に引きつけられる性分らしかった。そんな女がふと漏らす脆い側面はどんなものよりも可愛らしい。

 久方ぶりに陽光の下で眺める金髪はやや伸びていて、指で梳くとさらさらと流れた。薄い目蓋の下の矢車菊の青を早く拝みたくて、細い身体を抱きしめる。

「……なんぞ?」

 そうして長い睫毛が二、三度震えるとすぐに、男はまだ平らな下腹をそっと撫でた。彼女がどう受け止めるかは分からないが、この中には自分の子がいるのだ。愛おしくてたまらない。

「どうせ持っていきたい物なんて、その短剣以外は何もねえだろ? だったらさっさと行くぞ」

 完全に目覚めた後もシグディースは事情を呑み込めず、しばらく呆けたままだった。ぽかんと口を開けたままでも間抜け面にならないのだから、つくづく美人は得である。

「だとしても、何故私がそなたなどと――」

 シグディースは自分が妊娠していると気づいていなかったらしい。事の成り行きを受け入れるまではややごねていた。

「妃になって、俺と一つ屋根の下で暮らすようになれば、暗殺の機会も増えるはずだぞ?」

 が、あらかじめ考えておいた言葉を耳元で囁くと、あっさり結婚に同意してくれた。本当に扱いやすくて、可愛い女である。

 温かく柔らかく、羽根のごとく軽い身体を横抱きにして馬に乗せる。鞍に跨った経験はないはずなのに、シグディースの背筋は真っ直ぐに伸びていて、白い顔は面白がっているようですらあった。

 大公邸へと到着すると、月色の髪の短さを指摘する嘲りが、真っ先に耳に突き刺さった。再び腕の中に収めた彼女にも、騒々しい声は届いているはずだ。けれども誇り高い瞳はいささかも揺らがず、ロスティヴォロドの腕の中から下々を睥睨している。一際煩く自分を非難していた奴隷の方をひたと見据えた彼女は、しかしすぐに視線を逸らした。その者が塵か地虫であるかのごとく。

「私はもう疲れた。早うどこぞで休ませよ」

 これから夫となるロスティヴォロドに、にこりともせずに命じる・・・面と声の冷たさ麗しさには、背筋が痺れた。妊娠していなければ一晩中抱き潰すのだが。

 これからは自分と彼女のものになる寝台の上に、華奢な身体を横たえる。

 幾ら悪阻の最中とはいえ、少しでも腹に物を入れさせた方がよいだろうか。大公は逡巡した末に簡単な食事を準備させたのだが、その僅かな間にシグディースは眠っていた。本当に疲れていたのだろう。

 果たすべき雑務や食事を終え、安らかな寝息を漏らす女の横に身体を滑らせた時分には、既に日は暮れていた。

 形良い額に唇を落とし、自らもまた目蓋を下ろす。ロスティヴォロドは昔から、寝台に横たわればたちまち眠りに落ち、余程の事態が起きなければ朝まで目を覚まさないという得な体質だった。だのに夜半に目を覚ましてしまったのは、女の悲鳴が夜の静寂を引き裂いたために他ならない。

 余程夢見が悪かったのだろう。はらはらと流れる涙を指で拭い、慄く身体を抱きしめても、半ば覚悟していた通りに跳ね除けられはしなかった。

「明日は花嫁衣裳を見てみるか? 帝国でも最高級の、金糸銀糸が織り込まれた布から仕立てたやつだから、きっと気に入るぞ」

 雪に埋もれた七竈のごとく鮮やかな紅唇を濡らす雫は塩辛かった。涙の味を忘れさせるためにも、明日はシグディースに何か食べやすい物を用意させた方がいいだろう。彼女は甘酸っぱい物が好きらしいから、果物の甘煮などどうだろう。などと慄く身体を抱きしめながら思案していると、目蓋は再び重くなってしまって。

 朝の光に照らされた白い顔には、涙の痕はなかった。

「……そなた」

 けれども肌理細やかな頬はほんの僅か、杏の花のごとく色づいている。形良い紅い唇も、物言いたげであった。

「昨夜のことは、その、なんだ、」

 切れ上がった大きな瞳を潤ませたシグディースは、一体何を言おうとしていたのだろう。野の獣でもあるまいに他人に弱みを見せるのを厭う彼女のことだ。忘れてくれとでも頼むつもりだったのかもしれない。

 普段の尊大な様子も良いものだが、不意に曝け出された年相応の表情は男の欲望を刺激した。しかし懐妊中の彼女に滾る熱をぶつけてはならない。

「――な、なにを、」

 これぐらいならば良いかと、艶やかな唇に己のそれを重ねる。自分の武骨な指を添えると、形良い顎の細さが際立った。

 いい加減慣れてもよさそうなものだが、軟な口内に舌をねじ込むと、シグディースはいつも硬直する。そうして薄い舌を弄んでいると、一対の青玉は虚ろに蕩けるのだ。頭ではなく筋肉で考えていそうな単純馬鹿であるのに、唾液で濡れた唇もそのままの紅潮した面が目を奪うほど艶っぽいのは、彼女にとって幸か不幸か。

 シグディースはいっそ、ここまで恵まれた容姿をしていなかった方が、周囲の者に好意的に受け入れられたのかもしれない。

 昨日から着たきりで皺が寄った服を脱がせている最中、顔を洗うための水を持ってきた家内奴隷がシグディースに向ける目は、妬みと蔑みで凍っていた。シグディース自身は女奴隷を一顧だにしなかったので気付かなかっただろうが。

 堅く絞った布で顔を拭うと、矢車菊の双眸は心地よさそうに細められた。なので、ついでにその下も拭いてやることにした。一旦着せた服を脱がせ、透き通る雪肌を清めていく。幾度も舐った首を。蔓めいた腕を。ついで繊細な鎖骨のあたりを。

 大きさを増した乳房の頂に布が掠めると、幽かながら上ずった声が漏れた。それが愉しくて、色濃くなった部分を重点的に擦っていると、意思の強さを示す目元は露で濡れて。

「次はどこを拭いてほしい?」

「――ふざけるな。早う終わらせろ」

 そうするなとは言われなかったので、彼女の身体の中でもとりわけ敏感な下腹部は、乳房以上に時間をかけた。

 次に作り物めいた足を捧げ持ち、薄紅の貝か花弁さながらの爪が散りばめられた指の間までを丁寧に拭う。そうして足裏に進むと、細身ながら艶めかしい身体はまたしてもびくりと跳ねた。シグディースはきっと、一般に触れられたらくすぐったさを覚える箇所が弱いのだろう。これは思いがけない収穫であった。

 閨事でもない、ただの身体を清める行為で反応をしてはいけないとでも、自制しているのか。懸命に反応を押し殺すシグディースを観賞しながら、自分の体温で温まった布を上へと進めていく。無理やりに押し開いた脚の間は、濯いでもいないのに濡れそぼっていた。

 薔薇色の襞やその間の突起ももちろん丹念に拭う。すると荒い吐息混じりの罵声が切れ切れに発せられたのだが、無視をした。

 汚れてなどいなかった体を清め終えると、どこか懇願しているような哀切な艶を帯びた瞳とかち合った。しかし妊婦の身体をこれ以上冷やしては不味かろうから、手早く衣服を着せてやる。虹彩よりもやや薄い青の絹を纏った彼女は清々しく初々しく、男を知らぬ乙女めいてすらいた。だからこそ、震える手が手桶に突っ込んだ布を掴んだ際は、内心いたく驚いたのである。

「……そなたは、私の夫となるのだ。そなたがしたことを私がせぬのは、その……色々と、まずかろう」

 ロスティヴォロドがシグディースの身体を拭ったのは、夫婦としての務めでも何でもない。ただ彼女の反応で愉しみたかったからだ。だからシグディースがロスティヴォロドの身を清める必要は一切ないのだが、勘違いさせておいて損はない。どころかこの上なく幸運だった。

 か細い指が、剣と斧を振るい弓を引き絞る日々で自然と絞られた身体に、盛り上がった筋肉に触れる。シグディースの手つきははっきり言って丁寧には程遠かった。だが恥じらい伏せられた目元と、林檎の花の色になった頬は実にそそる。

 ロスティヴォロドの身体の大部分を清めた後、シグディースはしばし思案していた。彼女が今まで自分のそこに触れたことは無かったから、躊躇うのも当然だろう。

 そこは無理にせずとも良いと、口を開きかけたまさにその時。かたかたと音が聞こえてきそうなぐらい慄く指が、どうにか平静を保っている幹に直に触れた。嫌ならば布で包んで拭くなりすれば良いだろうに、シグディースは馬鹿正直に左手を幹や玉に添え、右手で布を押し付けてくる。この状況でどうにか理性を保っているロスティヴォロドは、聖人よりも偉いのではないだろうか。

「終わった、ぞ」

 胸を何度も押し付けられながら服を着せられると、ある意味精神を消耗させられた時間は終わった。

「その……お前の一族では、毎朝このようにするのが決まりなのか? ならば妻として従うのみだが、腹が大きくなれば難しかろうな……」

 だのにシグディースは上目遣いに見上げてきて、再びロスティヴォロドの理性を試そうとする。先ほどはしばらく勘違いさせておこうと思ったが、こんなことを毎日されたら自分はそのうち、彼女を失神するまで責め立てるかもしれない。さすれば腹の子が流れてしまいかねないから、戯れは潔く終わりにしよう。

「いや、んなわけねえだろ」

「は?」

 ――ならば私はなぜ、あんなことをやったのだ?

 ロスティヴォロドも答えようがない問いを、呆然と呟くシグディースは可愛らしかった。彼女は自分の命を狙っているのだというのに。

「そなた、私を謀りおったな!」

 雨あられと打ち付けられる拳は、脳裏に焼き付いた羞恥に赤らんだ花顔を拝めた幸福と比すれば、微風も同然である。ゆえに男は、女が満足するまで殴打を受けた。

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