鶺鴒 Ⅲ

 従士たちと酒を酌み交わす宴の場の他にも、館には食事の場がある。ロスティヴォロドが子供の頃は父や祖母、兄たちとともに着いていた普段使いの席だ。大公となってからロスティヴォロドは、従士たちと共に賑やかな宴の場にばかり入り浸っていた。だからこの部屋を使うのは約十年振りになろうか。

 麺麭に被りつき、肉の大きさや部位を巡って兄たちと喧嘩をし、祖母や父に笑われなだめられていた幼少期。あの頃とは異なり、食事の間は広さばかりが嫌に目に付いた。

 このどうしようもない寂寥も、子が生まれれば和らぐだろうか。

 ロスティヴォロドは大公位を巡って対立した長兄を死に追いやった。その自分が耽るには烏滸がましい感傷は断ち切り、エレイクの一族のみが座るのを許される席にシグディースを案内する。

 彼女が好むと聞いていた、旬の瑞々しい林檎を中心にした甘味を、奴隷に並べさせる。すると顰められていた柳の眉はぱっと元に戻った。シグディースは見かけによらず子供っぽい所がある。そもそも彼女の中身で、気品すら漂う美しさから想像できる部分は、気位の高さぐらいのものなのだが。

 いくら好物とはいえ、悪阻に悩まされる胃にはあまり詰め込めないらしい。ロスティヴォロドからすれば小鳥の餌同然の量を啄むと、シグディースは匙を置いてしまった。

おのこはほんによう食べるのう」

 他にやることがないからだろう。シグディースは蕎麦のカーシャを掻きこむロスティヴォロドを退屈そうに、けれどもしげしげと観察してきた。

「そりゃあ、身体の大きさが違うからな」

「……ならば女もかように食べれば、筋骨逞しい身体になるのかえ?」

 ぽつりと呟いたシグディースの目元は、愁いと悲しみを帯びていた。彼女の人生からして、一度や二度は男に生まれていればと嘆いた瞬間があってもおかしくはない。シグディースにそのような道を歩ませたのは、ロスティヴォロド含むエレイクの一族なのだが。

「……つまらぬことを訊いたな。忘れてくれたも」

 ほうと溜息を吐いたきり、シグディースは口を閉ざしてしまった。このままでは気まずいので、何か別の話題はないものか。なんせ自分たちはこれから夫婦になって、数え切れないぐらい食卓を共に囲むのだ。食事の際は無言が当たり前になったらあまりに侘しいし、子供の教育にも悪いだろう。

 とはいえ、彼女のここ数年に触れてはいけない。それ以前の、自分たちが奪った幸福を思い起こさせるのもあまりに酷だ。過去が駄目ならばと未来に目を向けさせるわけにもいかない。なんせシグディースのまだ平らな腹の中にいるのは、彼女の家族を全て殺したロスティヴォロドの子なのだ。

 ロスティヴォロドには、シグディースが何を考えて子を産もうとしているのか、察することすらできない。どんな経緯があれど自分の子だから愛しいのだろうといった、たわけた幻想を押し付けるつもりもない。今は子の存在を受け入れている彼女が出産後に態度を一変させても、子に危害を加えない限りは自由にさせるつもりだった。ロスティヴォロドとしては、シグディースが自分の妻になって子を産んでくれるだけで十分だから。

「……お前さ、昨日俺が婚礼衣装を見るかって言ったの覚えてるか?」

「そういえばそなた、そのようなことも申しておったのう」

 逡巡の後絞り出した答えは正解だったらしい。シグディースの面には一切の感情が載せられていなかったが、声は僅かに浮き立っていた。彼女もやはり、花嫁衣裳というものには憧憬を抱いているのだろう。たとえそれが、父母やきょうだいの仇であるロスティヴォロドの隣で纏うものであっても。

「母上の婚礼衣装は見事なものだったな。勝手に袖を通して、叱られもしたものだ」

 彼女の母の花嫁衣裳がどうなったかなど、問いかける必要はなかった。自分たちがシチェルニフを落とした際に略奪された。あるいはシグディースが生まれ育った館と共に灰燼に帰したかの、どちらかなのだから。


 食事も終わり再び夫婦の部屋へと戻ってすぐ、はるばるトラスィニから運ばせた衣裳を、愁いを帯びた顔の女の目の前に広げる。ロスティヴォロドが臨終の母より託された婚礼衣装を前にすると、シグディースは表情こそ変えないものの、雪白の頬をうっすらと赤らめた。まるで、金糸銀糸で植物の文様が織り込まれた上着サラファンの緋色が移ったかのごとく。

 全てを喪って久しいとはいえ、シグディースは十四までは珠のごとく慈しまれて育った姫君だ。当然、目も肥えていよう。

 そんなシグディースが、母が仕立てた婚礼衣装を気に入らなかったら、どうしたものか。ロスティヴォロドには貶すべきところなど一つも見つけられぬ衣裳とて、矢車菊の双眸にとっては瑕疵だらけかもしれない。などと時折悩みはしたものの、危惧に終わって安堵した。

 あと一つ憂慮があるとすれば、儚さを感じさせるまでに細身だった母が縫った――無意識のうちに自分の体形を基準にして仕立てた可能性のある服に、シグディースの乳房が収まるかということだけ。ましてシグディースは身籠っているのだ。ほっそりとした四肢や折れんばかりに締まった腹部には、もともと不釣り合いにたわわな胸は一層豊かになろう。ついでに臀部も。

 だが、そちらの方の不安も危惧するには及ばなかったらしい。後ろから抱き付いて触って確かめたのだが、華奢でありながら女らしい肢体はゆったりとした衣裳に難なく納まるだろう。

「お前は元々美人だけど、着飾ったら目も眩まんばかりになるだろうな」

 一月後に迫った婚礼の日、祭壇の前に立つ彼女の姿を想像する。招待客は皆、シグディースの麗しさに魅了されるだろう。昂ってきた情欲を、掻き抱いた肢体にぶつけてはならない。けれども、赤い花弁を吸うぐらいは許されるだろう。

 形良い顎を武骨な指で掬って接吻すると、いずれ伴侶となる女は常のごとく硬直した。幻想的なまでに蒼い瞳は、部屋の隅で立ち尽くす女奴隷たちを気にしているようである。それが面白くなくて、彼女の意識を自分に集中させるためにも、薄い舌をちろと舐める。

 そうすれば早く終わるとでも考えたのだろうか。おずおずと先端を絡めてきた舌の動きは愛らしく、つい揶揄いたくなってしまった。まだ締まった腹部の、シグディースの一等弱い部分を突いたら、この薄紅の肉はどのような反応をするのだろう。

 脳裏に過った悪戯を実行すると、頬を薄桃色にした女の身体はぴくりと跳ねた。ついで、しゃんと伸ばされていた背筋からは力が抜ける。これはまずいと細腰に腕を回し、慄く肢体を抱き寄せる。柔らかなふくらみが自分の硬い胸板に当たって潰れる様は、閨で幾度となく眺めたというのに、性懲りもなく興奮してきた。中に挿れはしないから、せめて手か口を貸してくれないだろうか。

 薄く慎ましいがゆえに蠱惑的な唇が、自分のものを咥える。その様を想像してしまうと、下腹部に集まる血流は猶のこと多くなった。ロスティヴォロドはあともう少しで、女奴隷の前だろうがお構いなしに、狼狽える彼女の口に猛ったものを押し込んでいただろう。だが危ういところで、なけなしの理性が止めておけと囁いてきた。

 ロスティヴォロドに挑む際に転倒し、腹の子を流してはと自重しているのだろう。シグディースは現在、あの組紐文様の短剣を衣裳櫃に仕舞いこんでいる。だのに力に任せ、元々は高貴な生まれの彼女は聞いたこともないだろう、拒絶するのは当然の行為を強いるなど。あまりにも最低すぎる。けれども安定期に入った彼女が自分に刃を向けてくる晩があれば、その時は容赦はしない。

 二十年弱の人生で遭遇した、男の欲望を萎えさせる光景――その最たるものは、狩猟の最中に遭遇した、躯の鹿の皮の下で蛆虫がびっしり蠢いていた様だ――を想起し、荒れ狂う欲望の焔をどうにか鎮火する。

「――驚いたか?」

 唇を離すやいなや、蓄えだした顎鬚が野性味を醸し出す面には繊手が叩きつけられた。しかし、目に涙を溜めて自分をねめつける彼女は、頬の痛みを忘れさせるほど魅惑的で。

「まあまあ、そんな怒るなよ。ちと練習・・しただけじゃねえか」

「そ、そのような空言には騙されぬぞ。ならば問うが、天主の徒は婚礼の誓いを立てる際、花嫁の乳やら尻やらを弄るのかえ? 先ほどそなたがやったように!」

 縄張りを荒らされた猫のごとく警戒する彼女を宥めるのには苦労したが、蜂蜜菓子を持ってこさせると囁くと、あっさりと機嫌を直した。

「ほら、食えよ」

 甘く香ばしい菓子の端をロスティヴォロドが咥えると、シグディースはややむくれたが、そんな顔さえ可愛らしかった。

 シグディースの容姿を知る者には、美しいが愛嬌が一欠けらもなくつまらない、不気味な女だと、彼女を謗る者もいるらしい。そんな輩が、意を決してロスティヴォロドが咥える菓子に食いついてきた際の彼女の表情を目撃したら、一体どんな反応をするのだろう。

「じゃあ俺はこれからやらなきゃならねえことが沢山あるから、お前はその間ゆっくりしてろよ」

「……そういえば、私はよいとして、そなたの衣裳はどうするのだ? 婚礼の主役は私ではなくてそなたぞ?」

 菓子を平らげて、気分が良くなったのだろう。去り際シグディースは珍しく、復讐に関わらないロスティヴォロドの行動に言及してきた。

「俺の服なんて、親父が嫌味ババアと結婚する時に着たやつの丈を直せば事足りるさ。それに俺は、親父とお袋の長所を受け継いだ美男子だからな!」

「左様かえ。まあ確かにそなたは、男らしくて端整な面立ちをしておるがの」

 面白半分の冗談のつもりで紡いだ戯言に返されたのは、聞き間違いか幻聴だろうか。美しかった母にほどほどに似たロスティヴォロドは、そこらの者よりかは整った造作をしている自覚がある。だが、彼女によく似た美形だったシチェルニフ公の娘として生まれ育ったシグディースが、自分程度の面相を称賛するなど。しかも自分は、彼女の家族全員の仇であるのに。

 一体何事かと振り向いてしまったが、その時既にシグディースは菓子のついでに持って来させた飲み物に、ちびりちびりと口を付けていて。つまりロスティヴォロドは彼女の興味の範囲外に締め出されてしまっていた。

 

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