鶺鴒 Ⅰ

 シグディースが妊娠した。ならばするべきことはただ一つ。孕ませた責任を取るためにも、彼女を妻にするのだ。となれば外堀を埋めるためにも、従士たちにシグディースを大公妃とすることを認めさせなければならない。シグディースはあれで押しに弱いところがあるから、外野さえなんとかしてしまえば大丈夫だろう。むしろ、シグディース以上の強敵が従士たちかもしれなかった。

 自分より余程年上で、人生経験も豊富な輩を説得するのは骨が折れるだろう。だが、燃えてきた。どうせ問題に対処するなら、容易いよりも困難な方が取り組みがいがある。幼い頃ロスティヴォロドは、屁理屈をこねさせたら兄弟一だと祖母に褒められていた。祖母にも認められた舌の周り具合を、ついに発揮する時が来たのだ。

 そんなに喜色が面に出ていたのだろうか。館に戻り、滅多に出さない上等の葡萄酒を呷っていると、逗留していた伯父に声をかけられた。

「お顔を拝見してすぐ分かりました。何か良いことがあったのでございましょう? ぜひ私どもにも、大公様と喜びを分かち合わせてくださいませ」

 実の甥に向けるにしては、伯父の笑みはこびへつらっている。しかしそれもいつものことなので、さして気にはならなかった。伯父の隣のアスコルはあからさまに辟易としていたが。

「いやなー、実はガキが出来てたんだ」

 奴隷に伯父とアスコルの分の杯も用意するようにと指示しながら答える。

「――シグディースにか!?」

 すると勢いよく食いついてきたのは、父親と共に居る際は、自分からは滅多に喋らないアスコルであった。

「そりゃそうだろ。あいつ以外の女との間にガキ作ってたら、流石に俺最低すぎねえ?」

「だけど、お前……」

 はっきりと眼差しで糾弾してくる従兄が何を考えているかは察しが付く。けれども、ロスティヴォロドにはアスコルの望み通りに振る舞ってやる義理はないのだ。

 ロスティヴォロドはリューリヤのことを、哀れだと思っている。願わくばどうか彼女が死者の国で、家族と共に安らかであるようにとも。また、かつて愛おしいと感じた気持ちにも偽りはない。けれども一生リューリヤだけを想って、リューリヤへの愛だけを糧とし修道士のごとく生きるほど、ロスティヴォロドは人生を捨てていないのだ。

 善良だと神に認められた魂は、死後天主の楽園にて永遠の生命を得るのだと、聖職者たちは説く。しかしそれでも、この地上に居られる時に限りがあるのに変わりはない。だから、できる限り人生を楽しもうとしても良いではないか。

 騒ぎを聞きつけたのだろう。部屋には蒼ざめたのも喜色に緩んだのも様々な面構えの従士たちが、次々に入って来た。

「よし、お前ら! 俺の子ができた祝いだ! 飲んで飲んで飲みまくれ!」

 自室が野郎で一杯になるのはむさ苦しくて仕方がない。なので若き大公は食堂に移動し、宴の始まりを宣言した。

 結局この日、ロスティヴォロドは従士たちとともに、葡萄酒の樽が一つ空くまで大騒ぎした。一部の――主に高位の従士たちは渋い顔をしていたし、ふと気づいた時にはその場からアスコルの姿は消えていたが。


 翌日、かつてシチェルニフの討伐を決めた部屋に入ると、位の高い従士たちは皆揃っていた。

「さて、大公様。早速昨夜明らかになった件について話し合おうではございませんか」

 この場で最も年下なのは大公である自分なので、親に放埓を嗜められる若者になった気分さえしてくる。ロスティヴォロドの父母は共に亡くなっているが。

「シグディースにガキができた。だから俺はあいつと結婚する」

「それだけで納得するほど、我らの物分かりは良くはございませぬぞ?」

 ――どうしてもとおっしゃるのなら、件の女人を大公妃としたらいかな利益があるのか、我らにきちんとお示しくださりませ。

 従士団の古狐どもはシグディースのように簡単に丸め込まれてはくれなかった。分かり切っていた展開ではあるが。

「シャロミーヤから姫を貰い受けるというのは、確かにいささか難しいやもしれませぬ。それでも我らが彼の国の姫君を望むのは、サグルク人の諸族の姫から大公妃を選べば、選ばなかった者との間に諍いが生じるのは避けられぬため」

「だのに選りによって、既に掌握したシチェルニフの公女など。サグルク人どもも納得致しますまい」

 弓のごとく放たれてきた意見には一理ある。複数の妻を娶っても問題なかった――父も祖父も、同時に複数の妻を持ちはしなかったが――時分ならいざ知らず、現在は天主正教の教えのためただ一人の女しか大公の妃になれない。つまり、昔よりも大公妃の座の価値が上がってしまったのだ。

 国も親類も亡いシグディースは、残念ながら大公妃の座に釣り合う存在ではない。彼女にあるのは美貌と、ロスティヴォロドの子を身籠ったという事実のみ。さて、ここからどう形勢を覆したものか。

「我らもまた人の親。初めての子の誕生に浮かれるのは十分に理解できます。ですが、その子が後継者となる男児であるとも限りませぬぞ。娘もまた愛おしく、時に息子よりも頼りになるものですがな」

「それに、妾が妊娠したから妻にするなど、僧侶どもも認めますまいよ」

 正式な夫婦ではない男女の間に生まれた子が舐める苦労は、ロスティヴォロド自身が知悉している。ましてこれから生まれる子は、このままでは自分以上の苦労を味わう羽目になるのは確実だ。ロスティヴォロドが本当に西南から妃を迎えて子を生せば、その労苦はますます耐え難いものになるだろう。

「亡き御父君の時のように、身を固めたから以前の女を手放せとまでは、流石に我らも求めませぬ。だからご安心くださいませ」

「シチェルニフの公女はこのまま別宅に置いて、別宅で子を産ませれば良いのです。件の女性が男児を産めばいささか問題ですが、娘ならば何らかの政略に使えましょうぞ」

 ロスティヴォロドを丸め込まんとする配下たちはいずれも、シャロミーヤと手を結ぶのが最良の道であると確信している。言い換えれば、彼の帝国がこれからも栄華を謳歌するであろうと信じ切っているのだ。

 自分たちイヴォリ人の祖が西の半島からこの地への移住を始めた頃、シャロミーヤは東方からやってきた騎馬民族に襲撃されていた。結果、イヴォルカの東南にある永遠なる光明神とやらを崇める国と接していた領土は、著しく縮小。その上、一時は存続が危ぶまれるほど追い詰められたというのに。

 突き崩して覆せるとしたら、この辺りの認識だろうか。

 しっかりとした顎に手を当て思案すると、威厳を演出すべく大公となってから蓄えだした鬚が指を刺激した。シグディースの柔肌ならば突き刺さろうが、武芸で鍛えられたロスティヴォロドの指先の皮膚は、鬚程度を通しはしないが。

「なんだよお前ら。そんなにシャロミーヤのおこぼれに預かりたいのかよ。嫌味ババアの浮気の口止め料だけじゃ足りないってか?」

「当然でございましょう」

 義母は里帰りして直ぐ修道院に押し込められたという。あの嫌味女の命が尽きると同時に、口止め料の支払いもまた打ち切られる。祖母が生前義理の娘の生家及び後ろ盾と結んだ契約の終わりを憂う、部下たちの心情も理解できなくはなかった。

「つまりお前ら本当は、俺がシャロミーヤの女と結婚しなくても甘い汁啜れるなら、それでいいんだな?」

「ええ、もちろん」

 もっとも、そのような手段があるのなら、ですが。

 猪首を揃えた男達が頷いた途端、若き大公はその紫紺の瞳を研ぎ澄まされた刃さながらに輝かせた。これで言質は取ったも同然だ。

「だったら俺はなおのことシグディースと結婚するぞ!」

 太い腕を組み、逞しい胸を逸らせて宣言した若き主に、居並ぶ歴戦の勇士たちは目を丸くする。中には、呆れ果てたと眼差しで物語る輩もいた。だがそれも閃いた思惑を、雷のごとき声が堂々と紡ぎ出すまでであった。

「いいか、お前ら。まずは――」

 シャロミーヤの洗練された文化と、大陸中部西方に誕生した貿易国家を通じて集まる富。それらを少しでも多く取り入れたいと望むのは、ロスティヴォロドもまた同じである。だからといって父同様に彼の地から妻を迎えれば、父の死に繋がったもののような、不平等な条約を結ばされかねない。あの条約は、義母の帰郷によりやっと反故にできる兆しを掴めたというのに。

「どんな財宝にも勝る宝であるお前たちを、徒に喪いたくはない」

 そう告げると、居並ぶ配下たちの剣呑な目元はやや和らいだ。

 毎年金や物資その他を貢ぐ約束を騎馬民族と交わし、命脈を保った西南の帝国は、軍事に優れた君主の即位によって往時の勢いを取り返した。そして現在、彼の帝国の都は神の国にも比せられる繁栄を極めている。されどその栄華とて所詮、いつ灰燼に帰すか分からない代物なのだ。例えば、ロスティヴォロドもトラスィニの公として相対した経験のある、白き豹の末裔を自称する民をけしかけてみたら。

 ロスティヴォロドとは一滴の血も共有していないとはいえ、白き豹の裔は父の最初の妻の親類だ。ロスティヴォロドが結婚するとなれば、祝宴に招かねば新たな禍の種となろう。

 来る婚礼の宴で白き豹の裔に、彼らがまだ触れたことのないシャロミーヤの富を誇示したら。目も眩まんばかりの財宝を惜しげもなく土産として持たせ、西南の帝国はこの比ではない富を蓄えていると囁いたら。さすれば、白き豹の末裔は、標的を変えるやもしれない。狩るならより越えた獲物の方が良いのだから。

 二人の異母兄の母の実家でもある部族は、イヴォルカの南方に暮らす民にとっては悩みの種の一つだった。彼らが自分たちよりも金がある獲物に目を向けてくれるのならば、これ以上にありがたいことはない。彼らが求めるのなら、シャロミーヤまで道案内を付けてやってもいいぐらいだ。彼の地への交易路を最初に開拓したのは、他ならぬイヴォリ人なのだから。

 当然といえば当然なのだが、一部の熱意ある聖職者を除いては、シャロミーヤの民の中で野蛮な・・・イヴォルカに移りたがる者は極めて稀だ。けれども遊牧民が再び西南の帝国を荒らし回るとなれば、このイヴォルカ目指して避難してくる者が出て来るは確実。中にはきっと、優れた技術や学識を有する者も必ずいるだろう。さすればイヴォルカは、現在以上に発展するはずだ。

「確かに、遊牧民を厄介払いできるのなら、それに勝る喜びはございませぬ。しかし、ならば妃として迎える女はシチェルニフ公女でなくとも良いのでは?」

 太い眉を寄せて思案する部下に、若き大公はかかと破顔した。

「それはそうなんだが、花嫁は美人な方が見栄えがするし、宴も賑わうだろうが」

 ロスティヴォロドは、旗下の諸族の長の娘がどんな面相をしているのかまでは把握していない。それでも、彼女らのいずれもシグディースには敵わないだろうと断言できた。もしシグディースよりも美しい女がイヴォルカにいたら、噂を聞かないはずがない。

 若き主の自信たっぷりの様子に、居並ぶ従士たちは押し殺した吐息を漏らした。

「大公様がそこまで望まれるのなら、お妃はシチェルニフの姫でも良いでしょう。だが、僧侶共をどのように説得するおつもりなので?」

「引きかえに、奴らが前から欲しがってた“天主の神聖さを現した大聖堂”とやらの建造を始めりゃいい。材料は口止め料の一部という名目でシャロミーヤから取り寄せれば金もかからねえだろう。ついでに、あっちの技術も入ってくるし、俺たち誠心誠意天主を崇めてます、って姿勢を示せて好都合だろ?」

 野郎相手にしても意味はないが片目を瞑って愛嬌を演出すると、遙かに年上の配下たちはついに折れた。

「ならば我ら一同、大公様の御心に従いましょう。しかし、最後に一つだけ質問させてください」

 ――そうしてあの女を妃に迎えて、貴方様を憎む息子ができたら、一体どうなさるおつもりなのです? もし将来、息子に命を狙われることになったら。

 突き付けられたのは、シグディースの懐妊が明らかになってから、幾度か脳裏を過った可能性ではあった。しかし男は、部下たちの憂慮を笑い飛ばす。

「あいつはあくまで自分だけの力で俺を殺そうとしてるんだ。そんなクソ真面目なんだか、頭の中まで筋肉でできてるのか分からねえ女が、子供を利用して俺を殺そうだなんて、考えつくと思うか?」

「確かに、そうですが」

「それに、もしもだ。いつか俺が自分のガキに殺されるとしたら、ガキの方が俺よりも強いってことだ。だったら十分やっていけんだろ? だから何も心配いらねえよ」

 もし俺が俺のガキに殺されたら、お前らはそのガキの面倒をよく見てやれよ。

 朗らかに破顔する男は、自分に向けられた部下たちの眼差しの翳りに気付かなかった。まして、一抹の憐憫には。

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