小夜啼鳥 Ⅱ
兄の死を確認してから数日も経つと、大公邸は殆ど元の姿を取り戻していた。新しく仕入れた奴隷たちに念入りに掃除させただけはある。
流石にここを荒らすのは皆遠慮したのか。略奪の手が入らなかったほとんど唯一の場所である歴代の大公の寝室にて一人佇む男は、かつて幾度となく訪れた別邸に想いを馳せていた。母が暮らし息を引き取った屋敷には、今はシグディースがいる。故人となった兄ヴィシェマールから位を奪った日、ロスティヴォロドが自ら彼女を運んだのだ。
長くろくに部屋から出ない日々を送っていたのに、歴戦の従士たちに混じって行軍などしたからだろう。シグディースの足の裏には幾つもの血豆ができていて、そのほとんどは潰れていた。この状態では歩くどころか立つことすらままならなかっただろう。なのに、自分を殺そうと駆け寄って来たなんて。シグディースはやはり、様々な意味で常軌を逸している。
兄の死を公表し配下の戦士たちの混乱をひとまず治めた後、自ら抱き上げて
念入りに確かめても、足の裏を除けば透き通った肌に傷はなかったから、ロスティヴォロドは思わず安堵の吐息を漏らしてしまった。もっとも、彼女にこれ以上はないという傷を負わせたのは、他ならぬ自分なのだが。
自分の兄と彼女の姉の亡骸が転がる部屋で、シグディースは自らロスティヴォロドに肌を露わにした。だがそれは、彼女の貞操と引きかえにならば命は奪わないと迫ったためだ。あれを同意の証と認識するのは、頭に藁屑が詰まっている阿呆だけだろう。
シグディースはロスティヴォロドに犯されたと認識しているだろうし、ロスティヴォロドもそれを否定はしない。だいたい、たとえ同意があったとしても、多数の男の目の前で初花を無残に散らしたのだ。それだけでも憎悪されて当然である。まして自分は、シグディースの家族全員の仇だ。
十を越える異性の目の前で家族の仇に陵辱された女は、今頃身も世もなく嘆き悲しんでいるかもしれない。選んだ道を後悔しているかもしれない。
折角手に入れた彼女が、別邸近くの川に身投げでもしたら。その可能性が脳裏にちらつくたびにいささかどころではない不安がこみ上げてくるのだが、しばらくは別邸に訪れられそうになかった。兄との戦いで自分の駒となって血と汗を流した者たちへの報償やら、即位の式典やら、ロスティヴォロドには勤めが沢山ある。それに、ある意味どんな務めよりも果たさなければならない義務があった。
未だ首から下げている、かつてリューリヤに贈った琥珀の首飾り。直接身に着けると着けまいとに関わらず、これを所持したままシグディースを抱くというのは、彼女にとっても死んだリューリヤにとっても、不実極まりないだろう。だからいい加減ロスティヴォロドは、この首飾りを手放さなければならない。トラスィニの公邸に置いたままの蜂蜜色の毛髪と一緒に。だが、どのようにこの二つの品を、リューリヤが居た日々を葬ったものか。
配下に命じて、リューリヤの髪とついでに母が仕立ててくれた花嫁衣裳その他諸々の品を、トラスィニまで取りに向かわせてはいる。が、いざ手元に届いた時に意気地なく悩み続けるのは癪だから、今の内にきちんと決めておきたかった。
「ロスティヴォロド」
どんな用があるのかは知らないが、丁度部屋に入って来た従兄ならば、よい方法を思いつけるだろうか。アスコルは昔から、細やかな事柄によく気が付く。彼はいつも、自分が神経質なのではなく、ロスティヴォロドが大ざっぱ過ぎるだけだとぼやいていたが。
「なあ、アスコル。リューリヤは今、どこにいるんだろうな」
問いかけると、あまり気を詰めすぎるなと濁麦酒を差し出してきた従兄は、しばし虚を突かれた顔をした。
「……リューリヤは河で溺れて死んだんだから、
ややして従兄が絞り出した答えは、ロスティヴォロドとしても納得のゆくものだった。水で、もしくは不慮の事故で未婚のまま夭折した娘がなるという水の精霊は、川や湖、池にいるものなのだ。
母が幼いロスティヴォロドに紡いでくれた寝物語が蘇る。水精は歌や踊りで人間を誑かし、水の中に引きこんで溺死させる。だからもし姿を見かけても決して近寄ってはならないと、母は優しく教えてくれたものだった。
イヴォルカ北部での彼女らは、緑もしくは亜麻色の髪を編まずに垂らした、死体さながらに蒼白い肌の、醜く凶悪な精霊だとされている。だがシチェルニフを含む南部では髪の色は変わらねど、美しく可憐な乙女の姿をしていると伝えられていた。
リューリヤもきっと、髪とついでに瞳の色は変わってしまったのだろう。だが、それ以外は在りし日のままで冬は水の中に潜み、夏は樹上で仲間たちと共に歌を歌っているはずだ。垂らした長い髪には、かつてと同じく花冠を飾って。
真の意味ではどこにいるのか突き止めようがないリューリヤに、髪と首飾りを返すには、どうしたら良いか。アスコルのおかげでようやく答えが出せた。
「ありがとうな、アスコル」
「は? いきなりしおらしく礼を言うなんて、一体どうしたんだ? 気持ち悪い」
思い切り引き攣った従兄の顔と声音は、リューリヤに彼女の物を返す際にはこいつも同行させようかという気持ちをいささか薄れさせた。それでもロスティヴォロドは来る日にはアスコルを伴って、母が暮らした別邸の近くを目指すだろう。水精は街ではなく、自然の近くにいるものだから。母の別邸近くの川は澄んで清らかだから、あの川に流せばより早くリューリヤの手元に届くだろう。
形見の品は存外早く届き、兄を斃して十日後には、ロスティヴォロドはアスコルと共に幾度か水遊びをした覚えのある川の辺に立っていた。
「……今更叔母さんの遺品整理でもするつもりなのか?」
傍らの従兄が僅かに眉を寄せているのは、行き先はともかく目的は告げていなかったためだ。しかしアスコルが怪訝そうにしていたのも、ロスティヴォロドが懐から白い布に包んだ包みを取り出すまでだった。
「それ、まさか――」
まるで止めようとしているかのごとく手を伸ばしたアスコルが全て言い終わらぬうちに、きらきらと輝く水面目がけて包みを放る。包みは琥珀の首飾りの鎖で縛っているから、中の髪の束は水の流れに揉まれてもばらばらになりはしないはずだ。
「……どうしてだ?」
「いい加減に、返してやるべきだと思ったからな。こうすりゃきっと、お仲間が届けてくれるさ」
――水精になればどうでもいいことかもしれねえけど、もしもいつまでも髪が一部分だけ短いままだったら可哀そうだろ?
若き大公は腕を組み、かかと豪快に口を開けて、荷の行く先を見据える。対照的に、その従兄たる青年は蒼ざめた顔で膝をつき、波紋も消えた水面を注視していた。
「でも、リューリヤはお前にずっと持っていてもらいたくて、託したのだろうに」
「それもそうかもしれねえけど、将来俺が結婚する女に見つけられて、燃やされちまった――なんてなるよりは、こうした方がいいじゃねえか」
今日はもう一つ他に済ませたい用事があるので、その場から動こうとしない従兄はそのままに、男は近くの樹に繋いでいた馬の手綱を引く。シグディースを置いている館は近いので、わざわざ馬に乗るまでもない。それに、歩きたい気分だったのだ。
「じゃあな。気が済んだら先に戻ってろよ」
「待て」
振り返りもせずに従兄にしばしの別れの挨拶を告げると、尖った囁きが背に突き刺さった。
「お前、一体どこに行くつもりなんだ? 共に出発したというのに俺だけ先に戻ったら、お前の行き先について尋ねられるのは確実だから、教えてくれないと困る」
アスコルの発言は尤もだった。グリンスク大公という座に就いたからには、これまで通りの気軽な身ではいられないと、そろそろ弁えないといけない。
「お袋が棲んでたとこ」
「まさか本当に遺品整理でもするつもりか? そんなの、もうとっくの昔に終わらせただろうに」
「言ってなかったっけか? 今はあそこにお前は大っ嫌いな女を置いてんだよ。そろそろ顔見せに行かねえと、忘れられちまうかもしれねえからな」
口笛混じりの応えに、返事はなかった。距離が離れすぎたために聞こえなかっただけかもしれないが。
未だ懐の中に残っているもう一つの荷を意識しながら、夏の光を浴びた草木を踏みしめる。
「これはこれは、大公様!」
もうすぐ昼食時という事情もあろうが、辿りついた別邸ではシグディースに付けた女奴隷たちが忙しなく働いていた。突然のロスティヴォロドの出現に面を伏せ、身を小さくした彼女らの邪魔をするつもりはないし、用もない。なので、早くシグディースに会うべきだろう。だがその前に、少し彼女の近状について尋ねた方が良いかもしれない。大方、ロスティヴォロドへの憎悪が融けた涙で目を腫らしていたのだろうが。
「そういや、あいつはどうしてたんだ? 大人しくしてたか?」
結果は分かり切っているのに、無駄な真似を。胸中で自嘲しながら、縮こまった女奴隷の中で最も年嵩の女に問いかける。すると返って来たのは、予想を遙かに超える応えであった。
「いいえ、ちっとも。五日前は、大公様の元まで歩いて行こうとしていたので、止めるのが大変でした」
「は?」
「他にも、厨房に忍び込んで包丁を盗もうとしたり、大変活動的に過ごしてらっしゃいましたね」
流石に打ちひしがれているだろうとばかり考えていた――言い換えれば見縊ってもいたシグディースは、復讐を諦めていないのだという。家族の仇であるロスティヴォロドに身を穢されても、なお。
「あの方はお眠りになっておいでですがもうすぐ昼食ですし、起こして連れてまいりましょうか?」
そればかりか、敵の手の中に堕ちたというのに、呑気に二度寝を貪れる神経の太さには、いっそ感心しそうになった。流石、ロスティヴォロドが見込んだだけはある。
「いや、いい。それより、あいつが使っているのは、お袋の寝室だよな?」
シグディースへの用事は、彼女と言葉を交わさずとも事足りる。ゆえに男は女奴隷の申し出を断ると、母が息を引き取った部屋に進んだ。花と七竈の彫刻が可愛らしい扉を潜ると、真っ先に視界に飛び込んできたのは、薄いが柔らかそうな紅唇をうっすら開いた美女の寝姿だった。
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