小夜啼鳥 Ⅰ

 雄叫びと共に向かってきた敵目がけて戦斧を投げる。敵は、ロスティヴォロドと対峙する前から疲弊しきっていたのだろう。男は斧の威力を受け止めかね、ぱっくり割れた右肩から赤い滝を迸らせながら崩れ落ちた。

 自分が生まれ育った屋敷が血と臓物と、ついでに排泄物で汚されゆく様を目の当たりにすると、言葉にしがたい感覚が僅かながらこみ上げてくる。が、今優先すべきなのは一向に見つからない兄の隠れ場所の探索であった。兄を発見するためなら、かつて母に与えられていた部屋だろうが祖母の居室だろうが、破壊してしまって構わない。なんせ主はこの世にいないのだから。

 既にグリンスクは掌握したとはいえ、兄の首を落とさない限りは、ロスティヴォロドはおちおち酒も呑めない。万が一兄が大公邸に張り巡らせた包囲の目をかいくぐって脱出し、更にグリンスクの城壁をも越え、イヴォルカの外に出てしまったら。

 さすれば兄は、此度の戦でロスティヴォロドと手を結ばなかった遊牧民なり、西南のシャロミーヤ帝国なりに亡命するだろう。そうして、矢を放っても届かぬ遠い地から、ロスティヴォロドの命を狙い続けるだろう。どころか、自分の物を取り戻すべく、兵を借りてイヴォルカに攻め入るかもしれない。それだけは防がなくてはならなかった。

「――ったく。それにしてもあんのクソ兄貴、一体どこに隠れてやがるんだよ」

 いくら普段から鍛えているとはいえ、数日に渡る行軍に加え、飲まず食わずで兄の軍勢と闘った後では、疲労と苛立ちは刻一刻と抑えがたくなる。ロスティヴォロドも、配下の戦士たちも。まして、自分自身を含め、元々お行儀がよいとはいえない連中の集まりだ。あちこちに意味なく壊された家具の破片やら、人の手足やらが散らばっていた。身ぐるみを剥された亡骸も。

 また、自分の従士か雇った遊牧民かを問わず、生き残った女を襲っている者もいた。彼女らに対しては申し訳ない思いがこみ上げもするが、これもまた約束した報酬の一部である。それに、この殺戮と略奪の宴を無事に切り抜けた女が居たとして、その希少かつ幸運な女は後顧の憂いを断つため皆殺しにする予定である。なので、配下の兵を制止するだけ無意味だろう。そんな偽善では誰も救えはしない。

 いっそのこと、兄に似た死体を見つけて、それを兄として晒してしまおうか。さすればこの探索を終えられる。やっと満足な食事と睡眠を採れる。

 噴き出した汗が滴る毛先が煩わしく、頭を振った直後。ロスティヴォロドの側にいたアスコルが、はっと身構えた。

「どうした?」

「いや、その……」

 邸に突撃する際に逸れたシグディースの声がする。こんなところで、何をやっているのだろう。まさか本当に、姉君を探しているのか。と、アスコルは苦々しく囁いた。

 戦闘の熱狂に呑まれ、しばし存在そのものを忘却していた女もまた、この恐慌を生き延びていたらしい。兄を発見するまでは、シグディースに割いている余裕はない。しかし彼女が他の男に陵辱されるのはともかく、斬り捨てられでもしたら癪だった。

 シグディースはもう、これ以上ふらふらしないように、どこか適当な部屋に閉じ込めておこう。そうして諸々落ち着いてから、彼女をどうするのか考えればよい。

 意思を固めて並みの女よりは低めの、であるがゆえに艶やかな声を辿り、粗末な扉を開けた瞬間。紫紺の瞳に真っ先に飛び込んできたのは、血だまりの中で倒れ臥す兄ヴィシェマールの姿だった。次いでこんな状況だというのに、魅入られずにはいられない美貌の女が。

 透き通る雪膚と星の輝きを放つ金の短髪を黒ずんだ血で汚した女は――シグディースは、深い青の瞳に涙を溜めて、みすぼらしい風采の女を抱きしめていた。ロスティヴォロド達には背を向けているとはいえ、重症を負っているのは明らかな女を。瀕死の女はフリムリーズ姫なのだろう。シグディースがその死を嘆く存在は、彼女以外はもうこの世にいないはずだ。

 フリムリーズは妹や従姉ほどではないとはいえ、元々はそれなり以上の容貌に恵まれていた。だのに、この三年の間になんと変わり果てたことか。彼女を掻き抱くシグディースが麗しいだけに、フリムリーズの無残さが際立っていた。もっともそれは、風の噂で伝え聞いた、故人となった長兄が彼女に加えた罰のせいなのだろうが。

 ごく普通の神経の女ならば、一日で自害してもおかしくはない責苦。地獄の日々をフリムリーズが生き抜いたのは、長兄に復讐するためなのだろう。そしてついに彼女は、我が命と引きかえにしてまで宿願を見事果たした。それは、血の海に沈んでいる短剣からも明らかだった。

 ロスティヴォロドはフリムリーズ姫を、外見も中身もつまらない女だと認識していたが、長兄を殺してくれたのはありがたかった。その礼にはならないが、どんなに手を尽してもいずれ事切れるのは明らかな彼女の苦痛を、一瞬でも早く終わらせてやろう。

 この距離だから外れはないだろう。さして狙いもせずに放った矢は、折れんばかりに細い背の真ん中に命中した。

「お前ら、見てたか? 丁度真ん中に命中しただろ!」

 呻き声も立てずに絶命した姉を裂けんばかりに瞠った目で注視していた娘は、ようやくその花顔をロスティヴォロドに向けてくれた。

「よお、久しぶりだな」

 自分は彼女を覚えているが、彼女は自分を忘れてしまっていてもおかしくはない。

「三年振り、だったか?」

 亡骸を抱えて固まるシグディースの記憶を刺激するためにも、あの日から片時も離さず服の下に身に着けていた琥珀を摘まみ、矢車菊の青の瞳の前に曝け出す。するとようやく、娘は氷と化していた手足を叱咤した。

 姉の身体をそっと横たえた女は、琥珀の首飾りと引きかえにロスティヴォロドが与えた短剣を鞘から抜いた。彼女はずっとあの短剣を肌身離さず持っていたのだ。そう意識した途端、頬が少し緩みそうになった。

 獣じみた咆哮を轟かせてこちらに突進してくる女を屠るのは、ロスティヴォロドにとっては呼吸と同程度に行える児戯だった。

 決意だけは買ってやってもよいが、シグディースはてんで武器の扱いに慣れていない。さして足が速いわけでもない。その上激高する余り頭に全身の血を上がらせた女よりかは、野良犬の方がまだしも警戒に価するだろう。犬に噛まれると病になって死ぬこともある。

 戦闘の最中は良くあることだが、シグディースは怒りのあまり周囲がろくに見えなくなっていたのだろう。ロスティヴォロドが彼女の腹部目がけて、鞘に収めたままとはいえ剣を振るったというのに、反応一つ示さなかったのだから。

 攻撃を回避し損ねったシグディースは、呆気なく身体の均衡を崩した。しかも彼女の足元には丁度、ヴィシェマールの物だろう剣が転がっていたから、後はもうお察しである。

 居合わせた従士たちと共に倒れ伏した女を笑い者にしながら、男の恰好をしているがゆえ、その細さしなやかさが際立つ肢体に圧し掛かる。

 乱れた吐息がかかるほど近くで確かめた面は、思わず見惚れてしまうほど麗しかった。革鎧を外した胸部は未だ布に押さえつけられているが、確かな丸みを伝えてきて。紅唇から漏れる呻きも、合間に混じる高慢そうな響きゆえ、背筋が痺れそうなほど艶っぽい。だが今ロスティヴォロドの下にいる女は容姿に反して、姉とはまた違う種類の馬鹿なのだろう。でなければ、鎖帷子を纏ったロスティヴォロドの心臓を狙いはしないはずだ。

 付ける薬がない馬鹿でも、自分が危機に置かれている状況ぐらいは察せたのか。己が舌を歯で噛み切らんとした女の口に、ロスティヴォロドは慌てて指を突っ込んだ。

「お楽しみはこれからなんだぜ? だから、まあ気長に待ってろよ」

 苦痛に歪み、溢れ出た唾液で汚れた白い顔はそれでも美しい。しかしロスティヴォロドが真実を明らかにすれば、滲む怒りはたちまち絶望に取って代わられるはずだ。

 この三年全幅の信頼を寄せていたはずのアスコルに、裏切られていたのだ。シグディースは悲嘆するがあまり、もう一度舌を噛みきらんとするだろう。もしくは、ロスティヴォロドに殺してくれと懇願してくるのだろう。

 となればロスティヴォロドのこの三年は、全くの無駄に終わることになる。が、それはそれで構わなかった。ロスティヴォロドが生かしたとはいえ、シグディースの生は彼女だけのものだ。終わらせるも続けるも、彼女が決めればいい。

 それに自分が彼女を殺さなかった理由は、決して高潔なものではない。今になってやっと理解できた。ロスティヴォロドは、このリューリヤによく似た女に、どんな苦境に立たされても己の足で立ち続けてほしかったのだ。そしてできることならば、愚かながら懸命に足掻くさまを、近くで眺めていたかった。

 だがロスティヴォロドには、己の願望をシグディースに押し付ける権利はない。第一そんなことをしても少しも面白くない。ロスティヴォロドは、シグディースが完全なる彼女の意思でもって下す選択を知りたいのだから。それに、朧ながら既に覚悟はしていたではないか。いくらシグディースとて、真実を付きつければより楽な道を選ぶだろうと。それこそが普通なのだと。

「おーい、早くこっち来いよ!」

 しかしシグディースは、ロスティヴォロドが自嘲の溜息を噛み殺してアスコルを呼び真実を詳らかにしても、絶望に瞳を翳らせはしなかった。むしろ、双眸を一層激しく燃え上がらせていった。青玉のごとく煌めく瞳はしおらしく涙を流しも、殺してくれと懇願しもしない。

 もしやこの女、この期に及んで姫としての誇りとやらに拘っているのだろうか。そんなものは、もう何の役にも立たないのに。

 彼女が秘めたる願望を素直に表せるようにと、豊かに実った胸を露わにし揉みしだき、肌理細やかな内腿に触れる。するとシグディースは当然ながら、これから陵辱されるのだと全身を戦慄かせだした。が、それでも楽にしてくれと願いはしなくて。

 炎のごとく燃える瞳は、ロスティヴォロドを真っ直ぐにねめつけていた。これ以上私に触れたら殺すと言わんばかりに。見かけによらず、なんて強情な女なのだろう。

「そうだ。俺を楽しませた褒美に、お前に選択肢をくれてやってもいいかもしれないな」

 呆れとも敬服ともつかない感情を口元に刷きながら、青年はとどめの言葉を口にする。

「一つは、今ここで清い身体のまま俺に殺される。もう一つは、この場で俺の女になって生き延びる。一体どっちがいい?」

 流石にここまで追い詰めれば、いかなシグディースとて、ならば殺せと願うはず。そしたら一思いに胸を突いて、ロスティヴォロドが屠った彼女の家族が待つ国へ送ってやろう。

 幽かな期待に脈打つ鼓動を意識しながらも男は剣に手を伸ばす。けれども眼前で唇を噛みしめる女は、男が半ば確信した言葉を紡ぎはしなかった。

「いいか? これから俺が三つ数える間に決めろよ。じゃねえと、俺や今この部屋に居る奴らだけじゃなく、俺の従士全員にマワさせてから殺すからな」

 流石にこれは酷すぎるかと、ロスティヴォロド自身も認める選択肢を突き付けても、シグディースという女は生に執着し迷い続ける。その理由はもしかしたら、イヴォリ人の慣習たる血の復讐のためだけではないかもしれない。だがロスティヴォロドにとっては、シグディースが生を望む理由などどうでも良かった。

「――俺の女になった方が、お前の目的も果たしやすいんじゃねえの?」

 もしかしたらこの女は、本当に頭がいかれているのかもしれない。そんな気狂いならずっと自分の側で、自分と共に生きてくれるかもしれない。一抹の望みが紡がせた囁きが彼女の心に届くとは、男はその実信じていなかった。

「早く、しろ」

 だからロスティヴォロドは、シグディースが自ら襤褸布と化していた衣服を引きちぎった際は、つい困惑してしまったのである。しかし一方で、爆発する歓喜を抑えきれなかった。

 兄の死を知らない従士たちは、未だ兄を探して荒れ狂っているだろう。館の外では、大公が代わった混乱に乗じた乱暴狼藉が行われていてもおかしくはない。兄から位を奪った自分には、種々の暴動を治める義務がある。だが、目の前の女を今すぐ自分の物にしたい。彼女を抱きたいという欲望を抑えられなかった。

 滾る熱狂のままに華奢な身体を抱き穿っている間、シグディースは破瓜の痛みのために叫びはしても、涙を流しはしなかった。ただただ、いつか殺してやると言わんばかりの瞳で、自分を犯しているロスティヴォロドを睨みつけていた。その強い眼差しは一層熱情を煽り、ふと気づくとシグディースは疲労のあまり意識を失いかけていた。処女であった彼女相手に、やり過ぎたのかもしれない。

 萎えたものを引き抜くと同時に、娘は血飛沫が飛び散った床に崩れ落ちた。張りのある腿は血と精液が入り混じった体液で汚れている。辛うじて意識を保っている女に、男は脱ぎ捨てた己の上衣を被らせた。この白い肌を、できる限り自分以外の男の目に触れさせたくなかったのだ。

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