鳥狩り Ⅱ
ロスティヴォロドがアスコルを介し、シグディースの観察を続けている。あるいはリューリヤへの想いを引きずっている間に、更に二年の歳月が過ぎた。
喜ばしいことに、シグディースはしなやかさと女らしい丸みを兼ね備えた、ロスティヴォロド好みの美女になったらしい。おかげでアスコルは顔を合わせるたびにもう収穫期だぞなどと煩く詰め寄ってくるが、いつか顔を合わせる時が楽しみだった。
結局シグディースは身を隠していた三年の間、ロスティヴォロドがそれも良いかと考えたように、アスコルと恋仲になりはせず。だからと言って、他の男に正体を明かし唆して、家族の仇討ちに協力させようともしなかった。彼女はあんなにも美しいのだから、そうしようとすれば幾らでも協力者を捕まえられただろうに。細身の彼女が自ら剣を振るうよりは、適当な男に代役をさせたほうが宿願も果たしやすいだろうに。つくづく面白い女だった。
公として果たすべき執務の合間。気晴らしに外に出て、麗らかで温かな日差しを浴びながら流れる雲を見上げていると、良く知った声が鼓膜をくすぐった。
「ロスティヴォロド」
アスコルは今日も今日とてどこか思いつめた様子である。
「よ、アスコル。折角いい天気だってのにんなしかめっ面していると、そのうち眉間に皺ができるぞ」
「誰のせいだと思っている」
重苦しいにも程がある溜息は、普段は右から左に受け流している。しかし今日は尋ねたいことがあったので、青年は従兄のやや沈んだ肩にそっと手を置いた。
「まあまあ、んな細けえこたあ気にすんな。それより、お姫様はどうしてる? 俺が前に持たせてやった
「……ああ。喜んで平らげてたよ」
この頃のロスティヴォロドの中では、元お姫様ことシグディースは人馴れしない珍しい動物になっていた。麗しく成長したという彼女を側に置いて観察したいという欲求は日々高まる一方である。だがシグディースを囲うとしても、いかな名目を掲げればよいのだろうか。また、どんな出会いを演出すればよいのだろう。
ロスティヴォロドには、彼女に刃を向けられたとしても死なない自信があった。
琥珀の首飾りと引きかえに与えた短剣すらまともに扱えなさそうな細腕の、しかも三年間ほとんど部屋に引きこもっていたシグディースである。そんな彼女に殺される程度の腕前で、トラスィニの公が務まるものか。トラスィニの公とはつまり、凶暴とも言い換えられる勇猛さと、抜群の弓の腕を誇る遊牧騎馬民の侵攻を阻む砦に他ならないのに。
だが、だからといって自分がごく普通にシグディースに会いに行ったら、ロスティヴォロドの命を狙った彼女が従士に斬り殺されかねない。それではこの三年間が水泡に帰してしまう。またロスティヴォロドは、目下シグディースよりも余程優先すべき事情を抱えてもいた。
三年前の争いの後、シチェルニフはロスティヴォロドの
父はどうも、位はともかく領土は自分たち兄弟に均等に継がせるつもりらしい。されど父の存命中はともかく父亡き後は、兄はロスティヴォロドへの敵愾心を隠さないだろう。そしてロスティヴォロドも、大人しく殺されてやるつもりはない。自分がそうされるぐらいなら、寸毫の躊躇いもなく長兄の胸に刃を突き刺す。
ただ、兄と対決するには相応の準備が必要だ。なので、シャロミーヤ帝国と結んでいた条約に基づき、彼の地に隣接する山岳地帯へと赴いている父には、無事に帰って来てもらいたいものである。大方父は、皇帝からの要請に応えるという名目で心ゆくまで戦場を駆けまわった後、義母の生家の領土で略奪するつもりで向かったのだろうが。実は近頃、義母の不貞に対する義母の実家からの口止め料の支払いが、滞ってきていたのである。もしかしたら父は、帝国に求められれば可能な限り軍を出すという条約そのものも、略奪のために帝国に侵入する口実になるとの考えがあって結んだのかもしれない。
父や父の従士たちが血と汗を流しているだろう異郷は、大陸中部においては概ね中間にある。一方このトラスィニはイヴォルカでは南なれども、彼の地よりも北に位置していた。ましてグリンスクと比すれば、異端の民が蔓延びる地の方がよほど暖かくて過ごしやすいだろう。けれども父は、生まれ育ち、成人してからは自ら先陣に立って守ってきた都への郷愁を募らせているはずだ。
冬ともなれば大地が凍り雪に閉ざされるイヴォルカでは、他の植物よりも燦燦と降り注ぐ陽光を必要とする葡萄は育たない。ゆえにこの地では葡萄酒は高級品とされてきたのだが、その芳醇な味わいを好む者は多かった。かく言うロスティヴォロドや傍らのアスコルもその一人である。
「まあまあ、親父から送られてくるクソババアの実家からの略奪品にいい酒があったら、お前にもくれてやるから」
酒を餌にしてどうにか宥めると、従兄は仏頂面を納めて帰っていった。父は毎年、帝国から搾り取った口止め料を、自分にも分けてくれる。だから今年も何か貰えるだろうと、ロスティヴォロドは期待していた。つまりこの時のロスティヴォロドは、父のつつがない帰還を信じていたのである。これまでもそうだったからという、甘ったるいにも程がある理由で。
「親父が、死んだ?」
だからこそ、命からがらといった体で自分の許に辿りついた、父の従士団に潜り込ませていた配下たちの報告には、耳を疑った。
千の矢を射かけられても平然と聳え立っていそうな堂々たる体躯と、獅子の勇敢さを誇る勇士。宴の場においては誰のものよりも大きな酒杯を一息に干し、自らの身に傷を作って得た金銀財宝を、部下たちに惜しみなく与えてきた豪傑。決して言葉には出さずとも、物心ついてより尊敬し憧憬してきたあの父が、遠い異郷で騙し討ちの末に斃れたとは。
リューリヤに母に祖母。そして父。近しい者の訃報を耳にするのはこれで四度目だが、動揺は今までで一番大きかった。なんせ父の死は、ともすればロスティヴォロド自身の死へと直結する。であるからこそ、いつまでも慌ててはいられない。
「申し訳ございませぬ。我ら皆、大公様の戦死が明らかになるがいなや、ロスティヴォロド様の許へと向かおうとはしたのです。けれども、我ら同様に潜り込んでいたヴィシェマールの手下に襲われてしまいまして……」
遣る方無い思いゆえにか唇を噛みしめる配下たちの数が、道理で少ないわけだ。自分も考え付いた手段を、兄が行わないはずがない。つまりグリンスクはとっくに、ヴィシェマールに掌握されてしまっているのだろう。
「我らが不甲斐ないばかりに、ロスティヴォロド様のお立場どころかお命までも危うくしてしまいました。この手落ち、もはや挽回する術もございませぬ……」
帝国の山岳地帯からトラスィニへの帰路は苛酷を極めただろう。未だ泥で汚れたままの顔を眦から溢れた雫で洗う部下たちを、ロスティヴォロドは責めるつもりはなかった。兄の部下に追われ、途中で命を落としても不思議ではなかった彼らが、ここまで辿り着いてくれただけでもありがたい。父の絶命を兄が寄こしてきた軍勢の訪れによって悟るのとは大違いである。
「他のことは何もしなくていいから、お前たちは身体をいとえ。後で褒美もくれてやるから」
広間に轟く男泣きは、詰めかけた者たちの狂奔の時の始まりの合図でもあった。
既にグリンスク大公を名乗っているだろう異母兄から位を奪わねば、ロスティヴォロドに未来はない。そのためには、ヴィシェマールよりも早く手勢を揃え、戦の準備を整えなければならないのだ。
自分と長兄は、もはやこの世にただ二人だけとなったエレイクの裔である。しかし目に見えもしない血の縁など、ロスティヴォロドにとっても兄にとっても、意味は一切有さなかった。殺さなければ殺される。ただそれだけだ。
イヴォルカの民とは時に刃を交え、時に同じ宴の席に着いてきた遊牧民たち。中でも比較的こちらに友好的で、イヴォルカへの移住や通婚も盛んな一派を通じて、勇猛なること時に魔物にも比せられてきた騎馬民族を雇えたのは幸運だった。
兄の掌中に収められているイヴォルカ北部。その最も北のサリュヴィスクは、父祖の民が初めて降り立った地である。彼の地は歴史を反映してか、イヴォリ人戦士の数が大変多い。祖父の代から既に原住民たるサグルク人の貴族層に同化しつつあった北の戦士たちだが、未だ荒れ狂う灰色の海に研ぎ澄まされた牙を失ってはいないだろう。
同胞の勇士と渡り合うには、長きに渡り敵対してきた遊牧民の武勇が必要だった。彼らを雇うためと従士団への前払いとして、ロスティヴォロドは持てる財産のほぼ全てを差し出したが、少しも惜しくなかった。これから命を失うかもしれないのに、財産を惜しむなど愚昧極まりない。それに、ロスティヴォロドが戦場で果てれば不要になる金だ。自分の死後兄にくれてやるのは癪なので、ぱっと使い切れてむしろ清々しい気分だった。
古くからの部下を労うためと、新たな協力者を歓待するべく開いた大宴会。蔵や家畜小屋を空にする勢いで用意させた料理の伴は、無論持てる中で最上の酒であった。
「おい、アスコル」
豚の丸焼きに被りつきながらも呼ぶと、従兄は静かに近寄って来た。
「ほい、約束の酒。味わって飲めよ」
僅かに残っていた薫り高い紅の液体を、従兄の酒杯に注がせる。アスコルに会うのもこれが最後になるかもしれないから、約束は守っておきたかった。
「この葡萄酒に免じて、もうちっと元お姫様を守ってやってくれ。最低限、死なないようにで構わねえ。いざお前が危なくなったら見捨ててもいいから」
まともに剣を振るえるかも定かではないのに、姉を救うために従士に紛れて戦場に立つと決めた、真っ直ぐだが愚かな女に構っている余裕は今は無い。ロスティヴォロドが彼女にできたことは、アスコルを通じて皮の鎧と一振りの剣を与えただけだった。
イヴォルカの戦士は、高位であれば鎖帷子で身を守る。つまり皮の鎧とはさして上等な装備ではないのだが、暇潰しの玩具にくれてやるほど帷子は安い品ではない。皮では塞ぎきれなかった刃によってシグディースが果てれば残念だが、残念の一言で片づけられる程度であるのもまた事実である。
「……分かった」
静かな目礼を残し、アスコルは元の、伯父の隣へと戻っていった。
翌日ロスティヴォロドは、配下たちと共に栄えある都グリンスクを目指して進軍を開始した。そうして一行は、土と木でもって築かれた城壁が覗こうかという折、とうとう大公ヴィシェマールが放った軍勢と衝突したのである。
ロスティヴォロドのこれほどの接近を赦したということは、兄は存外支配下に置いたはずの民たちを纏めるのに手こずっているのかもしれない。もしくは、戦士たちに払う金を渋ったのだろうか。剣を交える敵兵たちは、どこか熱意に欠けていた。
十分な代金を貰えないのに命を賭けて戦うのは惜しいと、敵は手を抜いたのだろうか。己が率いる兵よりも数で勝る兄の軍を打ち破った青年は、余勢を駆って生まれ育った都を守る城壁を破った。
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