小鳩 Ⅱ

 父の手紙を受け取ってから二日後の夕べ、少年は十二の歳まで暮らした都に到着した。三年離れている間に街並みは多少変化していたが、母が暮らす別邸周辺は時が止まっているかのごとく変わっていない。

「――お袋!」

 焦る気持ちのままに扉を開くと、日々の雑用のために付けられた女奴隷が母の寝室まで案内してくれた。

「……ロスティヴォロド?」

 危篤と聴いていた割には、母の具合は良さそうだった。あくまで最悪の一歩手前と比較しての話だが。かつてはうっすらと薔薇色に輝いていた頬は蒼ざめこけ、一つに纏められた髪は艶を失っている。

「来てくれたのね。……ただ風邪をこじらせただけなのに、なんだか申し訳ないわ。今日は麺麭も焼いてないし」

「……この状況で、麺麭なんて食ってられるかよ」

 寝台から起きようとした母の身体を慌てて支える。触れた背にははっきりと骨が浮いていて、咳き込む口元を抑える手から続く腕は、枯れ枝同然だった。母は一体いつ頃から病に苦しめられていたのだろう。

 女奴隷が持ってきた薬湯をどうにか嚥下すると、母のしつこい咳も治まった。

「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?」

 責めるような口調にならぬよう注意を払いながらも、少年はグリンスクに向かう道中で散々考えた疑問をぶつけた。母の病を知らされたところで、医師ではないロスティヴォロドにできることなど何一つないだろう。けれども、会いに来るだけならいつでもできたのに。まさかロスティヴォロドは、病床の母を放っておくほど冷淡な息子だと思われていたのだろうか。

「だってあなた、トラスィニで頑張ってるんでしょう? それを私なんかが邪魔するわけにはいかないわよ」

 渦巻く危惧と怒りは、穏やかな声と眼差しによってあっけなく鎮められた。母は昔からこんな人間なのだ。

 母は、自分の部族をほとんど滅ぼした祖母やその子である父に懸命に仕えた。ロスティヴォロドという子を間に為したというのに、新たな妃を迎えるから本邸から出ていけと命じられれば、泣き言一つ漏らさずに従った。母の穏やかで無欲な気質にもどかしさを覚えた経験は多々あれども、今この時ほどではなかった。

「それにあなた、すっかり立派になったわ。背が伸びて、声も低くなって……。少し、昔のイシュクヴァルト様を思い出しちゃった」

 俺は親父ほどゴツくはないはずなんだけどな。

 などとたわいのない冗談で母を笑わせたくとも、喉から出てきたのは掠れた吐息だけで。それからロスティヴォロドは母が眠りにつくまで、記憶の中のものよりもずっと、少しでも力を込めればぽきりと折れてしまいそうな手を握っていた。

 珍しく目を伏せた少年は、母が熟睡したのを見計らって寝室から出る。

「ロスティヴォロド様」

 途端彼を呼び止めたのは、頭を垂れた女奴隷であった。

「先程、大公様からの使いの方がお見えになられまして。フィアルーシャ様に関わることで、ロスティヴォロド様にお話があるのだと。客間にお通ししておりますゆえ、ぜひお越しくださいませ」

 諾と告げて勝手知ったる部屋に入ると、覚えがある顔が幾つか並んでいた。父の配下の中でも、高位に属する従士たちが。

「――待たせたな」

 心からの歓迎を表す焼きたての麺麭と塩を。黒麦ライむぎを発酵させて作る微炭酸の濁麦酒クワスで流し込んでいる男達の面もちは、いずれも沈痛だった。

「いえ。我々こそ、母君との大切な時間をお邪魔してしまって申し訳ない」

 本来は豪快な――言い換えればいささか粗野な彼らの、言葉を懸命に選ぶ様子から、少年は嫌でも悟ってしまった。母に残されている時間は、あまり長くはないのだと。

「俺の気分など考えなくてもいい。言うべきことは全て言え」

 食事も睡眠もそっちのけで二日も馬に揺られていたのに、胃の腑は白麺麭から漂う香ばしい匂いに一切反応しない。だが喉の渇きは覚えた少年が目の前に置かれた器の中身を干すのと、男の一人が沈黙を破るのはほぼ同時であった。

「では、まず御母君のことから。真に残念なことですが、フィアルーシャ様は、もう長くはない。現在は持ち直しておりますが、いつ容体が急変してもおかしくはないとの、医師の見立てでございます」

「そうか」

 予想よりも悪い現実を突きつけられても、少年は表面上は平静を保ちつづけた。自分はまだ十五歳の髭も満足に生えていない子供でも、この地を統べる大公の息子で、既にトラスィニという領地を与えられてもいる。公国の運営は叔父や父に付けられた従士たちに任せがちであるとはいえ、家臣たちの前でみだりに動揺した姿を晒してはならない。

「つきましては、ロスティヴォロド様におかれましてはしばらくこの館に逗留して、最期の時を共にお過ごしになられるが良いとの、大公様のお言葉でございます」

 既にトラスィニには使いを出しました故と、暗黙の裡にこの決定への服従を求めてきた男の眼には、何かを探る色があった。

「俺はトラスィニを預かってんだぞ。こうしている間にでも南から遊牧民どもが襲ってきたらどうする?」

「ロスティヴォロド様の従士団だけでも、十分に戦えましょう。フィアルーシャ様の兄であられる伯父君もおられますし、一月ほどでしたらロスティヴォロド様がおらずとも万事恙なく行われるでしょう」

「確かに伯父貴は何でもそつなくこなすし、どこに行ってもやっていけそうな面の皮の厚さしてるけどなあ」

 それでも、たとえ一時の間とはいえ、父に任せられた領地を放りだすような真似をしてよいのだろうか。普段の父や、父の決定にはいつも一枚噛んでいる祖母ならば、絶対に許さないような指図を、本当に父が出したのだろうか。常の父ならば、母の顔を一目見て言葉を交わしたら、すぐに戻れと怒鳴ってきそうなものなのだが。

 ――もしかして俺は、試されてるんだろうか。領地を任せるに足る器に成長しているかどうか、見定めるために。もしくは……。

 秘められた意図を探るあまり返事も忘れていた少年に、壮年の従士はとどめの一言を投げかける。その声音は奇妙なほど優しかった。

「では、はっきり申し上げます。母君とトラスィニ、どちらがロスティヴォロド様をより必要とされているでしょうか?」

 暗に、貴方はまだ公としての務めを満足に果たしていないと告げられたのだ。不快感を覚えなかったと言えば嘘になる。だが、父の従士が吐き出したのは紛れもない真実であったから、反論などできるはずがなかった。確かにロスティヴォロドは、究極的にはトラスィニにいなくともよい存在なのだ。翻って、母にはロスティヴォロドしかいない。

「分かった」

 まだ透き通った響きを残した声を絞り出すと、目前のむさ苦しい面はあからさまにほっと緩んだ。

「けど、俺は本当にここで寝泊まりして良いのか? 一度ぐらいは挨拶ついでに本邸に顔を出した方が良くないか? 下の兄貴のこととかもあるし……」

 母親違いの二人の兄のうち、次兄であるルドマールが落馬して死亡したとの報が届いたのは、半年ほど前のことだった。その際もロスティヴォロドは葬儀に参加するため一時帰郷したのだが、父の憔悴ぶりははっきりと脳裏に焼き付いている。父はあれで結構子煩悩なのだ。

 恐らくは父は今でも、次兄の突然の喪失を引きずっているだろう。上の兄ヴィシェマールも領地であるリャストを預かる身ゆえ、父の側にはいられない。だからこそ、自分が居れば父も幾ばくかは覇気を取り戻すだろうに。

「そ、それは……」

 たじろぐ従士たちの様子から、少年はついに確信を持った。こいつらは絶対俺に何かを隠している。

「――どうした? 吐くべきことはさっさと吐け」

 父譲りの鋭い目で睨みつけていると、先ほどまでとは別の男がおもむろに髭でほとんど隠れた口を開く。

「……そうですね。いずれロスティヴォロド様のお耳に入るでしょうから、今この場でお伝えいたしましょうか。実は、つい先日大公妃様のご懐妊が明らかになりまして。現在、四ヶ月に入ったぐらいなのだと」

「――まじか」

 あの義母とついに成し遂げたとは、父も頑張ったものだ。それも、次兄の死から幾ばくも経たないうちに。それぐらいの気力があるのなら、確かに自分の励ましなど要らないだろう。と、少年が大口を開きかけたまさにその瞬間。

「ですが大公様は、大公妃様がご懐妊されたであろう期間は――いえ、それ以前からずっと、大公妃様と褥を共にしていないのです。なんせルドマール様が死去されたばかりなのですから。ようやく大公妃さまが覚悟を固められても、気分ではないと拒絶されておいでで。その上、フィアルーシャ様の病が重なって意気消沈されていたところ、此度の事態が発覚いたしまして」

 大公邸は、上に下にへの大騒動中でございますゆえ、ロスティヴォロド様もあまりお近づきにならない方が宜しいかと。

 父の従士は、目を泳がせながらも全てを詳らかにした。彼が語ったところが正しいのなら、あの義母は想像以上の馬鹿だったらしい。絶対にばれるに決まっているのに、あの女は欠片も望んでいなかった大公妃という地位どころか、シャロミーヤ帝国の威信に泥を塗る真似をするとは。

 けれども、父には幾分申し訳ないがロスティヴォロドにとっては、義母が仕込んだのが父の胤でなくて助かった。西南の皇帝とも縁続きの母を持つ弟など誕生したら、トラスィニ公という地位も危うくなる。父はあくまで自分たち子に等分に領土を相続させるつもりらしいが、西南の帝国が難色を示せば土地を取り上げられないとも限らないのだから。

「まじか。いやー、面白くなってきたな!」

 少年は母の病状を知らされて以来曇っていた瞳どころか顔全体を輝かせ、すっかり冷めた麺麭に被りつく。なぜだか急に腹が減ってきたのだ。

「親父とババアは何て言ってんだ? 特に、あのババアがこんな話を放っておくわけねえよ。絶対なにか企んでんだろ?」

「ええ。ソーディヤ様は、大公妃さまの不貞を黙秘する代わり、これから毎年口止め料という名目で帝国と大公妃さまの生家から二重に搾り取ってやろうと、大変張り切っておられます」

「そうか。流石ババアだな! 考えることの汚さとえげつなさが段違いだ」

 弟か妹・・・が生まれるだろう五か月後が楽しみである。破顔する少年に釣られたのか。壮年の従士たちもまたぎこちなくも豪快に頬を緩めたのだが、彼らがしばし交わした目くばせに少年は気付けなかった。

「ロスティヴォロド様のおっしゃる通り、大公様とソーディヤ様がおられる限り、イヴォルカは安泰でしょう。しかし、先ほどの御懸念もまた一理ございますゆえ、大公様には一時トラスィニの守りを固めてはと進言いたしましょう」

 ですからどうか、貴方様は母君のことだけを考えてお過ごしください。

 ロスティヴォロドが父の命令に従ったのは、無論母が心配だったからだが、それ以上に慢心していたためだった。散発的な遊牧民の侵入はあれども、父や祖母の尽力の甲斐あって、イヴォルカでは長く平和が保たれてきた。だから不測の事態が起るはずはないと、信じ切っていたのである。

「そうだ! あなた、オルトロクのお姫様との仲はどうなってるの? もう手ぐらい繋いだ?」

 帰郷から丁度一月経った頃には、母は恋に恋する少女のごとく頬を赤らめ、愚にもつかぬ話に熱中できるぐらいには回復した。ロスティヴォロド様がいらっしゃったからでしょうとの、医者の微笑みがくすぐったくてならない。

「ねえ、今度こっちに来る時は、その子も一緒に連れてきて頂戴。わたしもその子に会ってみたいの」

「……分かったよ」

 いいと断ったのに久方ぶりに居室から出た母に見送られ、少年は故郷から領地へと急いだ。

「おーい。戻ったぜ」

 溜っているだろう責務を片付けたら、リューリヤに会いに行こう。幸福そのものの空想をしていた少年は、血相を変えた従兄より耳を疑う大事を知らされる。

「どうか、落ち付いて聴いてくれ」

 ロスティヴォロドが不在の間に、オルトロクは河を挟んだシチェルニフに攻め入られ、陥落した。オルトロク公やその息子たちは陣没。公妃と娘たちは、慰み用の奴隷として売り飛ばすべく捕らえられたが、船で運ばれている最中に隙を突いて入水した。

 自分が母と呑気な世間話をして笑っている間に、リューリヤが死んだ。

「……なんでだよ」

 衝撃の痛みと絶望の重みに耐えかね、その場に崩れ落ちた少年の囁きは血が滲まんばかりに掠れていた。

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