小鳩 Ⅰ

 家どうしの取り決めとはいえ、己の婚約者として現れた同い年の愛らしい少女に、どうして恋心を抱かずにいられようか。リューリヤは誰にでも親切で優しいから、彼女に好意を抱いた者は大勢いただろう。だがそんな輩とは違って、ロスティヴォロドは幸運だった。つまりリューリヤもまた、ロスティヴォロドに好意を抱いてくれたのである。

 オルトロクは自分たちとは別の一族の公を戴いている。なので、そうほいほいと婚約者たる少女に会いに行けるはずがないし、そもそも遠い。それでも月に一度は暇をどうにか捻出して訪ねると、リューリヤはいつも花か太陽と紛う笑顔で出迎えてくれた。

「ロスティヴォロドさま! この花冠、とっても綺麗にできてるでしょう?」

 オルトロクの公邸の庭の、むき出しの地面に二人並んで腰かける。生まれて十四回目の春を迎えてから急に背が伸び、また身体に厚みが出てきた自分と比べると、リューリヤは高価で希少な硝子のごとく繊細だった。

「ロスティヴォロドさまの御髪に合うように、桃色の桜草を集めて編んだんですよ」

 少しでも力を込めて握ったらぽきりと折れてしまいそうな白い指が、癖のある鋼色に伸ばされる。男の自分の頭に花冠が、しかも桃色を中心にしたものが被せられるとなると、心境は複雑だ。しかし拒絶などできなかった。

「桜草だけじゃ寂しいかなと思って、菫と、あと霞草カスミソウを加えたんです」

「う、うん」

 万が一の場合の身代わりとして――髪や瞳の色は違えど、ロスティヴォロドとアスコルはどことなく似ているので――いつも付いて来る従兄は、必至に笑いを噛み殺している。ロスティヴォロドがリューリヤと逢う際、アスコルはいつも邪魔をしてはならぬと自分たちの後ろに控えているのだが、気配で丸わかりだった。

「あ、そうだ。アスコルさまの分も作ってたんです。この蒲公英と勿忘草のがそれ」

 もっとも、アスコルもまた花冠からは逃れられなかったが。リューリヤの満面の笑みを無碍にできる者など、世界中探したっていやしないだろう。

 リューリヤは、オルトロク公の他の子供たちとは異なり、サグルク人の女奴隷から生まれている。しかし周囲の者は皆、穏やかで朗らかな気質ゆえに、彼女を可愛がっていた。大人たちがリューリヤを特に目にかけるのは、生まれてすぐ実母を喪ったという不幸のためなのかもしれなかったが。

 それにリューリヤは、美貌で名高かったという父方の祖母の面差しを受け継いでいるため、二人の異母姉妹よりも美しい。ロスティヴォロドは彼女の麗しい横顔を眺めながら、鈴の音めいた高く澄んだ響きに耳を傾けるのが好きだった。相槌を打ちはしたものの、話の内容はなんでも良かった。ただリューリヤの声に耳をくすぐられるだけで、胸が暖かくなったのだ。


 ロスティヴォロドが十五歳にもなると、護衛兼監視役たるアスコルは気を利かせてか、逢瀬の間は自分たちの側を離れがちになった。

「今日は婆やが具入り麺麭ピロシキを焼いてくれたんですよ。みんなで一緒に食べましょう?」

 ロスティヴォロドは伯父から、どんなに勧められてもオルトロク公の屋敷では毒見されていないものを飲食してはならないと言い含められていた。万が一オルトロク公が不仲の兄である西隣のシチェルニフ公と和解し、兄弟で力を合わせてグリンスクを倒さんと目論んだ場合を警戒しての措置である。けれども伯父の忠告なぞ、リューリヤの満面の笑みの前には砂粒ほどの意味も持たなかった。アスコルはどこぞに消えているから、告げ口されはしないだろう。

 差し出された狐色の具入り麺麭を一口齧ると、木苺の甘酸っぱい風味が口いっぱいに広がった。

「お口に合いましたか?」

「うん。美味い」

 ふと気づくと、らしくなく不安そうなリューリヤの唇が、己のそれの近くまで迫っていて。ために少年は危うく麺麭を喉に詰まらせかけた。

「――良かった。実はそれ、わたしもちょっと作るの手伝ってたんです。だから……」

 美味しいって言ってもらえて、嬉しいです。

 か細く呟いたリューリヤが、具の木苺さながら頬を赤らめた途端。厚みを増しつつある胸板の奥は、嚥下したばかりの果物よりも甘酸っぱい感情で満たされた。

「わたしたちが結婚するまでに、もっと色々作れるように頑張りますね。トラスィニにだって料理人は沢山いるでしょうけれど、たまにはわたしが焼いた麺麭を、ロスティヴォロドさまや子供と一緒に食べれたらな、なんて……」

 いつかできるはずの子供に言及するやいなや、リューリヤの顔は、いや耳まで熟れた林檎よりも赤くなった。

「……そ、そう、だな」

 ロスティヴォロドの頬もまた、婚約者と同じかそれ以上に赤らんでいるのだろう。鏡に映して確かめずとも、登る熱が教えてくれた。

 心優しく愛情深い妻と、可愛い子供たちに囲まれた、賑やかな家庭。それこそまさにロスティヴォロドが密かに求めていた未来だった。その夢をリューリヤと共に叶えられる自分は、なんて幸運なのだろう。

 オルトロク公がリューリヤをロスティヴォロドに与えるつもりなったのは、自分たちがともに奴隷の子だからなのだという。オルトロク公の正妻が産んだ娘たちは、ロスティヴォロドにくれてやるには高貴すぎる。またリューリヤの出自は、ロスティヴォロドの兄たちに妻として迎えられるには低すぎるということだ。いささか不愉快な腹案だが、それ故リューリヤと婚約できたのだと考えると、感謝の念すら沸き起こってくる。

 少年と少女はしばし無言で晴れ渡った空を仰いでいたが、並んだ面は緑の香気が融け込んだ微風に冷やされても赤らんだままだった。蒼穹に灰色の翼を広げているつがいの鳥は鳩だろうか。よくよく目を凝らせば、嘴の先に巣の材料にするらしき小枝を咥えている。

「……わたしたちも、早くあんな風になりたいですね」

 睦まじい鳥の夫婦の様子に見入っていたのは、ロスティヴォロドだけではなかったらしい。ようやく頬の赤みも引いてきた少女の笑みは、風に舞う綿毛よりも儚かった。

「そしたらルーヤは死んだ後、家族と別の所に逝くことになるかもしれないけど、いいのか?」

「そこにロスティヴォロド様がいて下さるなら、構いません。……実を言えば、わたしを産んでくれたお母さまには会ってみたいけれど」

 リューリヤ及びその家族は、未だイヴォリ人やサグルク人の神々を信仰している。天主正教徒のロスティヴォロドの妻となるのなら、リューリヤは改宗を余儀なくされるだろう。自分たちの結婚までにオルトロク公が改宗してくれればよいのだが、従士団や配下の諸族の反対が強いらしい。支配者といえども、部族集会たる民会ヴェーチェの決定に逆らうのは難しいのは、公とはもともと選挙で決められた部族の長を指すにすぎなかった、イヴォルカの歴史ゆえだった。

「……わたしたちの結婚式には、沢山お客を呼びましょうね。お屋敷に入り切らないぐらいに」

「当然だろ」

「そしたら、その時には、シチェルニフの伯父さまたちも呼んでいいですか?」

 父親とは不仲のシチェルニフ公一家について、リューリヤが言及したのはこれが初めてだった。けれども彼女はかねてから、親族同士で争い合っている状況を愁いていた節がある。

「……元はといえば、お父さまが悪いんです。亡くなられたお祖父さまが開いた宴で、酔った勢いで伯父さまの友人に斬りつけて死なせてしまって。お父さまたちは元々仲が良くなかったけれど、それが切っ掛けでどんどんこじれてしまったそうで」

 まだ自分が生まれる前の父親の狼藉にすら心を痛めるリューリヤは、異教徒ながら天主正教の宣教師が語る聖女を彷彿とさせた。

「亡くなられた方はお祖父さまとも親交ある方の親族だったから、お祖父さまもお怒りになって。後悔したお父さまがどんなに頼んでも、お祖父さまは伯父さまに取り次いでくださらなかったそうなんです。でも、」

 木漏れ日を浴びた波打つ蜂蜜色は甘やかに――琥珀のごとく艶めく。

「わたしたちの結婚式に招待すれば、流石に伯父さまたちだって来てくださるでしょう? なんてったって、グリンスク大公さまの御子息であるロスティヴォロドさまの結婚式なんですもの。そして、その場でわたしが心を込めて謝罪すれば……」

 ――そしたらきっと伯父さまもお父さまを赦して、イヴォルカの発展のために力を合わせてくれますよね?

 西南の帝国より伝えられた聖像画イコンの、眩い金色の背景。長く向き合っていると目が眩む輝きよりも優しい光に縁どられた白い貌は、いつまでも眺めていたいぐらい可憐で。しかし、どことなく沈んでいるようであった。だからロスティヴォロドは、もう随分前に手に入れていながら、長く渡す決心を固められなかった装飾品を取り出してしまったのだろう。

「ロスティヴォロドさま?」

 光に透かせばリューリヤの髪そのもの輝きを放つからこそ選んだ、琥珀の首飾り。父祖の民の間では太陽の石として尊ばれる宝玉を差し出すと、淡い青の瞳は皿さながらに丸くなった。

「もしかして、これをわたしに?」

 けれども驚きはたちまち歓喜に融けていって。年相応の顔に戻ったリューリヤは、はしゃぎながら首飾りを付けてくれた。

「似合いますか?」

 まろやかに膨らんだ胸の、丁度心臓の真上辺りに収まった一顆は、北の海岸に打ち上げられた貴石の中でも最高の質を誇るものである。それを囲む黄金の細工もまた、シャロミーヤ渡りの細工師が手掛けた一級品のはずだ。であるのに、琥珀が散らす光はリューリヤの笑顔の足元にも及ばなかった。

「もちろん。……だけど、もっと高いやつにすれば良かったな」

 羞恥に遮られながらも心に沸き起こったままの想いを伝えると、目の前の少女の面はつい先ほどよりもなお一層赤くなった。

「でも、わたしはこれが好きです。そうだ! わたし、結婚式ではこれを付けますね」

 ――だって、ロスティヴォロドさまが初めてわたしに選んでくれた、記念の品ですもの。

 ふと気づくと、この上なく幸福そうに微笑む少女の花の顔が、互いの息吹を感じられるほど近くに迫っていた。澄み切った瞳は切なげに自分を見上げている。ロスティヴォロドは、リューリヤが何を求めているのか理解できた。なぜなら、ロスティヴォロドもまた同じものを求めていたから。

 細い顎を掴んで、花弁のごとく繊細な唇と己の唇を重ねる。ただ軽く触れ合うだけの接吻だったが、想いを交わすには十分だった。

「じゃ、じゃあ、俺はもう行くな」

「え、ええ」

 唇と身体を離した瞬間溢れだした羞恥心に駆られ、少年は犬に追われる狐となって駆けだす。

「遅かったな」

 今日の寝所に指定されたオルトロク公邸の別棟では、従兄が待ちくたびれていた。ここからトラスィニの公邸まではどんなに馬を飛ばしても半日以上はかかる。そのため、リューリヤに会った後はオルトロク公に部屋を借り、明け方に出発するのがいつの間にかお決まりになっていたのだ。

「そうだ。何があったか知らんが、父上たちが来る前に少しは顔を引き締めておいた方がいいぞ」

 伯父や従士たちとの待ち合わせの場所に到着する間際。常になく明るい様子で忠告してきたアスコルは、あからさまに楽しんでいた。伯父に捨てられた実母が自死して以来、どことなく暗い目をしているアスコルだからこそ、笑みを向けられるといつも驚いてしまう。

「は?」

「さっきからお前の顔は見るに堪えない。鼻の下を伸ばし過ぎだ。俺の父辺りに見られたら間違いなく面倒なことになる」

 確かにロスティヴォロドは、リューリヤと別れてからずっと、次からどういう顔をして会えばいいのかとかばかり考えてはいた。だが、そんなに無様な面構えになっているのだろうか。

 俺、お袋にも似てるから、上の兄貴とかに比べりゃいい線いってるつもりだったんだけどな。

 再びとりとめもない思考を巡らせる少年だが、幸福な悩みに耽っていられたのは、自分の屋敷に戻るまでのことだった。

「ああ、戻ってこられたのですね!」

 血相を変えた従士の一人は、焦りではない感情で――憐れみで眼を曇らせながら、ロスティヴォロドに詰め寄ってきて。

「グリンスクの御父君より、昨日このような文が届きまして」

 フィアルーシャが病にかかり、危篤になった。お前に会いたがっているからすぐに戻って来い。

 広げた掌に押し付けられた一葉には、父の筆跡で受け入れがたい事実が記されていた。

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