雲雀 Ⅱ

 馬を飛ばせば一刻で辿りつけるとはいえ、母に与えられた別邸は幼子が頻繁に訪れるには遠すぎた。しかも新たな大公妃は、一部を除いたイヴォルカの民の熱狂をたちまち氷よりも冷たくした、高慢極まりない女だったのである。

 義母は石造りの壮麗な宮殿で生まれ育ったという。その義母にとっては、いかな壮大なものでも木材でもって建てられたイヴォルカの街並みは、鳩小屋の群れと同じだろう。だが、それをわざわざ口に出さずとも良いではないか。ロスティヴォロドは、煌びやかに着飾っているがゆえに腹立たしさがいや増す女と顔を合わせるたび、内心で義母を非難せずにはいられなかった。

 しかもこの女、幼いロスティヴォロドは詳細は知らないが、大切なものだという「夫婦の務め」すら、婚礼から半年以上も拒絶し通したのである。父イシュクヴァルトが七日に一度別邸に通っているのは不貞であり、不実な夫を敬う必要などありはしないと。ロスティヴォロドを母に逢わせるためという名目に自分は騙されはしないと、息巻いて。

 父の従士たちは、母と会っているのはロスティヴォロドだけで、父はその間ずっと外で待っているのだと語彙の限りを尽くした。それでも義母の態度は頑ななままで。

「――相分かった。近くロスティヴォロドには馬術を習わせ、俺はもう、あれの許へは金輪際訪れぬようにしよう。ただし、」

 父の溜息混じりの降参は、幼い少年の胸を僅かに締め付けた。たとえ扉越しとはいえ、父母は言葉を交わすのを楽しみにしているのだと、気付いていたから。

「俺が今までの行状を改めるならば、お前も大公妃に相応しく振る舞うと約束してくれるのだろうな?」

「結婚した程度でシャロミーヤ皇室の流れを汲むこの私と対等な口を利くどころか、指図してくるなんて。流石、田舎の蛮族。呆れるほどおめでたい頭をしているようですね」

 尊大に腕を組んでいるだろう女は、纏う衣服の質とその身に流れる血統を除けば、何一つ母に勝るところはない。

 滲み出る性根ゆえに、義母の面はいつも歪んでいる。あんな女と世継ぎを作らなければならない大公様が哀れだと、家内奴隷たちに囁かれる程度には。元々の造作はさして悪くはないはずなのに。

「お前はいっそ、件の奴隷女を妻に迎えていれば良かったのです。さすればさぞかし似合いの夫婦となったでしょうに」

「確かに、俺はもう何回もお前を妃に迎えたことを後悔している。今もまさにな」

 異母兄たちの母は凛々しく美しく、何より愛情深い気質の持ち主で、父との夫婦仲も良好だったらしい。であるからこそ父はなおさら、義母の御機嫌取りに疲弊しただろう。あるいは義母は、奴隷たちの囁きから自分がこれまでの夫の女に勝るものは血筋のみだと把握したからこそ、血統に拘泥したのかもしれない。

 何にせよかつての予想通り、義母からロスティヴォロドに吹き付ける風は、異母兄たちから向けられたものよりも遙かに冷たかった。

「あら、こんなところに鼠が一匹。こそこそ隠れて盗み聞きなんて、先が思いやられますこと」

「うっせえなクソババア。てめえのせいで部屋にはいりそびれたんだよ」

「言葉遣いも下劣極まりないわね。でも、無学な奴隷の子だから、仕方ないのかしら?」

 義母は、陰に隠れて言い争いに耳を澄ましていたロスティヴォロドを発見するやいなや、紅を塗った唇を吊り上げた。さながら麦穂を狩る鎌のごとく。ロスティヴォロドは本当は、母の許に行こうと父を誘いたかったのに。

 少年は珍しく肩を落として父の居室の扉から離れた。もう父は別邸に来ないなんて、母にどう説明したらよいのだろう。全てはあのいけ好かない女が悪いと言えばよいのだろうか。

「ロスティヴォロドや」

 母と同じ濃い銀色の髪を掻き毟りながら思案していると、耳慣れた声に呼び止められた。

「……ばばあ」

 義母の輿入れ以来、ずっと暗雲が立ち込めている大公邸。起居する人員は増えたはずなのに賑わいは減じた屋敷において、祖母は唯一以前と変わらぬ朗らかな笑みを湛えている。

「そんなに落ち込んで、一体どうしたんだい? 兄さんたちに虐められたんだったら、あたしが代わりにとっちめてやろうか?」

「いや、そんなんじゃねえけど……」

 けれども老い張りを失った頬に刻まれた皺は、以前よりも深くなっていた。祖母もまた、我が子や我が孫の煩悶に胸を痛めているのだろうか。

「だけど、一つきいていいか、ばばあ」

「おうさ、いいとも」

「大人になってどっかの公になったら、おれもあんな、ツラ見たら殴りたくなってくる女とけっこんしなきゃならねえのかもしれねえのか……?」

 庶子として生を受けたものの、父母や祖母の愛情に包まれて育った少年にとって、有り得るかもしれない未来は酷く気の滅入るものだった。富や名声、権力とは、安らぎと引きかえにしてまで得る価値はあるのだろうか。

「その可能性もあるさね。家どうしの結びつきってのはそんなもんさ」

「えー」

 こういう時はたとえ嘘でも、そんなことはないと否定してくれるのがお約束なのではないだろうか。若くして戦死した祖父によく似ているという唇を尖らせる幼子を、老婆はそっと抱きしめた。

「でもあたしとあんたの祖父さんみたいに、たとえ家の取り決めでも心の底から想い合える夫婦になることもあるだろうよ」

 悪戯っぽく片目を瞑った祖母は、祖父の敵討ちを果たした折には血の河を作ったという、復讐の鬼とはとても信じられなかった。いやもしかしたら、祖母は祖父を愛していたからこそ、雪解けの刻でもないのに地面が泥濘むほどの厳罰をベニャーネ族に科したのかもしれない。

「そうだ。ちょっとあたしの部屋に来な」

 始めて触れた愛の恐ろしい側面に、少年は黙りこくる。ぎゅ、と握りしめられたまだ小さく柔らかな手は、老いて乾いた手にそっと包まれた。

 いつ訪れても、祖母の居室は大公の母が住まうには質素すぎる。いっそ侘しくすらある室内において唯一目を引くのは、蔦もしくは絡み合う蛇を模した彫刻が見事な衣裳櫃であった。この櫃は、木工が得意だったという祖父が手ずから作った品だという。

 イヴォリ人の男は貴族階級といえど、人手が足りなければ自ら家畜に餌をやり、干し草を刈り取る。自分たちの開祖は武芸や戦の技量以外は極めて平凡な自由農民だったそうだから、その息子である祖父が大工仕事に秀いていても不思議はなかった。

「ほら、これをお前のお母さんに持って行っておやり。もちろん、イシュからってことにして」

 衣服よりも思い出が詰まっていそうな櫃の中から祖母が取り出したのは、見たこともないほど煌びやかな布地であった。朝焼けよりも深く、血よりも鮮やかな緋色には、金銀の糸で植物の文様が織り込まれている。

「去年シャロミーヤの使節があたしにって献上してきた布さね。こんなババアが、一張羅を仕立てたところで、見せたい人はもうとっくの昔に死んじまったのに。なーんて思いながらもとっておいて良かったよ」

「……ばばあ」

「愛情ってのは、直接言葉を交わさなくても伝わるもんだ。たとえ野の花の一輪だけでも、愛しい人が自分のために摘んでくれたのなら、何物にも代えがたい宝物になるんだよ」

 敏い祖母は全てを見透かしていたのだろう。初めて触れる絹の手触りは滑らかで頼りなく、抱きしめていないと腕の中からするすると逃げ去ってしまいそうだった。これならきっと、母も喜んでくれるだろう。


「まあ、これを私に?」

 父の苦渋の決断を詳らかにした直後は萎れた花そのものであった母の面は、見事な光沢に照らされるとぱっとほころんだ。

「おふくろ、昔はばばあの服縫ってたんだろ? だから、おふくろが好きなように仕立てればいいって、おやじが」

「……そう」

 小虫の羽ばたき同然の幽かな囁きを絞り出し、母は整った唇を引き結ぶ。怪訝に思って視線を上げると、澄んだ瞳を縁どる長い睫毛が濡れていた。涙は嬉しくても流れるのだとロスティヴォロドに教えてくれたのは、そういえば母だった。

「じゃあな」

 薄い頬を濡らす雫を目撃してしまった気まずさに駆られ、少年はそろそろと席を離れる。

「気を付けて帰るのよ」

「おう」

 扉を出る瞬間ふっと振り返ると、母は未だ双眸を潤ませたままロスティヴォロドを見送ってくれた。次も、その次も、そのまた次も。

 やがてロスティヴォロドは馬術を習得し、独りで母がいる別邸に来訪できるようになった。装飾と彩色が施された扉を開くと、母は縫物をしていた手を止め、暖炉ペチカから焼きたての麺麭を取り出し、振る舞ってくれるのである。

 母は奴隷であった頃、一度も厨房に配置されていない。その母の手料理は、当然大公邸の料理番が拵えるものには劣った。それでもロスティヴォロドは母が捏ねてくれた麺麭が好きだった。自分はいずれこれを食べられなくなると、薄々察していたからこそ。

 ロスティヴォロドの兄たちは、遊牧騎馬民族出の母を持つというのに、遊牧民が蝗のごとく押し寄せる草原に接する南を嫌っている。確かに気候は南部の方が穏やかなのだが、安全と富には代えられないということだ。イヴォルカは北上すればするほど、質が良い毛皮が集められる。

 だからこそ、草原地帯を含み、なおかつ自分たちエレイクの一族ではない公が治める国と隣接するトラスィニは、ロスティヴォロドに押し付けられるだろう。そんな危険な場所に母を連れてはいけない。少なくともロスティヴォロドが成人して、世に勇名を轟かせるようになるまでは。

 固い決意を胸に秘めていたからこそ、ロスティヴォロドは十二歳になってすぐ南に送られると決まっても、狼狽えはしなかった。母方の伯父やその息子アスコル、及び多めに付けられた父の従士団が共にいてくれるのだから。

「なあ、伯父貴。オルトロク公の娘って、いったいどんな奴なんだろうな?」

 少年が唯一不安を覚えるのは、母の兄の献策を受け入れた父の意向により定められた、己の婚約者の人となりだけ。

 自分たち一族よりも先に入植していて、なおかつ父祖が捨て去った故郷で暮らしていた時分から続く系譜を誇る娘。自分よりも余程由緒正しい一族に生まれた婚約者が、どうか義母のような高慢ちきではありませんように。

「あなたがエレイク家のロスティヴォロドさま?」

 祈りにも似た願望を胸に秘め、任地に到着してすぐ会いに行った婚約者は、蜂蜜色の巻き毛に空色の瞳の美しい少女だった。ロスティヴォロドが知る中で最も美しい女だった母も及ばないぐらいに。

「あ、うん」

「わたしはリューリヤと言います。お父さまたちにはルーヤって仇名で呼ばれてますから、ロスティヴォロドさまもそう呼んでください!」

 けれども作り物めいた面に広がった笑顔は、春の日差しのごとく温かで。ロスティヴォロドは一目で彼女に好意を抱いた。

 

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