第二部 彼

雲雀 Ⅰ

 裸も針のごとき葉をつけたものも様々な樹に遮られた、未だ鉛色をした空の向こうから、幾つもの点が近づいて来る。

「ほら、見て」

 黒貂クロテンには及ばぬが、高価な銀狐。その毛皮の外套を纏った幼子は、外套と一つになりそうな鋼色の髪に縁どられた顔を上げて、母の指の先に目を凝らした。

深山烏ミヤマガラスがもう戻ってきているのよ。だから、もうすぐ他の鳥も戻ってくるわ」

 遠目にはただの点でしかない烏は、幼児の父が治める地では、長い冬の終わりの予兆であると信じられている。この鳥の飛来から数日の後に訪れる雲雀こそ、他の四十種類の渡り鳥とともに春を連れてきてくれる使者。雲雀が舞い戻ってくる日が暖かければ、その後一月以上は好天に恵まれる。逆に寒ければ、厳寒を覚悟しなければならないのだと。

「そろそろ中に戻りましょうね」

 柔らかに微笑んで小さな手を細い手で包んでくれた母は、来るべき雲雀の日には、鳥の形をした麺麭パンを焼いてくれるだろう。そしたらロスティヴォロドは、まだ湯気を立てる雲雀を片手に外に飛び出すのだ。そろそろ母親違いの兄たちや他の子供のように、屋根の上で春を呼ぶ歌を歌ってみたい。もっとも、まだ五歳の自分には許可されないだろうが。

「なー、おふくろ」

「もう。私は前から、公子らしい喋り方をしなさいって言ってるでしょ」

「んなことより、おれ、ひばりの日にはクレープブリヌイくいてえんだけど」

 窘める口調とは裏腹に、母の美しい顔は溢れんばかりの愛を湛えていた。杓子で掬えるほど柔らかな発酵させた生地を、牛酪バターで黄金色に焼き上げたクレープブリヌイは太陽の象徴である。古くからこの地で親しまれてきた一品を最初にロスティヴォロドに食べさせてくれたのはもちろん母だった。

「当然、焼いてもらえるわよ。具は何がいいかしら? 厨房の人に頼んで、用意してもらうわ」

「にくー。んで、しおづけのきのこといっしょにくうとうまい」

「あなた、まだこんなに小さいのに、イシュクヴァルト様と同じこと言うのね」

 流石、親子だわ。

 ころころと幸福そのものの笑顔を浮かべた母に釣られ、幼児もまたふっくらとした頬を緩める。母と微笑み合っていると、庭から屋敷の中へ戻るのは一瞬だった。

「おや、ロスティヴォロド。散歩に行っていたのかい?」

 自室へと向かっている途中。耳慣れた嗄れ声に呼び止められ、幼児は癖のある髪をふわりとたなびかせて振り返る。

「ばばあ」

「ちょっと! ソーディヤさまのことはお祖母さまとお呼びしなさいって、前から言ってるでしょう!?」

 髪にはすっかり霜が降りたとはいえ矍鑠かくしゃくとした祖母は、大きな口の端をにんまりと持ち上げた。これまた大きな目は、悪戯を思いついた少年めいた輝きを放っている。

「元気がいいのは良いことさね。イシュクヴァルトもお前ぐらいの年の頃には、外で泥だらけになってたもんだよ」

「ふーん。ま、んなことどうでもいいから、もってたらなにかくいもんくれよ」

 祖父を若くして喪ってから成人した父に実権を譲るまで、祖母は摂政としてこのイヴォルカを守り発展させてきた。女丈夫と名高い祖母を、ロスティヴォロドは密かに尊敬しているのである。表から退いてからはゆうゆうと楽隠居している祖母は、末の孫であるロスティヴォロドを特に可愛がってくれているから、なおさら。

「も、申し訳ございません、ソーディヤ様。この子には後で、地位に相応しい喋り方をきっちりと叩きこみますから……」

 一方母は、破顔する祖母にひたすら平伏していた。母は元々は、ロスティヴォロドの祖父を殺害したために祖母にほとんど殲滅された、ベニャーネ族出身の奴隷である。

 赤子の頃に奴隷とされた母の身体からは、ロスティヴォロドを産んで解放される前の癖が抜けきれていない。ゆえに母は、ロスティヴォロドの腹違いの兄二人や土豪貴族ボヤーレどころか、他の奴隷にまで下げなくてもよい頭を下げ続けるのだ。大公である父からは実質上の妻として扱われているのに。もしかしたら母は、己と兄のみが苦境から脱したことを、他の同胞に対して申し訳なく思っているのかもしれない。

「いいんだよ、フィアルーシャ。あたしがババアなのはれっきとした事実なんだからね。それに、男の子はこれぐらい骨がある方が将来楽しみじゃないか」

「そうだぜ、おふくろ」

 グリンスクの大公位は長兄もしくは次兄が受け継ぎ、末子であり奴隷であった母を持つ自分が、栄えある座に就く日は訪れないだろう。だがロスティヴォロドとて、たとえ父の権勢が及ぶ最果てであろうともどこかの土地と、その地を統治する公の位を貰えるはずだ。さすればロスティヴォロドは、自分の領土に母と、ついでに母の兄である伯父やその息子アスコルを呼び寄せ、一緒に暮らしたいと常々考えていた。

 朧に描く夢がいつ叶うのかは定かではない。しかし、父が死に異母兄の支配下に収まったグリンスクは、母にとっては居心地の良い場所ではないだろう。特に長兄は、自分たちの生母亡き後、入れ替わりのごとく父の妾となった母やその縁者への侮蔑を隠そうともしないので。

 いつかおれが楽させてやるから、まってろよ。

 幼子は裏に固い決意を秘めた笑顔を母に向けたのだが、それを母が理解してくれたかどうか。けれども祖母は、一部の者には鬼婆と恐れられているとは俄かには信じがたい、慈しみ深い目をロスティヴォロドに向けてきた。

「それにね、フィアルーシャ。お前はもう、この子に口の利き方なんて、大して役に立ちやしないものを教えなくてもいいんだよ。んなもんを身に付けさせる暇があったら、少しでも多くイシュクヴァルトと一緒に居た方がいいって、自分でも分かってるだろう?」

「……ええ」

 頭上で飛び交う言葉に隠された意味は、幼児の頭では解しかねた。半年前、エレイクの一族及び高位の従士たち皆で出迎えた、西南のシャロミーヤ帝国からの使節。その中に紛れ込んでいた僧侶に、父がついにイヴォルカの改宗を約束したという意味を計りかねる幼子には。

 あちらの神は一人の男が多くの妻を娶るのも、婚姻関係にない男女が子を儲けるのも、淫らな行いだと禁じているらしい。しかし腹違いの兄たちの母が既に亡い以上、己が母がとうとう大公妃になるのだと、幼子は無邪気に確信していたのである。己を腕に抱いていた母フィアルーシャは、堪えきれぬ悲しみの雫を零していたというのに。

「この子はあたしが部屋まで連れて行くから、イシュクヴァルトの所に行ってやりな」

 ゆえに幼子は、母がはらはらと涙を流し出した理由を察しかね、狼狽えてしまった。祖母が嘆き悲しむ母に寄こす眼差しは、確かな憐れみを含んでいる。

「では、この子をよろしくお願いいたします」

「なんなら朝まで戻ってこなくても構わないんだよ。あたしゃ子守には慣れてるからね」

「……ま、まあ。確かにソーディヤ様は、イシュクヴァルト様がご成人なさるまで、女だてらに摂政を勤めあげた英傑でらっしゃいますものね」

 心配そうにこちらを何度も振り返りながらも、母はロスティヴォロドの許から離れていった。

「お前はこっちで兄さんたちと一緒にお勉強だよ」

「はあーっ!?」

「あっちから天主の祭司が送られてくる前に、ちったあその食うことしか考えてない頭に、教義とやらを詰め込んでおいた方がいいからねえ」

 母の華奢な背が曲がり角の向こうに消えた途端に告げられた苦行に、幼子はまだ短い手足を振り乱して抵抗する。しかし老いたりといえども大柄な祖母に、力で太刀打ちできるはずがなかった。

「さ、終わったらご褒美にお菓子をあげるから、頑張るんだよ」

 半ば引きずられながら勉強部屋に赴くと、既に二人の異母兄と、シャロミーヤ渡りの教師が揃っていた。

「おや若君」

 聖職者なる集団の中でも、相応以上に高い位置に就いているという肩書に見合わず、若々しく整った面立ちの教師。彼は、ロスティヴォロドが来るといつもその端整な面をほんの少し歪める。

 あからさまな侮蔑は、教師が異母兄たちと出くわした際には観察できないものだった。それはきっと兄たちが、異郷の神に誓った――あちらの教義に従えば無効となるとはいえ、正式な夫婦の間に生まれた子供だからなのだろう。なんでもこの教師は、改宗にあたってロスティヴォロドをも嫡子として認めさせんと気炎を上げている父に、幾たびか苦言を呈しもしたらしい。

 何にせよ、面白くない話だった。天主の信徒は皆こうなのかもしれないと考えると、心底面倒になってくる。麗らかに若芽萌ゆる春の盛りに行われる予定だという、改宗の儀式に臨むのが憂鬱になってきた。それにそもそも、この教師の説明はつまらない。

 ――ことしだけは、はるになるのがいやだな。

 つい先刻までは待ちわびていた雲雀の到来の刻すら、今のロスティヴォロドにとっては憂愁の種であった。それでも幼児が辛抱に辛抱を重ね、抑揚を著しく欠いた説明に耳を傾けている間に、三角草みすみそうは鉛色の雲が消え去った空そのものの蕾をほころばせて。雪割草の異名を持つこの花に続けとばかりに、雪解け水により氾濫した河の水が引いた大地は、色鮮やかな絨毯に覆われていった。


 ついに訪れた本当の春の、待ちわびた陽光が燦燦と降り注ぐ穏やかな午後。ロスティヴォロドは父や兄たちと共に、父祖の神々を捨て去った。

「これでもうロスティヴォロドはお前たちと同じ、俺の嫡子だ。二度と奴隷の息子などと囃し立ててはならぬぞ」

 西南との交渉は父に有利な形で纏められたらしい。父は自分の一族や従士団だけでなく、全ての領民を改宗させる見返りに、ロスティヴォロドも自分の正式な子としてあちらに認めさせた。更には、他の――現在ではエレイクの一族ではない支配者は、シチェルニフとオルトロクという二つの地の公しか残っていないが――公国の上に立つ者として自称していた大公という称号をも。更に、シャロミーヤの皇帝の縁戚の女を、新たな大公妃としてもらい受けるという栄誉も。

 大公が、新たな正妻として西南の女を娶る。それは紛れもなく、つい最近まで神を装った悪魔の像に人間の命を捧げていた辺境の蛮族には過ぎたる名誉である。けれども幼児にとっては大きすぎる代償を伴うものであった。富でも力でもこちを凌駕する国から新たな大公妃を迎えるのなら、ロスティヴォロドの母はもう屋敷にはいられない。

「病気や怪我に気を付けてね。側にいられなくなっても、私はずっとあなたやイシュクヴァルト様のことを愛しているわ」

 李の樹が薄紅の涙を散らせる麗らかな日に、母はいつの間にかグリンスク郊外に建てられていた別邸へと移った。普段はうっすら薔薇色をしている頬は、別離の涙で頬を濡れていた。母を見送る幼児の眦も。

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