群飛 Ⅰ

 いつまでも立ち上がろうとしないロスティヴォロドを見下ろすアスコルは、憔悴しきっていた。けれども元より思いつめた顔ばかりの従兄の面立ちの変化に、激怒と絶望に沈む少年が気づけるはずはない。濃紫の眼に映るアスコルは、普段と何一つ変わらない。言い換えれば、リューリヤやその家族の無残な末路を一切悼まぬ人非ずであった。

「……お前ら、一体何やってたんだよ!? どうしてリューリヤたちを助けようとしなかったんだ!?」

 行きどまりに追い詰められた獣さながら立ち上がり、唇を噛みしめる従兄の胸倉を掴む。

 二つ三つとはいえ歳の差があるアスコルとロスティヴォロドでは、腕力はともかく体格においてはアスコルに分がある。だのに黙って自分に締め上げられ殴られる従兄が、ロスティヴォロドは腹立たしくてならなかった。アスコルもまたリューリヤやその家族とは親しい仲だったのに、リューリヤたちを見殺しにしたのだから。

 オルトロクは元々、リューリヤの父が追放処分を受ける際、せめてものお情けとして与えられた土地である。当然、期待されていた後継であるシチェルニフ公の領土とは、広さにおいても豊かさにおいても格段の違いがあった。兵力においても。

 本気になったシチェルニフに攻められれば、オルトロクが敵うはずはなかった。けれどもトラスィニが加勢すれば形勢を逆転できたのかもしれないのに。オルトロク公とて、それを期待してリューリヤと自分を婚約させたのだろうに。

 事を発端まで遡れば、悪いのは間違いなくオルトロク公だ。しかしなぜ、当時は生まれてすらいなかったリューリヤまでもが、無残な最期を遂げなくてはならなかったのか。リューリヤはあんなにも真摯に、親族であるシチェルニフ公一家との仲を修復したいと望んでいたのに。

「ロスティヴォロド様!」

「どうか、落ち付いてください!」

 従士たちは慌ててロスティヴォロドに詰め寄って来たが、彼らの願いを聞き入れるつもりなど毛頭なかった。

「――てめえらもてめえらだ!」

 吠える少年は黙りこくる従兄を床に叩き付け、従士たちに槍めいた糾弾の眼差しを投げる。

「どうして俺に知らせなかった! もしオルトロクが攻められてると知っていたら、俺は例え一騎でも敵に突っ込んだのに!」

 とめどない涙で頬を濡らす少年は、魂から迸る激情を吐き出す。かけるべき慰めの言葉を探しているのか。絶叫の余韻が消え失せた後も黙していた人の輪の中から、ややして一名が怒りに呑まれた少年に近づいてきた。

「……それ故でございます」

 腫れた顔面を鼻血で一層赤くした息子には目もくれず、伯父はロスティヴォロドの前に進み出る。

「ロスティヴォロド様がリューリヤ様と相思相愛の仲であることは、我ら皆が認めるところでございました。それ故に大公様――御父君は、しばしロスティヴォロド様をグリンスクに呼び寄せられたのです」

「は?」

 恭しく跪いた伯父から詳らかにされた真実は、しばし少年の思考と運動を停止させた。父は、オルトロクがシチェルニフに攻められるのを把握した上で、ロスティヴォロドをグリンスクに呼び寄せ、逗留させたのだ。恐らくは母を餌として。

「……つまり、親父も認めてたってことかよ」

 それはつまり、父もまたオルトロクを見捨てると決定していたということだ。道理で、自分の従士も誰一人動かない筈である。

 今にして考えれば、母の病状は良いとは言い難かったが、危篤というほどでもなかった。ロスティヴォロドがグリンスクに滞在している間、実家たる大公邸からそれとなく遠ざけられていたのは、リューリヤたちに迫る危機を耳に入れさせまいとしてなのか。

「どうしてなんだ? あの親父が、盟友を救うためなんて、戦に参加するための絶好の口実を放っておいたなんて、おかしいだろ」

「それが……」

 痛ましげに目を伏せた伯父の語るところによると、二月ほど前に父の屋敷にシチェルニフ公の使者が訪れたのだという。

 金銀宝石に錦の織物。いずれも名工の拵えであると一目で判ぜられる武器。数々の目も眩まんばかりの贈り物を携えてきた使者は、父の足元にうやうやしく跪いて、耳に快い声と言葉で囁いたのだそうだ。

 これより一月の後、我が主は亡き友の恨みをついに晴らす。愚かな弟およびその息子らを根絶やしにし、不名誉な死を遂げた友人の魂を慰めるための贄とする。

 我が主シチェルニフ公の復讐の対象には無論、貴公の御子息の婚約者たる娘も入る。しかし我が主が憎悪するのは、弟と呼ぶのも疎ましい男とその妻子だけ。ロスティヴォロド殿を害するつもりも、エレイクの一族に挑むつもりも毛頭ない。その証に、我が主は長女フリムリーズ姫を貴公の長子ヴィシェマール殿の花嫁にしたいと望んでいる。つきましてはこの品は、婚資の一部としてお受け取りくださいませ、と。

 礼節に適った笑みとともに使者が差し出した貢物を、父は拒絶しなかった。要するに父は、同盟相手をオルトロクからシチェルニフに切り替えたのだ。

 復讐の連鎖によって双方の一族郎党が滅亡することも多々あった、イヴォリ人の血讐は、時に血縁のみならず友誼の有無によっても行われる。篤い友情で結ばれていた友が凶刃に倒れたならば、彼のために刃を振るうのは、故人に捧げられる最高の友愛の証であるとされてきたのだ。

 自分たちイヴォリ人の価値観では、シチェルニフ公の行いはこれぞ勇者の振る舞いよと褒め讃えるべきものである。それは身に染みて理解しているのに、何一つ納得できそうになかった。

 噛みしめた唇と、爪が食い込んだ掌から赤い滴を滴らせるロスティヴォロドの顔を、伯父は不安に眉を曇らせつつ覗きこんでくる。

「ロスティヴォロド様のお気持ちは分かりますとも! ……ロスティヴォロド様は婚約者を亡くされたのですから、フリムリーズ姫はこちらが頂くのが筋というもの。だのにシチェルニフ公めは、フリムリーズ姫はもう諦めるとしても、妹のシグディース姫との縁談話すら持ちかけてこない。あいつはきっと腹の中で、ロスティヴォロド様を奴隷の子だと侮辱しているに違いありません!」

 伯父は、ロスティヴォロドに加えられた無礼・・に対して憤っている。周囲の従士たちにも、伯父に同調する者が多かった。だが、ロスティヴォロドが欲したのはそんな感情ではない。

 ――ロスティヴォロドさま!

 あの純粋で心優しい少女が、あの大輪の花の笑顔が喪われた悲しみを、誰かと分かち合いたかった。でなくとも、枯れるまで涙を流したかった。だがそれは、従士たちが求める公の姿ではない。

 乾いた紫の双眸で見据える配下たちの中には、雪辱を晴らすべしと叫ぶ者もいた。そんな暴挙をグリンスクの父が許すはずないのに。

「てめえら、少し黙れ」

 少年がやや掠れた声を張り上げると、広間はたちまち静まり返った。

「火にくべた栗みてえに弾けるのはいいが、少し冷静になれ。お前たちは、親父の意図を理解しきっていない」

 シチェルニフ公には先程伯父が言及した姫二人の下に、今年で三歳になるという男児がいる。が、この嫡男はあまり体が強くないらしい。長じて丈夫になる可能性もあるものの、この嫡男が成人できるのかと、不安を訴える者もあると聞く。

 もしシチェルニフの民たちの憂慮が現実になれば、彼の公国を継ぐのは長女の未来の夫――つまり異母兄ヴィシェマールとなろう。よしんばシチェルニフ公の息子が無事成人したとしても、毒を盛るなどして闇に葬ればよいのだ。

 父は恐らく、ここまで見越してシチェルニフ公の申し出を快諾したのだろう。あるいは血も汗も流さず利益を得んとする狡猾さを鑑みると、祖母の差し金なのかもしれない。だがいずれにせよ、父の思惑に逆らってはならない。

 ロスティヴォロドが隠された父の真意を詳らかにすると、手負いの獣でもないのに興奮しきっていた輩も得物を鞘に納めた。

「流石、ロスティヴォロド様! 私はかように聡明かつ勇敢な甥を持てて幸せでございます」

 中でも一際瞳を輝かせる伯父は、少し独りになりたいと訴えるまで広間を出たロスティヴォロドの後を付いてきた。

「確かに、グリンスクからここまでの移動でお疲れでございましょう。後で息子に何か飲み物と食べ物を持ってこさせますゆえ、本日はもう休まれてください」

 本当は食事なぞいらなかったのだが、ここで断ると伯父は部屋まで付いてくるかもしれない。

「入るぞ」

 寝台に腰かけ虚空を眺めていると、ややして従兄の落ち着いた声が響いていた。

「ま、まずは何か腹に入れろ。今のお前の顔は酷すぎて見ていられない」

 ロスティヴォロドの拳を受けて流れた鼻血はともかく、殴打の痕跡は拭えはしない。鈍く存在を主張しているだろう痛みも。だのにアスコルは、何でもないような様子で、ロスティヴォロドに湯気を立てる汁物と麺麭を差し出してきた。

「……そんなの、」

「いいから食え」

 アスコルに押し付けられた盆を眺めていると、腹の虫が騒ぎ出した。リューリヤがいなくなったというのに、腹が減るのが不思議でならない。だが、これが人間というものなのだろう。

 普段の倍以上の時間をかけて食事を平らげると、アスコルはまた何かを差し出してきた。ただし今度は、懐から取り出した布の包みを。中を確かめると、蜜色の髪が一房波打っていた。

「つい先日、リューリヤの乳母だったという人がここまで来てな。お前にこれを渡したい一心で、ここまで歩いてきたんだと」

 シチェルニフ公の手の者に捕らえられる前、観念したリューリヤは自ら切った髪の一房を乳母に渡したのだと、アスコルは静かに語った。

 ――どうか形見の品として、ロスティヴォロドさまにこれを届けてほしい。だからあなたは全てが終わるまでどこかに隠れて、生き延びて。

 リューリヤは乳母に遺言を託すと、儚い笑みを残して涙でぼやけた目の前から姿を消した。アスコル自身も件の乳母に、そのように聞いたのだと。

「その乳母という人も、手当を受けてはいるが、酷く衰弱していてな。特に足の傷が酷い。オルトロクからここまで、着の身着のままで歩いてきたのだから当然だが」

 あえて金目の品を――たとえばロスティヴォロドが贈った琥珀の首飾りを託さなかったのは、高価な品だと略奪されてしまうかもしれないからだという。実にリューリヤらしい配慮だった。リューリヤの立場からしたら、婚約までしておいて自分を見捨てたのかと、ロスティヴォロドに憤って当然である。なのに最期までロスティヴォロドを想ってくれたのだ。

「こんなことになりはしたけれど、リューリヤはお前と出会えて幸せだったはずだ」

「……どうしてそんなこと分かるんだよ」

「俺はずっと側でリューリヤとお前を見てたからな。お前と一緒に居る時のリューリヤは、本当に幸せそうだった」

 それだけ言い残して、アスコルは静かに去っていった。蜂蜜色の毛髪を抱きしめ、頬を滝のごとく流れる悲嘆で濡らすロスティヴォロドの醜態を、一切振り返らずに。 

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