雪解け Ⅰ

 長子がサリュヴィスクの公となって早四年。シグディースは行為の後の乱れた髪を櫛で整え緩く編みながら、背で夫が語る近状報告を聴いていた。

 曰く、長子は彼の地で立派に務めを果たしているし、次子は任地の部族の長から結婚話を持ち掛けられているらしい。統治を円滑に行うためにも、在地の有力者とは結びついていた方が得だろう。特に、次子に任せられたイヴォルカ最西端の地は、隣接する森林地帯に未だ邪教を奉じるサグルク人の一派――通称「森の民」が隠れて住まう、大変危険で野蛮な所なので。

 長男はいずれロスティヴォロドの後を継いで大公となる身だから、妻選びは慎重に行わなければならない。けれども次男以下ならば、そこらの部族の長の娘を伴侶としても構わないだろう。もっともあれこれと考えたところで、政治に関わる問題にシグディースの意思が反映されるはずはないのだが。

 編み終えた腰のあたりまで伸びた髪を絹の紐で結んでいると、ふいに低く心地良い声が途切れた。幼子でもあるまいのにこんなに急に眠りに落ちるだろうか。眉を顰めつつ振り返ると、存外に長い睫毛に囲まれた濃紫の瞳が、じっとこちらを見つめていて。

「……なんぞ?」

 覚えがある限りでは、ロスティヴォロドがこんなに真面目な表情をしているのは、片手の指で数えられるぐらいしかなかった。

 ロスティヴォロドは近々また、昨年トラスィニの公とした三男の初陣を済ませるついでに、遊牧民と戦を行う予定ではある。だがこれまで敗北すれども、大公である彼自身が帰還できないほどの酷い負け戦はなかったので、次もきっと大丈夫だろう。なのになぜ、ロスティヴォロドはこんなに思いつめているのか。

「前々から思ってたんだけど、お前男腹だよな」

 漂う神妙な雰囲気に呑まれ、息を殺して待った言葉の内容は、予想からはかけ離れていて。

「あの子たちと、そなたの息子を七人も産んだこの腹に、何か不満があるのかえ?」

「いやな、やっぱり一人ぐらい娘が、それもお前にそっくりな娘がいたら面白かったんじゃないか、と思ってな」

「……馬鹿なことを。女では公になれぬではないか」

 なんと、ロスティヴォロドはやはり娘を欲していたらしい。四男の懐妊が発覚した際のあの言葉は、冗談ではなかったのだ。とはいえシグディースはもう三十六だ。今更また産める可能性は低いし、妊娠の兆しもないので、諦めてもらうしかない。

「でもなー。俺も一度くらい、娘に“大人になったらお父様と結婚する”なんて言われたかったんだよなあ。それに、ガキ共はいずれ全員ここを離れちまうだろ? イジュはいずれ戻ってくるだろうが」

「娘とて、嫁して親元を離れるのは変わりなかろう」

「だから、婿を取らせるんだよ。俺の娘だったら相手は選び放題だろうが」

 いもしない娘についてあれこれと語るロスティヴォロドは心の底から楽しそうだった。つい衣裳櫃にしまいこんだ一着の存在を思い起こしてしまうぐらいに。結局出番が一度もこなかったあの産着は、まだ桃色を保っているだろうか。温かな腕の中で眠りに落ちても、何となく気がかりだった。


 付け根が白い嘴で冬に穴を開け春を齎す深山烏ミヤマガラスは、幾種もの渡り鳥の先陣を切って南から戻ってくる。漆黒の翼の上でこそ、陽光を浴びた雪は星の輝きを放つのだ。

 雌雄で色の違う交喙イスカが、熟れて落ちる前の唐檜トウヒの実を啄みだしてしばらく経つと、ついに雪解けである。未だ白亜に覆われた地面は、流氷混じりの氾濫した川の水に襲われると、人も獣もしばし通行できなくなる。荒れ狂う水は野や草原を浸しながら、低地へと流れるのだ。翼を持たぬ獣の中には、冷たい水から逃れきれぬ者も少なくない。だがカモメ 真鴨マガモの群れは、氷の無くなった水辺へとゆうゆうと飛来する。

 赤い帽子を被った鶴が大きな翼を広げて北へと旅立つ頃になると、蕗蒲公英が次々にほころび出すが、まだ通行は不可能だ。日の光で温められた土壌がついに溶け出したため、舗装されていない道はすべからく泥濘と化してしまうのである。

 上溝桜ウワミズザクラが猫の尾のごとき花から芳しい香りを漂わせ、紫丁香花リラ が負けじと甘く優しい香りを放つ頃。薄紫の花の陰で小夜啼鳥が甘美な歌声を響かせるに至って、大地はようやく長靴に包まれた足や馬の蹄を呑みこまなくなる。ロスティヴォロドが南の草原へと旅立っていったのも、小さく可憐な紫の花だけでなく梨に桜桃、林檎に李のいずれも良く似た花が咲き誇る時分であった。

 ぽっこりとした雲が散らばった蒼穹の下。爽やかな春風は馥郁とした花の香りを、広大や邸宅の前で言葉や抱擁を交わす者たちに届ける。

「あの子のことは任せとけ。たとえ俺が死んでも、あいつだけは生かして帰還させるからな」

 年少の子供たち四人を従えて立つ、若くはないが臈長けていて麗しい大公妃。そのほっそりとした肢体を掻き抱いた大公は、精緻な刺繍が施された布に隠れた耳元で柔らかに囁いた。

 ロスティヴォロドはきっと、三男は俺が守るから心配するなと伝えたかったのだろう。しかし、シグディースが欲しい言葉はそれだけではなかった。

「――ふざけるな。そなたも必ず生きて帰って来ねば赦さぬ」

 ロスティヴォロドはまだ鎖帷子を纏っていないので、抱きつけば彼のぬくもりと筋肉のしなやかさが直に伝わってきた。

「約束を忘れたのかえ?」

 癖のある鋼色は、光に透けると研ぎ澄まされた刃のごとく――夫婦の寝室に置いている、組紐文様の短剣さながらに煌めいた。

 出会ってから約二十年。シグディースは夫が自分を生かした理由を知ってからも幽かに抱き続けていた望みのほとんどを、手放してしまっていた。

 どんなに熱望しても、ロスティヴォロドはシグディースを亡き女の代用品以上には見做さないだろう。ならばやるべきはただ一つ。彼を殺して自分も死ぬ、ただそれだけ。さすれば長きに渡り続いた、誰よりも求める男に抱かれて子を産み育てても融けない氷に苛まれる日々を終わらせられる。そしてそれこそが、シグディースの誇りを最も酷い形で蹂躙し続けたこの男にできる、唯一の復讐なのだ。

 自分を決して見てくれない男のために、別の女の身代わりを文句の一つも言わずに勤め上げるほど、シグディースはできた女ではない。だから、途中で止めてやるのだ。

 四歳から十二歳の息子たちのことは気がかりではある。されど自分たち亡き後長子がサリュヴィスクから戻ってくればなんとかなるだろう。だからシグディースは、ロスティヴォロドがこの戦から戻ってきたら、その晩にでも彼を屠るのだ。

「そなたを殺すのはこの私ぞ?」

 爪先で立ちながら、彼以外の者には届かぬだろう小さな声で囁くと、ロスティヴォロドはなぜだか満面の笑みを浮かべた。

「な、なにを、」

 そして節くれだった長い指で細い顎を掬ったかと思うと、いきなり接吻をしてきたのである。それも、寝所で交わす濃厚なものを。

 シグディースが純潔を捨てたのは、大勢のロスティヴォロドの配下の前でだった。大公妃とされるまでは、見張りとして控える者たちに幾度となく情交の様子を観察されもした。だから今更、公衆の面前でくちづけされたぐらいでは狼狽えはしない。しかし、子供たちの前でとあらば話は別である。

「なあ、兄貴。親父とお袋、一体何やってんの?」

 五番目の息子は、手元に残っている子では最年長の四男に、不思議そうに尋ねた。

「――知らね。後でお袋に訊けば?」

 確実に答えを把握しているだろう四男は、極めて面倒くさそうにすぐ下の弟の疑問に応えた。だが、母を助けるつもりは皆無らしい。敏感な部分を執拗にくすぐる舌先と、臀部から太腿辺りを撫でまわす掌から解放されたのは、頭がぼうと霞んできた頃だった。

「――そ、そなたといううつけは! 何ということをしてくれたのだ!」

 二つの唇を繋ぐ透明な糸は、頬を薄紅に上気させた女が脱兎のごとく夫の側から離れたため、ぷつりと途切れた。

「別にいいじゃねえか、あれぐらい」

 慌てふためくシグディースとは対照的に、かかと破顔するロスティヴォロドは拳の雨を難なく回避し、ひらりと馬に飛び乗った。流石、幾度も凶刃を躱してきただけはある。

「じゃーなー。戻ってきたら続きさせてくれよ」

「誰がさせるか!」

 威厳に欠けるにもほどがある言葉を残して、ロスティヴォロドは南へと旅立った。トラスィニで待つ三男と彼が合流し、草原で遊牧民どもと対峙するまでには、一体どれほどかかるのだろう。

 一口に遊牧民と言い表しているが、彼らには見た目も習俗も言語も様々な者たちっが含まれている。中にはイヴォルカに友好的で、トラスィニを中心に定住しつつある者もいた。そういった輩は妻子や家を守るためにも、こちらと共に戦ってくれるらしい。されど此度の相手を追い払うのは簡単ではいかないだろう。

 ロスティヴォロドの父である先々代の大公イシュクヴァルトの、最初の妻の出身部族。雪豹の裔という大方嘘だろう伝承を受け継ぐ民は、あちらの方がこちらより富が――言い換えれば搾り取りがいがあると気づいたのだろう。彼らは徐々に西南のシャロミーヤの方へと移りつつあった。

 自称雪豹の末裔たちが抜けた穴を埋めるように勃興してきた遊牧民は、イヴォリ人の入植よりも遙か前にサグルク人がこの地から追い払った民と、周辺民族の混血らしい。イヴォリ人の間にはそういった伝承はないが、サグルク人の間では紅蓮の目をしているのは魔物だと信ぜられている。ゆえに、髪色も肌色もサグルク人と大差なけれども鮮血のごとき眼をした者が混じる異民族の侵入は、何としても阻止しなければならないのだ。

 ――天主よ。どうか、ロスティヴォロドをお守りくださいますよう。

 夫の出立の直後から、シグディースは眩い黄金の空間で厳かに、けれども嫋やかに微笑む聖女の聖像画に、日に一度は必ず祈りを捧げた。

 ――あやつが無事に戻ってくるのならば、私は他のものなどいりませぬ。

 錦の衣に包まれた膝を折り、組んだ指が折れんばかりの力を込めて。食事の刻になっても姿を見せぬ大公妃を、奴隷が呼びにくるまで、懸命に。しかし、血が滲まんばかりの願いは聞き届けられなかった。

 小さな紫の花が女の涙のごとくはらはらと散る頃。額に汗を浮かべた奴隷に呼ばれて急いだ広間で茫然と佇んでいた人物は、癖のある濃い銀色の髪に紫紺の双眸をしていたが、ロスティヴォロドではなかった。

「……お袋、ごめん」

 父親と瓜二つではあるが、鬚が疎らにしか生えていない顔を蒼ざめさせた三男は、目に涙を浮かべながら彼の罪を明らかにした。ロスティヴォロドが敵に囲まれた三男を救おうとしている最中、鎖帷子で守られていない手の甲に矢を受けてしまったと。そして、その鏃には毒が塗られていたのだと。

 

 

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