雪解け Ⅱ
夫に向かって放たれた矢に毒が仕込まれていたのは、多くの勇士を従え美々しく武装した、あからさまに高位にある彼を確実に打ち取るためだろう。ために手の甲を掠っただけという、通常ならば既に癒えているはずの傷は未だ治らない。どころか膿み爛れた傷は悪臭を放ち、状態も日ごとに悪くなるばかりなのだという。
それでもロスティヴォロドは負傷した直後は意識も清明で、無事に三男を救い出して卑劣な遊牧民を蹴散らした。だが、だんだんと発熱が酷くなり、数日前からはろくろく言葉も発さない有様らしい。
もってあと十日ほど。駆け込んできた医師が発した一言は、明るいはずの広間を夜よりも暗くした。そう感じたのはシグディースだけだったのかもしれないが。共に南に向かっていた高位の従士一致の判断で、長男と次男の許には既に使者が送られているのだという。父の臨終に間に合うように、急ぎグリンスクに帰還せよと伝えるために。
「……なぜだ?」
なぜあやつが死なねばならぬのだ?
突き付けられた全てを否定すべく絞り出した声は、己の喉から出たものだとは俄かには信じられぬほどひび割れていた。
「俺が油断して……調子に乗って、敵を深追いしようとしたら、いつの間にか囲まれてて。それで、親父は……」
とうとう零れ落ちた涙で濡れた頬の右側に、女は嫋やかな手を叩きつける。
「――おふくろ?」
少年は茫然と、母の怒りを浴びせられた頬を抑えていた。が、今度は左頬から乾いた高い音が響き渡って。
「……ごめん」
三男は悲しみで濡れた目でシグディースを見つめている。おそらく三男は、シグディースに赦してほしかったのだろう。お前が無事で良かったと抱きしめて、慰めてもらえると期待していたのかもしれない。だが、シグディースは我が子を赦せなかった。三男のせいでロスティヴォロドは死にかけているというのに、よくもまあ自分の前におめおめと顔を出せたものだと、憎悪すら覚えてしまって。
――こんなことになるのならこやつなぞ、私がサリュヴィスクの者たちに攫われたあの時、流れてしまえば良かったものを。
引き裂かれたかのごとく軋む胸から、血の巡りに乗って全身に駆け巡った呪詛が伝わったのか。矢車菊の青の双眸でねめつける少年の顔は、蒼を通り越して土気色になったのだが、シグディースの知ったことではなかった。
「大公妃さま!? 一体どちらに行かれるのです!?」
その場に崩れ落ちた公子に背を向けて駆けだした女を、慌てふためいた声が追いかける。しかし女は一切足を止めずに、夫が寝かされているという部屋へと急いだ。
寝台の上を除けば激しく動くなど皆無に等しい生活を、長年送って来たシグディースである。目的の部屋への道の半ばも過ぎていない頃から、肺や脇腹は無数の針を刺されたのかと錯覚するまでに痛んだ。だがそんなものは、報われぬ想いゆえ極寒に囚われた魂の叫びと比すれば、微風に撫でられたに過ぎない。
最後は半ば足を引きずりながら辿りついた部屋の前には、沈痛な面持ちをした兵が二人立ちはだかっていた。重症を負ったロスティヴォロドを、内心では未だエレイクの一族による支配に納得していない諸族からの刺客から守るためのだろう。ならば、大公妃である自分には関係のない措置であるはずだと、衛兵の隣を通り抜けんとしたまさにその瞬間。
「お待ちくださいませ、大公妃さま」
猫の仔か何かのごとく襟首を掴まれてしまったため、シグディースは病床の彼の許に辿り着けなかった。
「な、何をする!?」
駄々をこねる幼子さながらに手足を動かしても、すらりとした肢体を羽交い絞めにする腕は揺るがなくて。一人がシグディースを押さえつけている間に、もう一人はどこぞに向かって走っていた。
「そなたの申した通り、私は大公妃ぞ!」
「それでも大公妃様をお通ししてはならない。それが従士団の決定なのです。……身分ある女性に対して、これ以上手荒な真似をしたくありません。ですからどうか、大人しくなさってください」
申し訳なさそうに唇を噛みしめる衛兵の齢は、長子より五つほど上かという程度。まだ若い彼の位はさほど位の高くないのだろう。ゆえに、高位の者の意思には逆らえない。
シグディースはかつて、何度もロスティヴォロドを殺そうとした。その様子を目にした者たちは、時の流れと共にいずれも高位に上っている。そんな彼らは、ロスティヴォロドが危うくなった途端、前の家族の復讐に燃えていたシグディースの姿を思い起こしたのだろう。だとしたら妻である自分を彼が休む部屋から遠ざけんとしたのも、不思議はなかった。だが、理解はできても納得など到底できない。ロスティヴォロドだけがシグディースの生きる意味なのだ。だのに、彼の死に目にすら立ち会えないなんて。そんな馬鹿があってたまるか。
若い従士の忠告などたちまち忘れ、体力が続くまで暴れていた女は、やがていま一人が引き連れてきた者たちによって居室へと押し込められた。
「臨終の時にはお呼び致しますので」
食事や、身の周りの世話ために女奴隷が入ってくる際すら、入り口に付けられた衛兵が目を光らせている。これでは、抜け出すなど夢のまた夢でしかなかった。
「母上」
ややしてサリュヴィスクから戻り父と面会を済ませた長子によると、ロスティヴォロドはまだ息があるらしい。だから安心してくれと長子は嘯いたが、それは誤魔化しであると見抜けぬシグディースではない。
「イジュスヴァルや」
ゆえに女は、離れている間にすっかり丈高くなった息子に抱き付いた。
「どうか、従士団の輩を説得して、この母をロスティヴォロドの許に行けるように取り計らってくれたも。次の大公であるお前になら、あの者たちもきっと従うであろうから、」
そうして自分と同じ色した瞳を覗き込み、情けに訴えんとしたのだが、長子は一抹の哀しみを秘めた眼差しを返してくるだけで。大公妃であるシグディースに課せられた、不当な拘束は解くよう言い添えると約束してくれたが、それはシグディースが最も欲しい誓いではなかった。
「……母上、一つ約束をしてくださいますか?」
「それは一体、いかなものなのかえ?」
懐柔が足りぬかと、女は広くなった背に回した腕に込めた力を強くする。
「父上がかつて母上に渡したという短剣を私に預けてくださるなら、父上がいる部屋に自由に出入りしてくださって構いません。ですが、それができないというのなら、」
申し訳ないのですが、母上が近づけるのは父上がいる部屋の前までです。
細腕を払いながら青年が押し出すようにゆっくりと発した決定を、女は終いまで紡がせなかった。
「どうしてそなたらは皆そうなのだ!」
三男とは違って赤くなった頬を抑えもせず、長男は久方ぶりに居室の外に出た母を見送る。途中、シグディースは、父を見舞った帰りなのだろう他の子供たちと遭遇した。けれども年少の子は母であるシグディースが悪鬼であるかのごとく遠巻きにし、年長の子は部屋に戻れと繰り返すばかりで。
「ロスティヴォロド! 私だ!」
厚い木の扉に拳を雨あられと打ち付けても、得るのは痛みと徒労ばかりの時は、一体どれほど続いたのだろう。
幼い我が子のいずれかを捕まえて刃を突きつけ、ロスティヴォロドに遭わせなければこの子を殺すと、周囲を脅しつけるしかないのだろうか。
侵入者を拒んで閉ざされた入り口の前で思案していた最中。立っていられるのが不思議なぐらいに憔悴した医者が出てきたその一瞬の間に、狂おしいほどに求めていた声が響いてきた。
「……そこに、シグディースは、俺の妻はいるか?」
負傷する前の雷のごとき力強さをすっかり失ってはいるが、己が名を呼んだのは夫でしかなくて。
「――私はここにおるぞ!」
衛兵に腕を掴まれながらも喉を震わせると、笑い声が幽かながら聞こえてきた。
「ならば、俺の妻を通してやれ。最期に、伝えたいことがある」
「しかし、」
「……これは命令、だ。貴様ら、大公の命に逆らうのか?」
ならば、俺が万が一回復した暁には、どんな罰が待っているのか理解しているのだろうな?
ロスティヴォロドが脅しをかけてようやく、衛兵はシグディースを解放した。やっと入ることのできた一室には、薬草の匂いと、それでも誤魔化せぬ異臭が――膿と肉が腐った臭いが充満している。だがそれがどうしたというのだろう。
「……お前、大分、騒いだだろ? 時々聞こえてたぜ」
白い寝台の上に横たわっているロスティヴォロドには、もはや身を起こす力もないらしい。それでもシグディースが傍らに駆け寄ると、頬はこけ、髭は伸び放題の顔で微笑んでくれた。しかし握った手にはもはやかつての逞しさはない。
「ガキ共から聴いたが、お前、あいつを叩いたそうだな」
「……」
「頼むから、あいつを赦してやってくれ。俺に死なれて、お前には赦されないままだったら、あいつはきっと、一生苦しい」
お前の家族の仇はこうして死ぬんだから、もうそれで良しとしてくれ。シグディースの面をひたと見据える深紫は切々と訴えかけてくるが、頷けそうになかった。
三男が死ねばロスティヴォロドが回復するというのなら。さすればシグディースは、懐に隠した短剣を我が子の胸に迷いなく突き立てただろう。だが、どんなに懸命に祈りを捧げても、奇跡は起こらないのだ。
喋り続けて疲弊したのだろう。次第に言葉少なになったロスティヴォロドは、最後にこう絞り出した。
「布を取ってくれねえか。……最期に一目お前の髪を見て、触ってみたい」
願い通りにし、硬いが冷たくなった指先に青金の髪を掴ませる。すると夫は癖のない毛先に唇を落とし、あからさまに死へと向かいつつある面をぎこちなくもほころばせた。
「……やっぱり、お前は綺麗だな」
そうしてロスティヴォロドは目蓋を降ろした。胸は未だ緩やかに上下しているものの、その動きが永遠に止まってしまう刻は近いだろう。ならばいっそ、どこの誰とも定かではない者が付けた傷に彼を奪われる前に、今度こそ宿願を果たしてしまいたい。
女が隠し持っていた刃の鞘を投げ捨て、震える手で厚い胸に切先を突き付けたまさにその瞬間。
「シグディース」
このまま死へと向かうものと覚悟していた夫が、不意に目を開けた。
ロスティヴォロドはもはや短剣を払いのけられもしないらしい。だから、ほんの少しの力と勇気さえあれば、長い間抱え続けた願いを叶えられるはずだ。なのにシグディースはついに、宿願を果たせないままだった。
「お前を愛している」
なぜなら、幾度となく接吻を交わしてきた唇が、本当に欲しかった言葉を紡いでくれたから。濃紫の瞳は、真っ直ぐに矢車菊の青を覗きこんでいる。鋭さを失いつつあるというのに未だ意思の光を灯す双眸は、真っ直ぐに自分を見つめていた。他でもないシグディースを。
「想像していたのとちと違うが、最期に見るのがお前の顔で良かった」
床にぶつかり音を立てた得物を拾おうともせず、裂けんばかりに双眸を瞠った女に泡沫の笑みを手向け、男は再び目蓋を下ろす。シグディースは彼の吐息がいつ途絶えたのか分からなかった。
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