厳寒 Ⅱ

 ごく淡い紅色の野薔薇が、広大な邸宅の庭を華やがせている。外をはしゃいで駆けまわる子供たちとは異なり、シグディースは可憐な花の陰に鋭い棘を隠した植物には近づかない。高価な絹の服が傷ついたら厭なのだ。それに、目立ってきた下腹部に注意を払わないとならないという事情もある。

 それでも女は緩慢な動作で腰をかがめ、足元の小石を拾った。夏の初めでもごく稀に降りる朝霜に傷んだ繊細な花弁の更に上。生い茂る肝木カンボクの葉の合間で、番いの郭公カッコウが寄り添っている気がしたのだ。

 伴侶と心を通わせ、支え合う。自分がどんなに望んでもできないことを他者がやすやすと成し遂げる様は、ひたすら気に食わなかった。それが鳥であってもだ。ゆえに女はやや膨らんだ腹に手を当てながらも石を投げんとしたのだが、小鳥は理不尽な怒りの的になる前に飛び去ってしまった。

「おふくろーっ!」

 二歳になってから半年以上が過ぎ、よく舌が回るようになった三番目の息子が大声を出したために。灰褐色の翼は、雲一つない蒼穹で羽ばたいている。遙かな上空目がけて石を放とうかとも考えたのだが、流石に我が子の目の前で鳥に八つ当たりをするのは憚られた。

「母上と呼べ。もっと公子らしい喋り方をせぬか」

「べつにいいじゃねえかよ。なにがへるもんじゃねえし。なあ?」

 裳裾を踏んで転ばぬように注意を払いつつ、丸い頬を熟れた林檎にした今のところの末子と、弟にかかと笑いかける次男の許まで歩む。

 五歳にして将来の大公らしい振る舞いを心がけている長男はともかく、その下の子供たちは、どうしてこうも乱雑な喋り方をするのか。子供らが誰に影響されたのかは明らかなのだが、件の人物は、

『俺は親父を父上なんて呼んだことは一度もねえけどな』

 と真面目に取りあってくれない。なので、改善される見込みは無いに等しかった。

「で、いかがした?」

 ともに濃い銀色をした髪に葉を絡ませた子供たちは、大きな目を宝玉さながらに輝かせながら、ふくふくとした指である一点を示した。よくよく見やれば、薄紅の指の先には朝露に洗われた透明な赤が――甘酸っぱい芳香を漂わせる木苺が実っている。

「あれ、食っていい?」

「それは構わぬが、棘があるのだぞ? わざわざ自ら摘まずとも、奴隷に集めさせればよかろうに。それに、木苺なら蜜漬けのものがあるではないか」 

 このやんちゃ坊主たちは一つや二つの引っ掻き傷を拵えたところで、涙ぐみはしないだろう。それでも心配なものは心配なのだ。ゆえに女は手を叩いて端の方に控えている家内奴隷を呼ぼうとしたのだが、幼い叫び声に遮られてしまった。

「いやだ! おれたちは自分でつんだなまのやつを食いたいんだ!」

「あにきのいうとおりだぜ。おふくろはまったくわかってねえなあ」

「……そうか」

 よく考えたら、この子たちは成長したら公として、戦場に立たなければならなくなるのだ。生涯痕が残るほどの傷を負ってもひるまない、勇猛果敢な男にならなければならない息子たちである。幼いうちから少しずつ痛みに耐性を付けさせても良いだろう。

「ならば好きにせよ」

 許可を出す前から繁みに向かって駆けだしていた子供たちに背を向け、女は居室へと向かう。長子の様子を確かめに行こうかとも考えたのだが、司祭を師に勉学に励んでいるはずの息子の邪魔になるだけなのでやめた。

 長男は元々は異教徒であった両親とは異なり、生まれながらの天主正教徒である。そのためか、シャロミーヤ渡りの教師の覚えも大変いい。つまりはよく出来た賢い子なので、放っておいても大丈夫だろう。それにシグディースが今一番気に掛けるべきなのは、胎内の四番目の子なのだ。

 気晴らしの長い散歩から戻り、卓に置いていた針を取る。縫いかけの産着には、意匠化した花や小鳥といった、女児らしい刺繍を施している最中であった。布の色だって桃色を選んでいる。懐妊が発覚した際、息子は既に三人いるからそろそろ娘もほしいなと、ロスティヴォロドが呟いていたから。

 女児用の産着を仕立てたところで、必ず娘が生まれるわけではない。たとえ女を産んだとしても、シグディースが彼に愛されるはずはない。だのに不毛な努力をしていると、自分でも骨身に染みて理解している。だが、やめられないのだ。

 結局自分は、何もかもから逃げているだけなのかもしれない。ロスティヴォロドと一つの寝台で横になって眠っている間、組紐文様の柄を握った夜は幾度となくあった。だのにシグディースは結局、規則的に上下する胸板に刃を沈められないまま。いざ宿願を果たさんとすると、まだ子供たちが幼いからとか、色々な理由を捻り出してしまうのだ。

 シグディースは、ロスティヴォロドに死んだ女ではなく自分を見てほしいと詰め寄って、拒絶されるのが恐ろしい。まして代用品に向けるものとはいえ、春の陽光めいた優しさで自分を包みこんでくれる夫から、憎しみをぶつけられでもしたら。いざその時が来たら、正気ではいられないだろう。なぜなら、シグディースはロスティヴォロドほど強くはないから。過去、そして現在でも自分は、ロスティヴォロドに同じことをしているというのに。

 物思いに耽りながらでも針は進む。産着は完成したのだが、糸を断ち切った途端に胸にこみ上げたのは、達成感ではなくて虚しさであった。この産着はなんとなくだが誰にも知られたくなくて、すぐに自分の衣裳櫃の一番下にしまいこんだのだが、そうして正解だった。なぜなら五か月後の吹雪の日に生まれてきたのは、また男の子だったから。

 この年の冬は特に天候が厳しく、低木をも埋め尽くすまでに雪が降り積もったので、ロスティヴォロドも例年よりも屋敷の中にいがちになる。

「お前に似てるな」

 生まれて一月が経ち、目鼻立ちがはっきりとしてきた四男をあやしながら、ロスティヴォロドは満足そうに微笑んでいた。確かに四男は、いずれも癖のある髪質の上の子たちとは異なり、シグディースと全く同じ、真っ直ぐな金色の髪をしている。顔立ちも子らの中では最も自分に近いだろう。次男はシグディースの弟に似ているが、弟はさほど自分に似ていなかった。姉フリムリーズ同様、弟の面立ちは亡母譲りだったのだ。

「お袋に似て良かったな。お前は将来きっと、そこら中の女を皆泣かせる、とんでもない美男子になるぞ」

「それは、ろくな男ではないのではないか? だいたい、男など力さえあればそれでよいものを」

 いつもの癖で強がってしまったが、ロスティヴォロドが四男を可愛がってくれてよかった。いつかの発言はきっと、ただの冗談だったのだ。そうだ。軍勢を率いて戦場に立ても、公になれもしない娘よりも、息子を産んだ方が喜ばれるに決まっている。満面の笑みを浮かべて我が子を抱く夫の横顔を眺めていると、シグディースは自分の今までは無駄ではなかったのかもしれないと、辛うじてながら縋っていられた。


 私はロスティヴォロドの役に立っている。だから、いつか……。

 聖像画に跪いて捧げた祈りが届いたのだろうか。三十一歳になるまでにシグディースは併せて七人の子を産んだが、そのいずれもが男児であった。だが、ついぞロスティヴォロドに愛されも、彼を殺せもしないままで。

 月日は放たれた矢となって過ぎ去ってゆく。

「父上のご期待に応え、サリュヴィスクの民たちを治めるためならば、非才の身ながら全てを捧げる覚悟です」 

 七番目の子を産んだ翌年には、若木さながらに伸びやかに、豹のごとくしなやかな体躯に成長した長子がサリュヴィスクの公として派遣された。若干十三歳ながら、いつかの盟約通りに。

 そのまた翌年には長子とは年子の次男が、イヴォルカの最西端へと発った。次子は未だ邪教を崇める民が隠れて暮らす、鬱蒼とした森林地帯と接する地の公に任命され、グリンスクを離れる次第となったのである。

「じゃあな、親父にお袋、チビ助共。風邪ひかないように気を付けてろよ」

 年少の子たちは、兄が屋敷からいなくなるたびに涙を流して悲しんでいた。しかし、母であるシグディースには特に思うところはなかった。

 長子も次子も未だ髭も生えぬ若輩者であるが、ロスティヴォロドは十二歳の時には既にトラスィニの公であったのだ。だから、そう早い出立ではないだろう。それに、息子らは父の従士団の一部を引き連れて行ったのだ。熟練の勇士たちは、年少の公のよい助言者となってくれるだろう。

 上二人がいなくなって、少し広くなった大公邸での日々は、特に変わらなかった。昼間はまだ歯も生えない子をあやす傍ら、気が向いたら残りの子らの様子を遠くから眺める。夜は短剣を握り締めてロスティヴォロドの訪れを待つ。

 七番目の子を最後に、シグディースの胎は新たな生命を宿さなくなった。それまでは二、三年に一度の頻度で身籠っていたというのに。だがもう七人も子がいるし、第一自分もロスティヴォロドもよい歳だから、これ以上子を持たずともよいだろう。となると身体を重ねる必要もないように思われるが、シグディースはロスティヴォロドの命を一回狙うたびに、彼に一晩抱かれるという約束をしていた。

「……あまり、見るな」

 度重なる妊娠と出産により、シグディースの身体は変わった。下半身、特に臀部と腿には肉が付いたし、腹部には白い線が幾つも残っている。その上、加齢のために若かりし頃と比較すれば線が崩れているだろう身体を、未だ引き締まった体躯を保っている夫にじろじろと観察されたくはない。

「あ? なんでだよ。前も言ったけど、身体の傷は俺の方が多いんだぜ」

 それでも下腹部に押し付けられていた唇を更に下に落とされると、たちまち蜜を滴らせてしまう己の弱さが、シグディースは心底嫌いだった。逞しいものに穿たれている最中、シグディースは甘く上ずった声を出しながらいつも考える。自分はこれが、ロスティヴォロドの関心がほんの少しでも自分に向けられていると実感できる瞬間が欲しくて、彼の命を狙っている振りをしているだけではないかと。

 もはやシグディースには、ロスティヴォロドがいない人生など想像もできない。だが、彼は違うのだろう。ロスティヴォロドはかねてより、版図の更なる拡大を狙って南の遊牧民と度々戦を起こしていた。そしてその傾向は、長子と次子を公としてから一層強まったのである。子供たちにより多くのものを残したいのだと。

 異母兄との争いを経て彼一人が受け継いだイヴォルカを、子供たちは七等分しなければならなくなる。ゆえに、多少は土地を付け加えていた方がいいのかもしれない。けれどもそれは、ロスティヴォロドがしなければならないことなのだろうか。子供たち自身に、欲しければ力で手に入れさせてはいけないのだろうか。

 結局そなたは、私が身代わりの偽物だと気づいてしまったのではないか? だから、私の側にいるのが嫌になったのであろう?

 などと筋肉で盛り上がった腕で自分をひしと抱きしめて眠る男を詰る勇気は、ついぞ起こせないまま。シグディースはいつしか三十も半ばを越えてしまっていた。

 

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