厳寒 Ⅰ
本格的な冬が始まる前に、シグディースは赤子と共に大公邸に戻った。森も野原も何もかもが白に覆われば移動が困難になってしまう。それだけならばまだしも、自分も赤子も途中で凍死してしまいかねない。
奴隷たちの幾人かはシグディースの姿を見かけるなり、女主人のつつがない帰還をあからさまに残念がった。だが相変わらずの無礼など、もうどうでも良い。
「かあさま!」
数か月離れ離れになっていた子供たちは、満面の笑みを浮かべて真っ直ぐに母の許に駆け寄ってくる。その愛くるしい姿すらも、シグディースの心に張った氷を融かしてはくれなかった。シグディースの魂は吹雪吹き荒れる、常冬の世界に閉じ込められてしまったのだ。なぜロスティヴォロドが自分を生かし、妻にしたのか知ったあの瞬間から。
「赤ちゃんかわいいねえ」
「とうさまにそっくりだあ」
生まれて一月経ち、目鼻立ちが更にはっきりしてきた三男の顔を見るなり言う言葉は、誰でも同じだった。しきりに弟を抱っこしたがる長男と次男だが、まだ三歳と二歳の子供が赤子の重みに耐えられるはずがない。もし落としてしまったら、それが原因で三男が絶命する可能性もある。
というわけで三男は、サリュヴィスクで探した乳母に託した。爪先で立ってまで弟の顔を覗きこまんとする上の子たちの世話をも乳母に押し付け、女は屋敷の更に奥へと歩を進める。
夫婦の寝室に置いている衣裳櫃に隠していた短剣が、誰ぞに持ち去られていないか不安でならなかった。無ければ無いで新しい刃物を調達すればよいだけなのだが、ロスティヴォロドを屠るのはあの短剣でと、前々から決めている。
ロスティヴォロドが七年前のあの日、前の家族の命と引きかえのように自分に与えた一振りは、精緻な細工が施された高価な品ではある。だが、なぜこれほどまでにあの刃に固執してしまうのか。自分自身でも理解できなかった。ロスティヴォロドが初めて自分にくれた品であるという点を除けば、特別なところは一切ないのに。
祈りにも似た気持ちで確かめた櫃の中身は、以前といささかも変わらなかった。無造作に放り込んでいた短剣も、そのままの位置を保ったままで。
安堵のあまりほうと溜息を吐いて冷たい刃を抱きしめると、頭上から耳慣れた声が降ってきた。
「んな顔しなくても、誰も盗みはしねえよ」
サリュヴィスクの混乱を鎮めるなりグリンスクに戻っていた夫とは、これが一月振りの再会になる。慌ただしさを極めていた出産の前後も、二人きりで会う機会など皆無に等しかった。屋敷から連れ去られる以前、彼が貢税をおろそかにした部族の懲罰に行っていた時を合わせると、こうして言葉を交わすのは一体何か月ぶりなのだろう。
「ロスティヴォロド」
貴石が嵌めこまれた鞘を投げ捨てる。組紐文様の柄を握って立ち上がっても、シグディースの心をぐちゃぐちゃに踏みにじる双眸は涼しいままだった。
「――覚悟せよ!」
冷ややかに輝く短剣を振り回しても、ロスティヴォロドは平静そのものだった。それはそうだろう。彼は戦場で、シグディースよりも余程腕が立つ勇士たちと、幾たびも剣を交えてきたのだ。歴戦の勇士を猛虎とすると、シグディースなど多少牙が鋭い子猫程度の力しかあるまい。現に、頼りの一振りをあっさりと取り上げられ、寝台に抑え込まれてしまった。
「一体どうした? えらく情熱的じゃねえか」
乱闘――だと認識しているのはシグディースだけかもしれないが――の最中、髪を家族以外の男の目から隠すために被っていた布は外れ、青みを帯びた金色が滝のごとく真白の敷布の上に広がった。
亡きアスコルの父曰く、ロスティヴォロドが愛したリューリヤは金髪は金髪でも、蜂蜜のごとく甘やかで濃く、なおかつ波打つ毛髪の持ち主だったらしい。とすると今のロスティヴォロドは、愛した女とシグディースの違いに、内心では嫌気が差しているのかもしれなかった。
穴が開くほどに眺めても、端整な面に嫌悪の欠片すらも窺えないのは流石である。四年もシグディースを騙し続けただけはあった。サリュヴィスクの騒動がなければ、もしかしたら一生欺かれたままだったかもしれない。
「……そなたは、」
なぜ私を殺さないのか。愛した女を奪った男の娘の心を弄ぶのはそんなに楽しいのかと、詰ることはできなかった。もう何度も重ね合わせた唇が、己のそれに押し付けられたために。
口腔に無断で入り込んできた不遜な舌はシグディースのものよりも大きくて厚い。柔軟に動く舌先に口蓋をくすぐられると、張りつめていた糸がふっと切れ、切れ上がった眦からは透明な滴が溢れだした。
癖のない毛先を梳く指は節くれだっていて温かい。だから無駄だと、裏切られると分かっているのに、叶うはずのない願いを抱いてしまうのだ。ロスティヴォロドは、人を期待させるのも一流だった。もしくはそれは、シグディースに対してだけなのだろうか。あるいは、シグディースがあまりに弱く愚かだから、性懲りもなく幽かな望みに縋ってしまうのだろうか。
「何か腹立つことがあったのか?」
ロスティヴォロドが自分に何を望んでいるのか、少しも理解できそうになかった。死んだ女の手軽な代用品として抱いて、彼女との間に得られなかった子を産ませたいだけなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに。さすればシグディースは余計な期待を抱かず、余計な苦しみを味わわずに済んだ。
「――そなたには言わぬ!」
「……だったらどうしろって言うんだよ」
溜息混じりの笑い声が細い首筋をくすぐる。シグディースが抱く一番の願いは、ロスティヴォロドの内側にリューリヤが棲んでいる限りは、決して叶えられないだろう。ならばいっそ、一思いに楽にしてほしかった。シグディースには、これまで幾度もロスティヴォロドの命を狙ってきたという実績がある。天主に仕える聖職者どもも、自分の息の根を絶やしたぐらいでは、ロスティヴォロドを咎めはしないだろう。従士団や土豪貴族どもならばなおさらだ。
「いやまあな、お前は怒ると特に美人になるから、かっかしてても俺としては別にいいんだ。だけど産後なんだからしばらく安静にしてないと身体に障るぞ。まして、サリュヴィスクからここまでの長旅の後だろうが」
「――うるさいっ!」
シグディースは物心ついてからずっと、周囲の者に祖母譲りの美貌を讃えられてきた。とめどなく浴びせられてきた賞賛には、かつて公女であり今は大公妃である自分への阿諛追従も多分に混じっていただろうが。それでも数多の者に月花のごとしと褒めたたえられた己の美さも、彼を惹きつけられないのならば路傍の石以下である。
「お前に何かあったら、ガキ共が泣くだろうが」
子供たちが、ということはやはり、ロスティヴォロドはシグディースに万が一があっても哀しみも惜しみもしてくれないのだ。改めて夫にとっての自分の価値を突き付けられると、一度は落ち付いていたはずの激情が再び猛り狂った。これまでの自分の所業を振り返ると、身勝手かつおこがましいにも程があると理解していても、なお。
「そうだなあ。お前はあの馬鹿のせいで、ずっと大変だったもんな」
産んだばかりの三男よりも激しく泣きじゃくるシグディースを、ロスティヴォロドは少しも面倒がらずに慰めてくれた。シグディースの体はまだ完全に回復していないから、情事の相手はできないのに。だがその優しさも所詮別の女に向けたものなのだと考えると、凍り付いた心臓がそのまま砕け散ってしまいそうだった。
大公邸に戻って来て一月と半分の後の、妻としての務めを再開することになった夜。女は寝台に腰かけて夫の訪れを待ちながら、抜身の短剣をひたと注視していた。
結合を果たした瞬間、この鋭い刃を逞しい胸に沈めたら。さすればロスティヴォロドはシグディースのものになってくれるのだろうか。などと蜂蜜よりも甘い夢想に浸っていられたのは、ほんのしばしの間だけで。
顔が似ているだけのシグディースを身代わりに立てるぐらいに、リューリヤを愛しているロスティヴォロドのことだ。ようやく本当の最愛の女の許に逝けると、喜んで事切れるだろう。彼が自分の命を賭けてまでシグディースを側に置く理由も、案外そんなものなのかもしれない。だったら、シグディースはいかな手段を採ればよいのだろう。どうしたら彼はほんの少しでも自分に振り向いてくれるのだろう。
シグディースはものを深く考えるのが苦手だ。だからこれまでほとんど直観だけで生きてきた。だけどこの問題だけは放り出すわけにはいかない。
一体どれほど思考の海の深みに潜っていたのだろう。鈍く痛む蟀谷を抑えていると、不意に後ろからふっくらと豊かに盛り上がった胸の左側を掴まれた。ロスティヴォロドだ。声が聞こえなくとも、シグディースを翻弄する指の硬さや長さで、接した肌から伝わる体温で、立ち上る匂いで彼だと分かる。
「これの出番は、今晩はもう終わりな」
一体いつの間にと囁く間もなく短剣を奪われ、どこぞに放り投げられる。それを妨げる気力など、全て奪われ蕩かされ尽していた。
三人の子を産んで肉付きが良くなった臀部や腿の後ろを撫でまわしていた手が、徐々に前に移動する。乳房の頂は服の上からもはっきり尖っていた。シグディースは精神だけではなくて肉体までも弱くてだらしないのだ。だからきっと淫らな願いを抱いてしまうのだろう。
手際よく服を脱がされ、彼の上に座る体勢で抱きかかえられると、熱くて硬いものが当たった。柔らかな洞にはちきれんばかりに屹立した物をねじ込まれるのはほとんど一年振りなのだが、しとどに滲んでいた蜜のおかげで痛みはない。
貪るかのごとく荒々しく下から突き上げられていると、のけ反った喉からは鳩の鳴き声が漏れた。頭の中は白く焼き尽くされる。厳寒の最中を彷徨うシグディースの魂も、ほれぼれする筋肉に覆われた肉体に抱きしめられ、胎に熱を放たれた最中はぬくもりを感じた。それに、この瞬間だけはロスティヴォロドだって死んだ女に想いを馳せてはいないだろう。
子種を撒かれるその時だけは、シグディースは亡い女からロスティヴォロドを奪える。そう悟ると、ただ一回だけで媾いを終えるのが惜しくなってしまった。
「――疲れなかったか?」
巻貝の耳に唇を寄せて囁いた夫は互いの身体を離さんとしたが、シグディースは体勢を変えて彼に抱き付き、自ら接吻をした。
頭が霞むまで濃密にくちづけを交わしていると、空いた口の端から唾液が零れる。細い顎を伝う液体は、ましろの丘に佇む薄紅の蕾を艶やかに濡らした。ざらりとした鬚の肌触りに酔いしれながらも唇を離す。そうして女は、鮮血のごとく紅い花弁を噛みしめながら、持ち上がった赤黒い茎を再び己の中に招き入れた。
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