氷結 Ⅱ

 異変を悟ったのだろうか。はたと目を覚ました息子がむずがっているのに、小さな身体を揺さぶってあやしてやることすらできない。まるで、腕が――否、全身が凍り付いてしまったかのように。器たる身体ごと氷と化した魂が崖から突き落とされ、千の破片となって砕け散ってしまったかのごとく。

「婚礼の日、初めてお妃様を拝見した時は、私も驚いたものですよ。あんまりにも甥が幸せそうだったので、河に身投げして死んだはずのリューリヤが生きていて、ついに甥と結ばれたのかと錯覚してしまったほどです」

 過去にロスティヴォロドが誰を愛していようが、シグディースの復讐には関係がないはずだ。なのに、生きとし生ける者ならばそれこそ生まれたての赤子でさえ難なく行える呼吸すら、ままならなくなってしまって。

 従姉妹だという女がシグディースと瓜二つだったがゆえ、あの日ロスティヴォロドは自分を殺さず、アスコルという世話役まで付けて生かしたというのなら。ならばその女に、感謝の言葉の一つや二つ述べてもいいぐらいである。だのにシグディースは、リューリヤをこの手で血祭に上げたくてたまらなかった。殺さなくてはならないのではなくて、殺したい。

 リューリヤが現在も生きていれば、一族の名誉を地にめり込ませかねない卑劣な手段を使ってでも、地の果てまで追いかけて肉片に変えてやるのに。けれども既に落命した者を二度屠れはしないのだ。単純明快なこの世の定めが憎らしくてならなかった。

「ご安心なさいませお妃様! 貴女様とリューリヤは顔立ちこそ同じですが、それ以外では何もかもお妃様が上でございます。月や星のごとく清らかに輝く金の御髪と青玉の瞳に、滑らかな雪の膚。このイヴォルカに、過去も現在もお妃様に敵う女などおりますまいよ」

 シグディースは、あからさまな御機嫌取りのおべっかを紡ぐ男の息の根を止めたくて仕方がなかった。他でもない彼がリューリヤとロスティヴォロドを出会わせ、結び付けたのだから。

「それに貴女様は、甥の妃となって、甥の息子を三人もお産みあそばされたではございませんか。もういない、たかだか三年婚約していただけの女との日々など、甥とてとうの昔に忘れてしまっているでしょう」

 この男は、全てを知っているが何も理解していないのだ。愛し合っていた婚約者を無残に奪われたロスティヴォロドが、時を経て最愛のリューリヤと瓜二つだというシグディースを発見した際、どんな顔をしたのか。この男には想像すらできないだろう。

「……そなたが最初の妻を忘れたように、か?」

 なぜならアスコルの父にとっての妻とは、所詮は替えが利く存在でしかないから。いっそロスティヴォロドにとっての恋人も、その程度のものであればよかったのに。

 ロスティヴォロドと出会った当初は片時も頭を離れなかった疑問――ロスティヴォロドはなぜ自分を生かしたのか――の答えが、ようやく判明した。ロスティヴォロドはきっと、リューリヤの身代わりが欲しかったのだ。それがたとえ、愛しい女を死に追いやった男の娘だとしても、求めずにはいられないぐらいに。

 だから、今まで彼がシグディースに向けてくれた笑顔も優しさも贈り物も、全てはもはや亡いリューリヤに向けられたものなのだ。彼女の鏡像に差し出されたものでは断じてなくて。

 三人の子を儲けた今ですら、ロスティヴォロドがシグディースそのものに向ける感情は、二度目の邂逅を果たした際とさほど変わらないのかもしれない。ただ、自分が勝手な勘違いをしていただけで。

 あの時ロスティヴォロドは、他に幾人もの男の目があるなかでシグディースを裸に剥いて、手酷く抱いた。身体の相性が良くなければくれてやってもいいと、配下たちに零してもいた。つまりロスティヴォロドにとってのシグディースそのものは、大勢の男に穢されたところで痛痒も感じぬ程度の存在なのだ。最愛の女を死に追いやった男の娘に向けるものとしては、極めて真っ当な感情である。だのにシグディースを希少な玻璃の杯さながらに扱えるあの男の、もういない女に向けた想いはいっそ感心に価する。

 いや、もしかしたらロスティヴォロドは、シグディースがリューリヤを殺した男の娘であるからこそ、あらぬ勘違いをしてしまうまでに慈しんだのかもしれない。全ては、いつか真実を知ったシグディースを生き地獄に堕とすために。あるいは、シグディースが彼に向ける刃を鈍らせるために。

 だとしたら、仇の計略にまんまと引っかかってしまった自分が愚かだったのだろう。そもそもどんな理由であれ、自分の命を狙う女を愛する男など、いるはずがないのに。

「……お妃様?」

 細腕の中の赤子は、衣に火を付けられたかのごとく泣き叫んでいる。だのにあやす素振りも見せないシグディースをいぶかったのだろう。腹立たしい面を引っ提げた男が、気づかわしげに問いかけてきた。

「……ああ、済まぬな。少し、驚いてしまったのだ」

 幽かに震える声で発したのは、小さな顔をくしゃくしゃにした我が子への謝罪であった。けれども中年の男もその一言で納得したらしい。

「確かに、中々ないことではございましょうね」

 したり顔で頷く男をさっさと部屋から追い出したかったので、女は勤めて柔らかな笑みを麗しい面に乗せた。

「そなたにはロスティヴォロド共々世話になってばかりだというのに、何の礼もできておらぬのが心苦しゅうてならぬ。グリンスクに戻ったら、急ぎ適当な品を見繕って贈ろうぞ」

 言外に話はこれで終わりだと告げると、男はほっと一息吐いて部屋を後にした。これでようやく、シグディースは枯れるまで涙を流せる。

 懸命に堪えていたとはいえ、堰切って溢れだす寸前だった雫は、赤子の無垢な頬にもぽたぽたと滴った。

 この子を産んで、シグディースはロスティヴォロドとの間に三人の家族を作ったことになる。ロスティヴォロドに殺された父母と姉と弟のうち、既に致命傷を負っていた姉を抜かした、前の・・家族と同じ数の我が子を。

 必死に目を背けてきたが、三番目のこの子の懐妊が発覚してからシグディースは心の片隅で、ずっと考えていた。この子が産まれて、そしてもしロスティヴォロドが自分を愛してくれているのなら、復讐はやめにしてもよいかもしれないと。あの日、ロスティヴォロドはいさかいの末だとか、つまらない理由で父たちを刃の露にしたのではないから。

 あの時彼は、父大公と何がしかの言葉を交わしていた。恐らくは、シグディースの父たちを殺すようにと命じられていたのだろう。とすれば、ロスティヴォロドがシグディースの前の家族を殺したのは彼の意思によるものではない。言うなればあの時のロスティヴォロドは、殺人に使われた凶器でしかないのだ。ならば、どうして彼に罪を問えようか。

 それにそもそも父たちが死んだのは、残念ながらこちらの手勢があちらに敵わなかったためだ。経緯はどうあれ、敗北した君主やその家族が始末されるのは当然の帰結であり、それを恨む方が間違っている。真に恨むべきなのは、かつての自分たちの弱さと愚かしさなのだ。

 だからこそシグディースは、たとえ前の家族に恨まれてもよいから、古い掟に従うのは止めるべきかと思案していた。新しい家族と――ロスティヴォロドと、ロスティヴォロドとの間に産まれた子供たちと、今を生きてもよいかもしれないと。

 だからこそ最近は、身重だったという事情もあったが、あの組紐文様の短剣はずっと衣裳を収めた櫃にしまいこんでいたのに。なのに、ロスティヴォロドはシグディースを愛してはいなかった。ならばシグディースとて、絶対にロスティヴォロドを赦すものか。

「……絶対に、後悔させてやる」

 噛みしめた唇から血反吐のごとく漏れ出た呟きは、我ながらぞっとするほど低く、ひび割れていた。

 リューリヤはよく笑う女だったという。ならばシグディースはこの先、何が何でもロスティヴォロドに笑いかけてやるものか。自分の仏頂面を見るたびに、選んだのはもういない女の虚像なのだと痛感するがいい。そうして、せいぜい苦しめばよいのだ。あの男がどんなに悶えたところで、この瞬間のシグディースを苛める苦痛には及ばないだろうが。

 子に含ませもしない乳でなおさら豊かになった胸を引き裂く煩悶は、冬の盛りの息をするのもままならない寒さをも凌駕している。それにしてもどうして、三人目の子を産んだ後になって、真実が明るみに引きずり出されたのだろう。

 リューリヤの存在を突き付けられたのが、最初の子を産んだ直後だったら。さすればシグディースは、躊躇いなくあの男の胸に刃を沈められたのに。そうして宿願を果たした後は、息子を連れて逃亡できたのに。だが子が三人ともなれば、抱えて逃げられもしない。

『そなた、今更私が愛していると言ったところで信じるのかえ? 私がそなただったら絶対に信じぬぞ』

『そうだな! お前が言う通りだ』

 かつての自分の言葉と、それに対する彼の返答が蘇る。答えは既に出ていたのだ。ロスティヴォロドはこの先何があっても、シグディースを愛してはくれないのだと。

 手弱女であるシグディースは、戦士として鍛え上げられた筋肉と腕力を誇るロスティヴォロドには、単純な力では絶対に敵わない。認めるのは癪だが、頭の回転の速さや蓄えられた知識においても。

 その上に、どんなに甘い睦言を吐いても彼がそれを信用しないとなれば、暗殺を果たすのは並々ならぬ難行であろう。しかしやらなければならないのだ。寝込みを襲うでも閨で隙を突くでも、どんな姑息な策を弄してでも。だってこれは、前の家族を奪われた復讐ではないのだから。

 これからもシグディースはロスティヴォロドと褥を共にし、子を産み続けるだろう。だがそれでも、いつか絶対にあの男を殺してやる。

 ああ、そうだ。もう、前の家族などどうでもよい。三人も子を産ませて、これからも自分を孕ませるだろうに、シグディースを少しも見てくれないあの男が憎くてたまらない。もうただそれだけだ。

 赤子の無垢な顔に、悲哀が凝った露が零れ落ちる。女は再び眠りについた我が子を起こしてはならぬと、嗚咽を殺して嘆き続けた。

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