氷結 Ⅰ

 急ごしらえで張った天幕の中で生まれ、雪を溶かした産湯で清められた赤子は男児だった。出産から――サリュヴィスク騒動が収まってから早七日。主一家の帰還と共に、代官の豪邸も喧騒を取り戻した。高低も大きさも様々な声が遠く響く一室で、柔らかな寝台で身を休める女は、腕の中の三人目の我が子の顔を覗き込む。

「おお。これはこれは。我が甥が赤子だった頃によく似ております」

 絹の布で包まれて眠る赤子は、彼の大伯父の指摘通り、父親に瓜二つだった。顔立ちもさることながら、ぽやぽやと生えた髪や、母の顔をじっと見つめるようになった瞳の色も。

「今度の子も男の子であるとのこと、甥も喜んでおりましたよ」

 もうこの世のどこにもいない男の父は、ロスティヴォロドの子に愛おしいと言わんばかりの眼差しを向けている。絶縁したとはいえ彼の初めての子であったアスコルを殺害したのは、ロスティヴォロドなのに。だがその態度を非難するつもりなどシグディースにはなかった。

 グリンスクとサリュヴィスクの間の和睦は成ったとはいえ、未だ大公が解決しなければならない問題は山積みである。ロスティヴォロドがその対処に当たっている間、シグディースは赤子共々彼の伯父に世話になることになった。だのにどうして、夫の伯父の無情さに対して声を荒げられようか。

「お父さま」

「ぼくたちも赤ちゃん見たい」

 開け放った扉の隙間からは、まだ幼い子供――ロスティヴォロドの年が離れたいとこたちが、小さな顔をぴょこぴょこと覗かせていた。

 赤子に向かってにこにこと微笑みかける男が、アスコルの母を捨ててまで得た二番目の妻は既に亡いらしい。二番目の妻は娘を二人産んだが、その子らは既に嫁してしまった。ために今屋敷に居るのは三番目の妻との間の子供たちなのだという。

 父親や他のロスティヴォロドの配下の前で斬り捨てられ、身体は罪人用の墓地の穴に投げ込まれ、首は未だ街の広場で晒されているというアスコル。この寒さだから、彼の首は未だ腐敗せずに、生前の面影を保っているのかもしれない。その生首には、彼の断末魔の表情が凍り付いているのだろうか。アスコルの最期の表情を、彼の父は確認したのだろうか。それを確かめるのは、流石にできなかった。

「こら。大公妃さまがお疲れになるだろうが」

 父親の小言もなんのその。ついに好奇心を抑えきれなくなった子供たちは、わらわらと寝台の近くに集まってきた。

「あかちゃんかわいいなあ。リューダもおとうとかいもうとがほしい。おかあさまにおねがいしたら、うんでくれるかな?」

 シグディースの長子と同い年だという末娘は、父や従兄と同じ濃紫の瞳を輝かせている。吊り上がった大きな目が猫を彷彿とさせる幼女の名は、もういない男が拘泥していた名に響きが少し似ていた。

「子供は神様からの授かりものだ。だからお前たち、弟か妹が欲しいのなら、今すぐ神様にお祈りしに行きなさい」

 シグディースの様子が変わったと察知したのだろう。子供たちを巧く言いくるめて追い出すと、男はぎこちない笑みを浮かべた。

「――大公妃さまにおかれましては、此度の我が愚息がしでかしたご無礼を、なんとお詫びすればよいものか」

「だから、それについてはもう良いのだ。確かにそなたの息子は私に散々無礼を働いてくれたが、もはやこの世におらぬ者は罰せられぬ」

「と申されましても、身重であったお妃さまへの我が息子の仕打ちは、死んで償えるものではござりませぬゆえ」

 この慎重な男はきっと、シグディースに赦されたという確証がなければ安眠できないのだろう。死のうが縁を切ろうが、アスコルが彼の息子であったという事実は決して変えられない。また結果的に無事だったとはいえ、アスコルがシグディースを危機に晒したという事実も変わらないのだから。

「我が妻も、義理の息子の所業に大変心を痛めております。これは大公妃様にとってはつまらぬ物でしょうが、我が妻が婚礼の際身に着けていた、由緒ある品。我ら夫婦の悔恨の証として、どうぞお納めください」

 とはいえ、恭しい顔で明らかに値が張る黄金の腕輪を差し出されても、受け取るわけにはいかなかった。

 額にうっすら脂汗を滲ませている男が所有している物は、彼がロスティヴォロドの伯父であるという一点に依って得たものだ。地位も財産も、全て。甥にもしもがあった場合に備えて、次代の大公の母たるシグディースと良好な関係を築かんとするのは、彼の立場を考えたら当然だろう。けれどもいささかやり過ぎであった。

「要らぬ。それはそなたの妻に返すがよい」

「しかし、」

 それに、この男がシグディースに差し出せそうなものの中で真に欲しているのは、装飾品などではない。

「ならばそなた、一つ私の質問に答えよ」

「私がお答えできることならば、なんなりと」

 恭しく頭を垂れた男は、ロスティヴォロドが生まれた時から側にいた伯父である。甥が十二歳という幼さでトラスィニに公として派遣された際は、補佐としてもう亡い息子共々南の地に付いて行きもした。つまり目の前の男は、ある意味実の父母よりもロスティヴォロドの過去を知る人間なのだ。だから、きっと把握しているだろう。

「そなた、リューリヤという名のサグルク人の女を存じておるか? ロスティヴォロドと某かの縁があるらしいのだが」

 アスコルが拘っていた女がどこの誰なのか。ロスティヴォロドといかな繋がりがあるのかを。

 目尻が切れ上がった、魂が吸い込まれそうに深い青の双眸が注視する男の面は、先ほどよりも蒼ざめていた。これは確実に答えを知っているはずだ。だが、目の前の男は中々口を割ろうとしない。

「知らぬのならばそれはそれで良いが、嘘は赦さぬぞ」

 細腕の中では、赤子がすやすやと無垢で安らかな寝息を漏らしている。一方赤子の母と大伯父は、身じろぎ一つせず、微笑み一つ零さず見つめ合っていた。

「――どうしても、その気にならぬのかえ?」 

 自分は気が長い方ではないと自覚しているシグディースが脅しをかけても、アスコルの父は上辺だけの笑みを保ったままで。更には、先ほど懐に収めた腕輪を再び差し出してくる始末だった。

「ならばもう良い。だが、義理の姪の細やかな頼みを無碍にするとは、そなたはほんに薄情な男よのう」

 かような人間はあてにしてはならぬと、子守歌代わりにこの子たちにしかと言い含めておかねばならぬな。

 苛立った末、小さな口をむにゃむにゃと動かす我が子に視線を落とすと、男はあからさまに焦りだした。

「そなたを排除せぬ限りは寝所を共にせぬと、ロスティヴォロドに訴えてみてもよいのう。あやつが私を選ぶか、それともそなたを取るか賭けてみるのだ。――想像するだけで血が滾らぬかえ?」

 雪白の頬にほんのりと血の紅さが差すと、玲瓏とした面は艶めかしいを通り越し、凄みさえ帯びた妖しさを放つ。舐めれば鉄錆の味がしそうな紅唇がにんまりと吊り上がった様は、鼠を追い詰めた猫そのものであった。

「私としても、かような細事で長年に渡りロスティヴォロドによく仕えたそなたを喪えば心が痛むのだ。だが、夫と子を守るためならば仕方あるまい」

 欠片も思っていない言葉を吐き、一粒も出ていない涙を袖で拭うと、男はとうとう観念したらしい。

「……お、お赦しくださいお妃様。これまでの沈黙は全て、いかに全てを明らかにすべきかと、この非才なる身の智慧を絞っていたがゆえでございまして、」

「左様かえ。されど、頭の整理は済んだのであろ?」

 細い顎を逸らし、ならばさっさと舌を動かせと促すと、アスコルの父は小さいが確かな溜息を吐いた。どこか遠くに向けられた眼差しは、彼のもういない息子と本当によく似ている。

「私は甥とトラスィニで幾ばくかの年月を共に過ごしました。だから、リューリヤという名の娘がいた・・日々について申し上げることができます。しかしその前に、幾つかの訂正をさせてくださいませ」

 我が愚息がお妃様に勘違いをさせてしまったようなのでと申しおいてから、中年の男は端整だが老いの影を隠し切れぬ面をきっと上げた。夜明けの空を映したかのごとき紫の双眸には、哀しみが過っている。加えて先程の語り口だ。リューリヤという女は、もしかしたらもうこの世にはいないのかもしれない。

 過去であれ現在であれ、妻である自分以外にロスティヴォロドが特別視していた女がいるというのは面白くない。けれども、もう死んでいるのなら話は別だ。

 こみ上げる喜色に女は花顔をほころばせたが、真白の花弁ははらはらと儚く散る定めにあった。

「まず、リューリヤなる娘は我らの同胞の名を持てども、サグルク人ではありませぬ。リューリヤはイヴォリ人の娘でした。甥同様、母親はサグルク人の女奴隷だったのですが」

「では、その娘の父はどこの誰ぞ? 奴隷を所持できるというからには、それなり以上の地位に就いていたのであろ?」

 たとえリューリヤという女がいかな名家の出でも、シグディースには及ぶまい。なんせ己の父は、力不足ゆえ虚しく滅んでしまったとはいえ、一時はグリンスクの大公と肩を並べていたシチェルニフ公だったのだから。

「そりゃあもう。なんせリューリヤの父は、お妃様の御父君エイムヴァル殿の弟だったのですから」

 もはや何の意味も持たないと認めつつも未だ捨てきれていない、連綿と受け継いできた血統への誇りに膨らんだ心臓に、研ぎ澄まされた刃が付き立てられる。

 一体どういうことだ。その女が従姉妹だったというのなら、なぜ私は今の今まで名どころか存在すら知らされていなかったのだ。

 たちまち女は様々な疑問に翻弄されたが、一方で事実が胸にすとんと落ちたのも確かだった。

『言っておくが、君とリューリヤには、それなり以上の縁があるんだ。なんせ君たちは、』

 もうこの世のどこにもいない男が、死の直前に自分たちの繋がりについて言及していたのを、思い出したから。ゆえに、空言を申すなと叫べもしない。

 シグディースが全てを喪った七年前に、父母や弟の命同様にロスティヴォロドに奪われてしまった琥珀の首飾り。父はあれを、長年不仲であった兄弟をついに破り、その家族は根絶やしにした戦の戦利品として入手していた。

 その名が耳に入ると父の機嫌が悪くなるゆえ、奴隷たちどころか亡母すら口にするのを暗黙の裡に禁じられていた男の娘こそ、リューリヤだったのなら。さすれば彼女を死に追いやったのはシグディースの父ということになる。

「甥とリューリヤの出会いは、両者が共に十二歳だった春のことでした。正式に公に任命されたとはいえ、女奴隷の子でしかも年少の甥を軽んじる動きは、どうしても無くならなかった。ゆえに、近隣の有力者――河を挟んだ二つの土地をご兄弟で分割して治めていた二人の公のうち、よりトラスィニに近いオルトロク公と断ちがたい縁を結ぶのはどうかと、私が亡きイシュクヴァルト様に献策いたしましたのです」

 ロスティヴォロドが十二歳。つまり十四年前、シチェルニフを流れる大河の東側を治めていたのは、シグディースの父ではなかった。

「流れる血の故でございましょうか。リューリヤは髪や瞳の色は多少異なれど、お妃様とそっくり同じ顔をした大変見目麗しい、しかも心優しくて朗らかな娘でしたよ。私や息子のような下賤の者にも、いつもにこやかに笑いかけてくださったものです」   

 そんな娘と甥が将来を約束された婚約者として睦まじく並ぶ様を見るのは、私の喜びの一つでございました。

 紛うかたなき哀悼が滲んだ昔語りは、赤子を抱いた女の心を瞬きよりも速く凍てつかせた。

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