寒の戻り Ⅱ

「俺の父やロスティヴォロドの母が、ソーディヤ様に滅ぼされたベニャーネ族の出だというのは前に言った通りなんだが、俺の母もそうなんだ」

 アスコルは彼がまだ生まれてもいない昔を語りだす。彼の父母の出会いを。彼の実母の末路を鑑みれば、不思議なほど淡々とした口調で。物憂げに伏せられた双眸には一切の光が差さず、蝙蝠が飛び交う洞めいていて不気味だった。一瞬でも視線が交わると、背筋に悪寒が奔るほどに。

「母は父たちと違って、ベニャーネ族の中でも地位ある家の生まれだったらしい。当時も今もまるで意味のないことだけれど、母はそれを誇りに思っていたんだ。だから、ひたすら公妃様に阿る父が気に食わなくて、文句を言いに行った。それが始まりだったらしい。父は口が巧いし、顔だって良い方だからな」

 父母のなれそめを詳らかにするアスコルの口ぶりには、愛おしむような調子さえあった。彼が紡いでいるのは悲劇に終わった愛の物語だというのに。

 とにもかくにも、若かりし頃のアスコルの父母は互いに惹かれ合い、結ばれて子を成した。彼らを奴隷の身分に落とした公妃ソーディヤも、それだけは許していたらしい。奴隷の数が増えたら、西南の帝国にでも売り払えば儲けになるとの算段ゆえだったらしいが。

 だが息子を産んで、幸福の最中にあったはずのアスコルの母の運命は、予期せぬ出来事によって変転する。アスコルの物心が付くまで、大公妃にお針子として仕えていた彼女の代わりを務めることとなった義理の妹。つまりロスティヴォロドの母が、大公の目に留まり寵愛を受けるようになったために。

 今は亡き大公はこの時既に、南の草原地帯を縄張りとする遊牧騎馬民族から迎えた麗しい妃との間に、二人の息子を儲けていた。ロスティヴォロドの寝室の虎の毛皮は、故大公が婚礼の際に、雪豹の裔を自称する妃の部族から贈られた品なのだという。

 けれども、その妃は産褥のために身罷ってしまった。愛し合っていた妻を喪い気落ちしていた故大公が、母の許を訪れた際に偶然目にしたのが、ロスティヴォロドの母なのだという。

 夫の母親は、亡き大公の最初の妻と同じくらい美しく、また故人の髪の色によく似た濃い銀色の髪を持っていたのだという。確かに南の遊牧民共は、灰色の髪を持つ者が多いと聞く。同じ南でもイヴォルカから西に位置するシャロミーヤ帝国と違って、東南にある帝国の民と同様に。が、あのイシュクヴァルト大公にも随分と感傷的な側面があったものだ。

 なんにせよイシュクヴァルト大公は、亡妻の面影を宿す容姿だけでなく、穏やかで愛情深い彼女の人柄までをも愛するようになった。ロスティヴォロドの母も、戦場では先陣切って剣を振るう勇猛さを誇る一方で、繊細な一面を秘めた彼に惹かれた。

 そうして彼と彼女は心身共に結ばれ子を生した。ここまではなんだかんだでアスコルの母も、義理の妹の幸福を祝っていられたのだという。ロスティヴォロドの誕生により、妹共々奴隷の身分から解放された夫が、甥の地位を安定させるためにも有力な土豪貴族の娘を妻に迎えると言いだすまでは。

「母は怒り狂ったし、叔母さんも馬鹿な真似はするなと父に詰め寄ったものだよ。だがロスティヴォロドの、もっと言えば自分の未来のために母を捨て、有力な家との縁を得るという父の決意は変わらなかった。そして、」

 アスコルの母は自分を裏切った夫と新しい妻の結婚前夜、首を括って自死したのだという。婚礼が終われば父と新たな母に引き取られるため、最後の思い出を作るべく彼女の許にいた息子に、いつか復讐してくれと言い残して。

「ということはつまり、そなたはこれで母君の無念が晴れると考えておるのかえ? ――ほんに愚かだのう!」

 アスコルが自分を連れ去ったのが、無念の死を遂げた母のための行動だったのならば。であれば彼の母の死の一因ではあるロスティヴォロドに刃向かうよりも、己の父に刃を向ければ良かったろうに。

『私は常に嘘をついて生きてきましたから、』

 かつての彼の言葉が脳裏に蘇る。もしもこの一件が、シグディースが全てを喪った七年前の更に前から練られていたものだったのなら。だとしたら随分と残念な出来であった。

 嘲りによって吊り上がった紅唇は、しかし数瞬きの後にはぽかんと開かれることとなった。

「いや、別に。だいたい君の誘拐は、サリュヴィスクに課せられている税の軽減を目的とした行動の一つだ。俺はその計画を俺の目的に利用させてもらったに過ぎない」

「……ほう」

 ますますアスコルの目的が分からなくなったが、彼が何を考え何を求めていようが、シグディースには関係ない。そもアスコルという存在自体に興味がなかった。子供たちを別にすればシグディースの裡に住まう者は、いつか殺さなければならないロスティヴォロドだけ。先ほどの話だって、ロスティヴォロドに関係がありそうだから耳を傾けていたにすぎなかった。

「それより、これより私の身の回りの世話は誰が行う? 早う適当な者を見繕って寄こさぬか」

「……そうだな。君はそんな女だったよ」

 アスコルは最後に、重く長い溜息を吐いて去っていった。身重で、しかも家事の経験など一切ないシグディースが世話役を求めるのは当然なのに。

「――そなたは言わねば分からぬであろうから申しておくが、医者も連れて来るのだぞ! ややこの様子を診てもらわねばならぬのだからな!」

 慌ててどこかくたびれた背に向けて叫んだ言葉は、きちんと届いていたらしい。ややしてシグディースの許には、畏まった様子の中年の女が三人と、見事な白髭を蓄えた老人がやって来た。

 このイヴォルカの地の男は属する民族に関わらず、一人前になると同時に髭を伸ばしだす。農民や商人ならば成人と同時に、戦士や貴族ならば家督を継ぐとか、何らかの位を得るか、はたまた目覚ましい戦功を挙げた際に。ロスティヴォロドが大公になると同時に顎鬚を蓄えたのもその一例だろう。

 つまりイヴォルカにおいては、一定の年齢になったのに髭のない男はどうしようもない怠け者。もしくは奴隷である。逆を言えば髭とは立派な男子の証であり、胸の半ばに届くまでの髭を持つこの医者は、さぞかし経験を積んできたのだろう。

「お腹の御子に異常はありませぬよ」

 手練れの医師に子の無事を保証されると、胸の痞えが一気にとれた。女たちが用意した茸の汁物と蕎麦のカーシャ川魳カワカマスの食事も美味しく進む。

 食後の林檎の甘煮まで平らげた後。蒸風呂に入って汗を流し、衣裳棚にあった適当な衣服に着替えると、心までさっぱりと清められた。いざロスティヴォロドが迎えに来てくれた時、汚い恰好をしているのは嫌だったのだ。

「なんて見事な御髪なんでしょう。まるで黄金の滝のようですわ」

 その日は疲れていたので、着替えた後すぐに寝台に横になった。けれども翌朝七年前と同じかそれ以上の長さに伸びた毛髪を世話役の一人に梳らせていると、この生活も案外悪くないように思えてきたのである。

 数日を過ごしてみると骨身に染みて理解できたが、サリュヴィスクはグリンスクよりも格段に寒さが厳しい。が、それとて耐えられぬ程ではなかった。アスコル及びその他の、身重のシグディースをかどわかした地虫どもの姿を、この眼に映さずによいというのもありがたい。腹に赤子を抱えた身で激しく動いてはいけないと、弁えてはいる。しかし彼らの姿を想像するだけでも、反射的に殴り飛ばしたくなってくるのだ。

 とうとう臨月に突入し、女たちの世間話に耳を傾けながら赤子の産着を仕立てていると、案外重要な情報が得られたりもした。

 雀さながらに囀る女たち曰く、サリュヴィスクの民の中には元奴隷であったアスコルの父に膝を折るのを良しとせぬ者たちがいるらしい。そういった輩は、ロスティヴォロドがそのうち伯父を、正式な・・・サリュヴィスクの公に任命するやもと危惧してもいるのだとか。

 ならばいっそ外国から名誉ある血統の君主を招くか、土豪貴族の中から公を選んだ方がよい。民会ヴェーチェでしきりに訴えられる声が、豊かであるがゆえに課せられた重税を恨む声と合わさって、此度の乱へと繋がったらしい。

 サリュヴィスクの民は代官であるアスコルの父に収める額と同額の税を、グリンスクの大公にという名目で課せられている。更に、故人となったロスティヴォロドの父の時代に度々あったように、大公の意向によっては追加徴税されるやもとくれば。反乱の一つや二つ起こしたくなって当然かもしれなかった。

 しかし大多数のサリュヴィスクの民は、ロスティヴォロドが息子たちのいずれかを公として派遣してくれるのなら、その時まではアスコルの父に従ってもよいと考えているのだとか。とどのつまり大公邸の襲撃に始まる一連の事件の責任は、一部の過激派に帰せらせるのだ。

 ロスティヴォロドが兵を率いてやって来た際、虫どもの首が野に晒されるのは当然である。しかし、大多数の無辜の民には無事でいてほしいものだった。

 産み月も半ばを過ぎると空は一面鉛色の雲で覆われ、陽光が射すのは日にほんの半刻ほどだけとなった。草原の紅鶸べにひわは餌を求めて森へと移り、雷鳥はハンの木や七竈の実を啄む。こうなれば、いつ厳寒が訪れ真の冬が始まってもおかしくはない。さすれば雛菊や翠菊アスターがほころんでいた大地は、一面の銀世界へと変じる。池どころか河の水までもが凍りつくだろう。

 しかし、こういった寒波の襲来の後には雪解け陽気が続くのがお約束。秋の気配を白く塗りつぶした氷雪は一切残らない。このイヴォルカの地は寒気と陽気の繰り返しを経て、本格的な冬へと突入するのだ。それまでに、ロスティヴォロドが助けに来てくれるとよいのだが。

 いつ陣痛が始まってもおかしくはない腹に手を当てて思案していると、不意に耳慣れぬ、しかし覚えのある足跡が響いてきた。世話役の女たちの畏まったそれとも、一日おきに訪れて来る老医師の、杖を突く音に掻き消されんばかりのそれとも全く違う。どこか投げやりな足音は恐らく――

「君に尋ねたいことがあるんだ、シグディース」

 想像通りの人物は、肩にうっすら積もった雪を払いもせず、嵐の直前の空そのものの目でシグディースをひたと見つめる。

「君は“リューリヤ”を知っているか?」

 そうして紡がれたのは、想像もできない問いかけであった。

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