寒の戻り Ⅲ

 蒼ざめた唇から発せられたのは、響きからしてサグルク人の女の名だろう。だが思い当たるふしは全くないし、そも考えてやる義理すら小指の甘皮程もなかった。けれども目の前に立ちはだかるアスコルの顔は、はっきり言って常軌を逸しているから、逆らうのは得策ではない。ここはアスコルに大人しく従っていた方が良いだろう。

 腹の子のためにも取り敢えず、豊かに実った腕の下で腕を組み、考えあぐねるふりをする。しかし、どうしてもアスコルが求めているだろう正解に辿りつけそうになかった。だからと言って正直に答えたら、どんな目に遭うか分からない。今のアスコルは、万が一の事態を覚悟させる気迫をみなぎらせている。

「言っておくが、君とリューリヤにはそれなり以上の縁があるんだ。なんせ君たちは、」

 一体どうしたものかと振りではなく本当に考え込んでいたところ、出し抜けに手がかりが与えられた。

「……もしや、ロスティヴォロドの母君の名かえ?」

「やっぱり、訊くだけ無駄だったな。だいたい、叔母さんの名はフィアルーシャだ。君が結婚した頃には既に死んでいたとはいえ、義母の名前ぐらいはきちんと覚えていてくれ」

 しかし、ぴんと閃いた勢いのままに紡いだのは不正解だったらしい。一体どうやって取り繕ったものか。

「ロスティヴォロドがリューリヤに言及したことすらないんだな? 君があいつと過ごした四年余り、あいつは君といる時に一度もリューリヤのことを思い出さなかったと?」

 普段はあまり働かせない頭を目まぐるしく回転させていると、縋るような調子を帯びた、けれども激しい声に思考を断ち切られた。

「……私はそのサグルク人の女がどこの誰か知らぬし、あやつの内側までをも理解しているわけではないが、そうであろうなあ」

 しつこい。いい加減にせよとの苛立ちを抑えながらも、房酸塊フサスグリのごとく紅く艶のある唇を動かす。

 本当は、思い当たる節がないではなかった。ロスティヴォロドと、互いのきょうだいの亡骸が転がっていたあの部屋で二度目の邂逅を果たした際。彼は何かを懐かしんでいる目をしていたから。

 だが、あの男があんな顔をしたのも一度や二度だけだし、それ以上にシグディースはこの意味のない問答をさっさと終わらせたかった。だから、適当な答えを紡いだのだ。

「そうなのか……これは傑作だ」

 しかしその途端、目の前の男の太い喉が震え、けたたましい哄笑が飛び出したのだから、つい驚いてしまった。

 これは一体どうしたことだろう。先ほどの口ぶりからして、アスコルはロスティヴォロドに、リューリヤという女の存在を覚えていてくれと望んでいるはずだ。なのに、その逆の事実に腹を抱えて笑うとは。

 もしやアスコルはここに来る前、どこぞで転んで頭をぶつけてしまったのだろうか。それはそれで一向に構わないし、何ならアスコルの脳が辺りにぶちまけられなかったのが残念でならないぐらいである。しかし選りにもよって、シグディースの許に来た際に症状が出なくともよいだろうに。つくづくあの組紐文様の短剣を持ってこれなかったのが悔やまれる。もっとも、もしあの一振りを隠し持っていたところで、この薄汚い野良犬の血で汚すのも癪ではあるが。あれはロスティヴォロドを殺すためだけの刃だ。

 柳眉をひそめて狂態を隠そうともしない男を蔑んでいると、笑いの痙攣が収まったアスコルは、晴れ渡った空を連想させる微笑を浮かべた。

「なあ、シグディース。俺と君の仲に免じて、最後にもう一つ質問させてくれないか」

「私とそなたの間には、そのようなものは一切構築されておらぬがのう」

「まあ、いいじゃないか。――君はどうして、あいつとの間に子供を産んだんだ? 君に代わって復讐をさせるためなのか? それか、君たちイヴォリ人の昔話にあるように、子供たちの心臓をロスティヴォロドに喰わせて、あいつを悲しませるためとか?」

 けれども次の瞬間には、怒りに見張った双眸に映る面は、母に縋る幼子さながらの不安を湛えていて。アスコルがいよいよ打つ手のない状態になったのは明らかだった。

「私を侮辱するのも大概にせぬか! いくらなんでも、そのような酷い真似をできるものか! 大体、なぜとはなんだ! できたから、に決まっておろう!」 

「ならば、子供たちを哀れとは考えなかったのか?」

 なのに、そのまた次の瞬間のアスコルは、思いつめてはいるが正常の部類に入る表情を浮かべたのが、心底気味が悪い。長子を身籠ったと知らされて以来、直視を避け続けてはいたものの奥底に抱え続けた迷いを、容赦なく暴かれたからこそ。

「君は、子供たちのために復讐をやめようと考えたことはないのか? もし仮に君が宿願を果たしたら、君は大公殺しの実行犯として処刑される。時期によっては、君の子自身が君の死を宣告せざるをえなくなる。そうなったら君の子はどれだけ苦しむのか」

 不快感に、女は唇を噛みしめる。はらわたをぐちゃぐちゃに掻きまわされても、ここまで苦しくはあるまい。自分にこんなことを考えさせるアスコルが、いっそ憎くすらあった。

 無残に全てを奪われたからこそ、シグディースは人一倍理解している。先祖の掟が自分に課した義務を果たし、子の父であるロスティヴォロドを殺せば、子供たちは言葉にできないほど嘆くだろう。

「……私が宿願を果たした折には、潔く自害する。さすれば子らを煩わせはすまい」

 だからこそシグディースは、長子を始めて抱きしめた際に決めていた。念願叶ってロスティヴォロドの心臓から吹き出る血で刃を濡らしたら、赤い滴が滴る切先を己の胸に沈めようと。

「いや、俺がしたいのは煩わせるとかどうかという話ではないんだが、」

「周囲の者たちがいる。たとえ私が死んで哀しもうとも、直に哀しみは薄れよう」

 子らは母であるシグディースとは違って、家内奴隷たちにも好かれ、可愛がられている。あの子たちなら、シグディースの代わりなぞ幾らでも見つけられるだろう。けれどもシグディースにとってのロスティヴォロドの代わりは、世界中を探しても見つかるはずがない。

「――さては君、俺の話をまるで聴いてないだろう?」

「だがな、私は違う。あの男だけが、私の生きる意味なのだ。あの男を殺せばこの身は生きる亡骸となる。あの男がいない人生など、何の意味もない。ならば実際に死んだところで、何の違いがある?」

 狼狽えながらの問いかけを右から左に聞き流した女は、いつしか長年抱え続けた思索に熱中していた。

 世界中を巡らずとも。例えばこのイヴォルカにだって、ロスティヴォロドよりも強く見目良く頭と舌が回り、ついでに楽器を上手く扱える男は一人か二人はいるだろう。しかしそれはロスティヴォロドではない。

「……だいたい、そうでなければ私は、何を口実にあやつの側におれば良いのだ?」

 思いがけず唇を割って出たのは、血の復讐の義務を背負う女ではなく、一人の女としてのシグディースが抱える不安だった。

 ロスティヴォロドはかつて、掟に従って貶められた家族の名誉を回復させんとしているシグディースを褒めてくれた。自分の命がかかっているというのに、短剣を再び与えてくれもした。だのにシグディースが義務を投げ出しただの女になれば、彼は興ざめして自分を捨てるかもしれない。

 さすれば国も地位も失ったシグディースは、彼の隣に居続けられなくなる。それはある意味、家族の恨みを晴らさぬまま息絶えるよりも、もっと恐ろしい結末だった。考えるだけで目の前が真っ暗になるぐらいに。そんな結果になるぐらいならば、シグディースはいつか返り討ちに遭おうとも、古い掟に従い誇り高く生きた女として、ロスティヴォロドの胸のどこかに永久に名を刻まれるのを望む。

「君は、自分がどういうことを言ったのか気づいているのか? ロスティヴォロドにそれを言え――るはずがないな」

 シグディースに詰め寄ってきたアスコルの顔は、蒼を通り越して土気色になっていた。どうやら自分は、アスコルにとっては最悪に近い何がしかを口にしたらしい。

「俺は昔、君が哀れだとロスティヴォロドに言ったんだが、本当はあいつの方が可哀そうなのかもしれないな」

 間近に迫った血走った目からも死を覚悟せずにはいられなかったが、結局アスコルはほんのりと寂しく笑っただけだった。

「ありがとう、シグディース。君がリューリヤを完璧に知らず、ロスティヴォロドが過去を完璧に振り切ったと分かった以上は、俺の迷いも、未練もなくなった。俺がやったのは正しいことだったんだ」

「……さ、左様かえ」

「ああ。これでもう、君がお腹の子と一緒に死のうが、ロスティヴォロドが戦死しようが、悲しんだり罪悪感を抱かずに済む」

 だのに、寸毫の迷いもなく人間をやめた発言をアスコルがしたものだから、本格的にこの場から逃げ出したくなってしまった。寒気の侵入を防ぐためなのだろうが、この部屋は窓が設けられておらず、扉の方はアスコルに塞がれている。つまり、シグディースはまさしく袋の鼠なので、逃亡など到底不可能なのだが。それに臨月のシグディースは、せいぜい心なしか早めに歩くぐらいしかできない。窓から脱出するなど、身籠っていなくとも出来るはずがなかった。 

 七年前に灰燼に帰した館の広間で、もう一人もいない前の家族と共に、同じく故人となった男の前に引きずられていった際に覚えた感情が――恐怖が蘇る。

 それでもシグディースは矢車菊の青の双眸に憤怒を宿し、頭がどうにかなったのは確実な男をねめつけた。

「そんな目で睨まないでくれよ。あくまでおまけだけれど、俺は吉報を届けにも来たのに」

 ロスティヴォロドとどことなく似通っているのに腹立たしい顔をした男は、シグディースの肩を容赦なく掴んできた。骨を砕かんばかりの強さで。

「実は、ロスティヴォロドが君を取り戻しにやって来たんだよ。いつ吹雪くか分からないのに。嬉しいだろう?」

「――そなたの口から告げられていなければな」

 夜闇を仄白く照らす銀梅花を思わせる麗貌を歪めながらも、女は薄く整った唇をにんまりと吊り上げた。ロスティヴォロドはきっと自分と腹の子を助けてくれる。アスコルが調子に乗っていられるのも今の間だけだから、せいぜい儚い勝利に酔いしれていればよい。

「それは残念だな。でも、折角だからあいつが待っている所まで案内させてくれ。今回はちゃんとした馬車も用意しているから」

 ロスティヴォロドが率いる軍とサリュヴィスク側の交渉が決裂した際には、人質として存分に活躍してくれ。アスコルの発言の裏の意味は、これぐらいのものだろう。

「それはそれは、随分と準備が良いことだのう。最初からそうしてくれていればもっと良かったのだが」

「君は相変わらず勝気だな」

 怯える世話係の女に見守られながら、女は家畜のごとく牽かれて歩み、久方ぶりに肌を指す外の空気を浴びた。

 仰いだ空は陰鬱な鉛色と白が入り混じっていて。掌を上に向けると、花弁のごとき白が舞い降りてきた。降り注ぐ一片は、家々の屋根だけでなく、黒貂の毛皮にも化粧を施す。もうすぐ本当の冬が始まるのだ。

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