寒の戻り Ⅰ
目的地には船で大河ヤールを遡れば四、五日で到着するという。寒さが増すばかりのこの頃。イヴォリ人伝統の天蓋のない船に吹き付ける風は、骨まで凍てつくほどだった。黒貂の毛皮を持ってきて良かった。と、同じく屋敷から連れ出される前に持ちだした菓子や乾した果物を齧りながら、何度安堵したことか。
水上生活四日目。そろそろサリュヴィスクが見えてこようかという段になっても、シグディースは船の乗組員たちとほとんど言葉を交わさなかった。
数え切れないぐらいいたアスコルの賛同者は――もしかしたらアスコルの方こそが、彼らに利用されているのやもしれないが――いずれも信じられないといった面もちで、シグディースを眺めてくるばかり。自分たちだって腹が減れば食事を摂るだろう。なのに、人を珍獣扱いするのはいい加減にしてほしかった。だが、そう言って聞き入れる輩ならば、こんな馬鹿な真似はしないだろう。
夜になれば寒風を避けるべく横になって、持参した黒貂と初日にアスコルから剥ぎ取った毛皮外套に包まって夜空を見上げる。腹が重いため長くは仰向けになれないが、金銀に輝く星と月は息を呑む美しさだった。
家畜や家財と共に移住してきた祖先たちは、崇高に瞬く光を頼りに、荒れ狂う灰色の海を渡ったのである。彼らの子孫たるシグディースは、星を詠む術を教えられなかった。しかし交易のために船を操る輩には、祖と同じかそれ以上に見事に、濃紺の空で燃える火花から航路を導く者がいるのだろう。
この船といい、船内でちらほらと見かける青みを帯びた金髪といい、此度の企てにはサリュヴィスクのイヴォリ人も少なからず噛んでいるのだろう。サリュヴィスクは確かに、イヴォルカでも最高の毛皮や蜜を産出する森を含む、豊かな土地である。それでも単体でグリンスクに敵うはずがないのに。シグディースを誘拐同然に連れ出した輩など、自分を取り戻しに来たロスティヴォロドの剣を濡らす露となればよいのだ。
無礼者たちの悲惨な末路を想像すると、重苦しくなるばかりだった気分も晴れ渡った。まるで頭上の遙かなる天空のごとく。良い気分になったのでこのまま眠ってしまおうと、女は横向きになって薄い目蓋を下ろす。
「あの、シグディース」
ほどなくして訪れたのは眠気だけではなく、人が接近する気配もであったが、無反応を貫いた。なぜなら、今にも上下の目蓋が一つになりそうだったから。
「その外套がないと、俺はいい加減に風邪をひいてしまいそうなんだが」
知らぬ。そなたなぞ、風邪をこじらせて死んでしまえばよい。
いっそ晴れやかな心持で眠りに落ちた女が見たのは無論、敵が血祭に上げられる吉夢であった。翌朝、干し葡萄と木の実の朝食を採っているシグディースの許に現れたのはアスコルであり、つまり夢は現実にはならなかったのであるが。ただ一つの慰みといえば、この腹立たしい男が大きなくしゃみを連発したことぐらいか。
「君のせいで俺は一晩中凍えていたんだが、」
鼻の穴に詰まったら面白いだろうと、先がやや赤くなった鼻目がけて投げた干し葡萄は、鼻の穴ではなく口に吸い込まれていった。重ね重ね腹立たしい。
「――誰が食べて良いと申した?」
シグディースは大公妃なのでそんな下品な真似はしないが、舌打ちをしたい気分であった。
「だけど俺は船に乗るまで、無理やり押し付けられた君の荷物を持ってやったんだぞ? だから、干し葡萄の一つ二つ程度ではむしろ足りない気がするんだが……」
不服そうに言い返してきたアスコルは、しかも結構重かったんだがと付け加える。確かに日持ちがする好物を詰め込ませた布は、シグディースの頭よりも大きく膨らんでいた。が、それがどうしたというのだろう。
「は? そなたもしや、
なんにせよ、シグディースが矢車菊の深い青の双眸を吊り上げたのは、ほんのしばしの合間だけだった。アスコルの狭量さへの怒りは、怒りを通り越して呆れへと変じつつあったために。
「そなたの従弟はグリンスクの大公であるが、私の手足がむくめば揉んでくれるし、腹が重いと言えば抱きかかえて運んでくれるのにのう」
「あの、シグディース。そんな話はやめてくれないか。従弟夫婦の惚気話なんて聞くと、吐き気がしてきそうなんだが……」
「ああーっ、だのに一介の従士でしかないそなたが、大公妃の荷を運んだ程度で不平不満を漏らすとは! あな情けなや!」
このようなつまらぬ男にぬけぬけと騙され、彼を恩人として慕っていたかつての自分への痛罵も交えた独白を吐き出す。すると、いつの間にやら周囲に集まっていた船員の一人が、アスコルの肩にぽんと手を置いた。
「――諦めろ」
「……」
「そして、サリュヴィスクに着いてからの大公妃様の荷物はお前が持て。お前はこの方と三年一緒に居たんだろ? だったら耐えられるさ」
アスコルに近づいていった男も、アスコルも。ついでに彼らを取り囲む男達も、皆一様に遠い目をしているのはなぜなのだろう。まあ、シグディースには関係がないだろうが。だがそれにしては、刺繍が施された布に隠れた耳は、
「確かに顔はびっくりするぐらい綺麗なんだが、こんな女にガキを三人も仕込んだ大公様は、凄い人なのかもしれねえな」
との囁きを拾ってしまったのだが。悪いのは全てシグディースを強制的に連れ出した彼らだ。だのに自分がどうして謗られなければならないのか、さっぱり理解できなかった。
「そういえばそなたら、誰か楽器を持っておらぬのかえ?」
「――頭の中で一体何があったら、いきなり楽器がどうのこうのなんて言い出すんだ? ご両親は君にいったいどんな教育をしたんだ?」
ただ波に揺られているのもいい加減に飽いたので、気分転換のために演奏させようにも、誰も持ち合わせはないらしい。そもそもこの船にいる輩に、楽器を上手く扱える者などいないのだとか。ロスティヴォロドは伝統の
「ならば致し方あるまい。私はこれから二度寝する。起こすでないぞ」
「……ああ。俺たちからも頼むから、そうしていてくれ」
先ほど目覚めたばかりではあるが、腹の中の赤子は中々の暴れん坊で、母の腹を内側からしきりに、しかも容赦なく蹴ってくる。なので、実は夜あまり眠れていなかったのだ。
「私に静かにしていてもらいたいのであろ? ならば協力せぬか」
安眠するためにも更に数人から毛皮外套を調達して寝床を拵えると、女はようやく目蓋を降ろした。こんな状況だというのに腹の子は健やかに生まれる時を待っている。上の子供たちも元気にしていると良いのだが、流石にそれは難しいかもしれない。
上の子たちが、泣いていないと良いのだが。ただそれだけが、今のシグディースの気がかりだった。
空よりも青い瞳が再び開いた折は、まだ太陽は高い所にあった。けれども不届きな一行はサリュヴィスクに――正確には、街を囲む土壁にも近い船着き場に到着していたらしい。あと一日はかかろうという話だったのに、随分と早い到着である。
「……君が眠った後、櫂を必死に漕いで飛ばしたからな」
シグディースの眼差しから意図を察したのだろう。ぼそりと呟いたアスコルは、忘れずにシグディースのおやつが詰まった袋を手からぶら下げていた。
徒歩で城門を目指す男達と違って、妊婦のシグディースには馬車が用意されていた。もっとも、普段は毛皮やら蜜やら塩漬けの魚やらが乗せられているのだろう、粗末な荷車だったが。こうしてシグディースはついに、勇猛なる祖先も降り立った、始まりの地を己が目に映す次第となったのである。
サリュヴィスクは想像以上に活気がある街だった。流石にグリンスクには及ばないものの、並ぶ建物はどれも精緻な装飾で飾られている。見物に集まった人々の身なりもよい。敵陣に乗り込むにあたって、みすぼらしい恰好をしていては舐められるだろうと、とっさの機転を働かせて着飾ってきて正解だった。
ただ一つ予想していなかったことがあるとすれば、シグディースを人質にした者たちに向けられる視線が、冷ややかですらあるという事実だった。
サリュヴィスクの民はきっと、何がしかの目的があって此度の事件を起こしたのだろう。であるから大公妃を上手く捕らえた者たちは、拍手喝采を持って迎えられるに違いない。なんせ彼らは、来るべき交渉の際にサリュヴィスクの有利に話を進めるのも不可能ではない状況を作ったのだから。シグディースは、船上でこのように想像していたのだが。
「あれが大公妃さま……衣裳や装飾品もだけど、なんて綺麗な方なんだろうねえ」
「でも、お可哀そうだよ。あんなにお腹が大きいのに、無理やりここまで連れてこられたなんて……」
「あの大きさだと、もうすぐ臨月だろ? いつ子供が生まれるか分からない、か弱い女を人質にするなんて、外道のすることさね。あいつらはサリュヴィスクの恥だ」
中にはシグディースへの同情を隠さない者たちもいて、どうやらサリュヴィスクも一枚岩ではないようだった。だとしたら、勝機は十分にあるだろう。
民たちの好奇と憐憫の眼差しをたっぷり浴びて到着したのは、一際豪壮な、ただし無人の邸宅だった。
余程富裕な商人か貴族の館であるらしい建物は、内装もまた素晴らしかった。施された彫刻には彩色まで施され、貴重なシャロミーヤの絹の壁掛けがそこかしこに掛けられている。グリンスク大公の屋敷には流石に及ばないものの、もはや記憶の中にしか存在しない、シグディースが生まれた館をも凌ぐ豪壮さだった。
「……やっぱり、逃げたらしいな」
菓子や麺麭などが詰まった袋を持ったアスコルは、仄暗い声でぽつりと漏らしただけで、どんどん奥に進んでゆく。この屋敷に感嘆に価する箇所など一つもないとばかりに。
アスコルの説明によると、この先に屋敷の主の妻の部屋があるらしい。だから、今しばらくはシグディースがその部屋を使えばよいとも、アスコルは呟いていた。久方ぶりにきちんとした寝台で身体を休められるのは嬉しい。しかしアスコルはなぜ、奥まった場所にあるはずの、婦人の部屋の場所を把握しているのだろう。
いくらアスコルでも、家族に無断でロスティヴォロドにたてつき、彼らの命を危険に晒すような真似はすまい。だからアスコルの一連の行動は家族の合意あってのものに違いなく、アスコルの家族が彼をおいてどこかに行くなど、普通ならばあるはずがない。けれども、もしかしたら。
「もしやここは、そなたの父君の館なのかえ?」
――それにしてはそなたを出迎える者もなく、閑散としておるが。
ほんの冗談の、当てこすりのつもりで発した問いは、正解だったらしい。
「……確かにここは、父の家だ」
もっとも俺は、年に一度か二度しか足を運ばなかったけれどな。
常よりも一層低い声で吐き捨てたアスコルの横顔は、濃い翳りを帯びていて。みだりに触れてはならない何がしかの存在を窺わせた。ゆえにシグディースも、夫人の部屋らしい明るい色彩で纏められた一室に辿りつくまでは、口を閉ざして黙々と歩んだのである。
身二つでさえなかったら、アスコルの心の脆い部分に突き刺すための雑言を更に吐いた。だが今のシグディースは懐妊中であり、苛立ったアスコルに肩をちょいと押されただけでも転倒してしまう危険性があるため、諦めたのだ。
「ほんと重かった。一体何をこれほど詰め込んだんだ?」
されど柔らかな寝台の上にとはいえ、割れやすい品を詰め込んだ袋を投げ捨てられては、黙ってはいられない。
「まだそれを言うか。この部屋の主だというそなたの母君は、そなたの振る舞いを耳にすれば涙を流さずにはおれぬだろうなあ」
「泣くのは君の両親の方じゃないか? 娘が自分たちを殺した男の胤で腹を膨らませているんだから」
アスコルに不快感を味わわせたい一心で投げつけた文句は、跳ね返ってシグディースの胸を深く抉った。
「だいたい、俺の母親はもうとっくの昔に死んでいる。父に捨てられるとなって絶望し、首を吊ってな。母が死んだのは、俺が五つになるかならないかぐらいの時だった」
しかしアスコルもまた、言葉の刃による傷を負ったらしい。先ほどよりももっと昏い目をした彼は、けれどもにこやかに微笑んだのだった。少し昔話をさせてくれないか、と。
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