落葉 Ⅶ

 雪辱を晴らす機会は、思いがけず早急にやってきた。

 衝撃のゆえだろうか。屈辱的な奉仕を強いられたその日の晩に、出産前よりも柔らかさを増した太腿に赤い潮が滴ったのである。しかも、何でもするから赦してくれと、ロスティヴォロドに下半身に抱き付かれている最中に。

「赦さぬ。いや、赦せぬわ!」

「そこを何とか。頼む、この通りだ!」

 降り注ぐ怒りの拳もなんのその。寝台に腰かけたシグディースの腿に顔を埋めていた夫は、シグディースよりも早く月役が始まったと嗅ぎつけた。血の臭いがすると促され立ち上がり、恐る恐る裳裾をたくし上げる。すると磨き抜かれた宝玉のごとき肌には、確かに紅が伝っていて。

「これで禁欲生活から解放されるな。いやあ、長かった」

 どうしてこんな時にと狼狽するシグディースとは裏腹に、ロスティヴォロドは満面の笑みを浮かべている。それが癪に障ってならず、どんな体勢でやろうかなどと呟く男の顎に膝をお見舞いせずにはいられなかった。丁度良い位置にあったので。

「……ってえな。イヴォルカ中探しても夫の顔を蹴る妻なんて、多分お前ぐらいだぞ」

「さようかえ。そなたのような阿呆には似合いの妻ではないか」

 組んだ腕に一層豊かになった胸を乗せて膝立ちの夫を見下すと、ロスティヴォロドは何故だか晴れやかに微笑んだ。大公という尊い身でありながら、妻にしたとはいえ国も地位も財産も失ったそこらの羽虫同然のシグディースに、この上ない無礼を加えられたというのに。

「……前々から気になっていたが、そなたの趣味はどうなっておるのだ?」

「あ? 至って普通のつもりだけど」

「普通の男は女に顔を蹴られなどしたら、怒りはすれど喜びはすまい」

「それはまあそうだが、このつんと澄ました綺麗な顔を閨でどう崩してやろうと考えると、男なら笑顔の一つや二つ自然に浮かんでくるもんだ」

 予想外の答えに、我が身をひしと抱きしめずにはいられなかった。この男、普段の言動にあまりに威厳がないので忘れがちだが、秘めたる欲望と頭の回り具合を侮ってはならない。

「そういうことだ、俺のお姫様。解禁になった暁にはしばらく一晩中付き合ってもらうから、覚悟しとけよ?」

 鏡に映して確かめずとも蒼ざめているのは明らかな頬を、髭でざらりとくすぐられた。その次の瞬間には、温かで柔らかな感触を押し当てられて。

「唇にすると歯止めが利かなくなるからな」

 頬の次は星辰の輝きを放つ髪がかかった額に接吻を落とし、男は夫婦の寝室から立ち去る。ややして入れ替わりのごとく現れた家内奴隷は、ある者は布を、ある者は月役の鈍痛を軽減させるとされている薬湯を捧げ持っていた。

 こういう気づかいはありがたいが、ロスティヴォロドはそれ以外の部分が適当すぎる。顔はともかく――ロスティヴォロドは楚々とした美女だったという母親と、武骨な父大公の血を丁度よい配分で混ぜ合わせた、男らしく整った造作をしているので――こういった部分は息子に継がれていないと良いのだが。

 出産後初めての月のものは、以前よりも重かった。きりきりと痛む腹のせいで、全く気分が盛り上がらない。紫丁香花リラの木陰で小夜啼鳥ナイチンゲールが囀る春の盛りだというのに。この不愉快な鈍痛や腿を汚す血といい、子を身籠った際の悪阻や陣痛といい、どうして女ばかりがこんなにも苦しまなくてはならないのだろう。

 唯一なる神の教えでは、生みの苦しみは悪魔に唆されて神を裏切った、「最初の女」に下された罰であるとされている。全ての女は遙かなる祖である彼女の罪ゆえ、今なお苦しまなくてはならないのだそうだ。ならばいったいなぜ、女同様に「最初の女」の裔であるはずの男は、罰から逃れていられるのだろう。

 月役の際は寝所を分けるため、シグディースは七日はロスティヴォロドと共に眠らなかった。だのに目蓋を下ろせば憎まなければならない男の顔が浮かんでくるのは、一体なぜなのか。他ならぬ自分のことだというのに、さっぱり理解できなかった。

 いっそ、シグディースが男として生まれていれば。さすればこのような想いに煩わされずに、ロスティヴォロドに刃を突き立てられたのかもしれない。いや、自分が男であれば四年前の運命の戦に父と共に出陣し、そこで名誉の死を遂げていたのかもしれなかった。

 誇り高き祖イヴォリ人の兵には少数ながら女の戦士が混じっていて、彼女らは能力によっては、同じ年頃の男よりも高位に上っていたという。夫の戦死の報が届くやいなや、兜を被り鎖帷子を纏って敵討ちに向かったというロスティヴォロドの祖母も、その系譜に連なる女だろう。

 女は決して、男に守られているだけの弱い存在ではない。ならば夜半ふと目覚めた折、自分のものよりも僅かに高い体温に包まれていないと胸に広がる侘しさは、一体何に起因するものなのか。誰かに教えてほしかった。


 赤い潮を身体から出し切った日の夜。眠る息子の額に接吻して寝所に向かった女の手には、相も変わらず短剣が握られていた。常のごとく鈍く輝く刃を振るってきた妻を取り押さえ、凶器を奪った男の面には勝者の笑みではなく、疑念が張り付けられている。

「お前、いい加減に少しはその顔を使おうとは思わないのか? 例えば、しおらしく媚びを売って油断させるとか。俺ならそうするが……」

 情熱的に出迎えてくれるのは大歓迎なんだが、との前置きに続いて紡がれた問いかけを、シグディースは鼻で笑って切り捨てた。

「そなた、今更私が愛していると言ったところで信じるのかえ? 私がそなただったら絶対に信じぬぞ」

 私は確かにそなたの子を産みはしたが、だからといって家族の仇であるそなたを愛することは永遠にない。

 そうでなければならないと自分自身に言い聞かせつつ紡いだ言葉に、己を抱きしめる男はどんな反応をするのだろう。自分自身でも気付かないほどの幽かな期待は、呆気なく裏切られた。

「そうだな! お前が言う通りだ」

 薄闇のさなかにあっても眩い笑みを浮かべた男は、裂けんばかりに両の眼を瞠った女の紅唇に己のそれを重ねる。真珠と紛う整った歯列を強引にこじ開けられ、口内を蹂躙される女の身体からは、徐々に力が抜けていった。空気の欠乏ゆえではなく、己の弱さと愚かしさに打ちのめされたために。

 崩れ落ちる寸前で逞しい腕に支えられた肢体が寝台に投げ出される。妻となって初めてロスティヴォロドに抱かれる晩は、閉められた扉の外で従士たちがこちらを窺っている気配は欠片もなかった。これからもずっとそうなのだろうか。

「今日は朝までずっとやろうな」

 産後初めてという事情を差し引いても新鮮な夜。すっかり伸びた髪を掻き分けられ、耳朶を舐られながら囁かれた言葉は甘く優しいが、恐ろしくもあった。

 シグディースはこれまで、ロスティヴォロドと肌を重ねた時間は、せいぜい数刻だだった。大公である彼は、朝までにはシグディースが置かれていた別邸から、本来いるべき場に戻らなければならなかったから。その決して長くはない時間でも、散々シグディースを翻弄してきた男の性欲に、太陽が昇るまで付き合わされるなんて。

 私は明け方まで生きていられるだろうか。そんな風に考えていられるのも、硬く節くれだった指が久方ぶりに雪白の肢体のあちこちに触れるまでだった。

 今、シグディースはロスティヴォロドに後ろから抱きかかえられている。子供を産んで更に大きさを増した、男の大きな手にも収まり切れないふくらみが揉みしだかれる様は、とんでもなく淫猥だった。刺激を加えられるやいなやたちまち尖った薄紅の頂をひねられると飛び出してきた、普段よりも数段高い声も。

 胸でこれだったら、もっと鋭敏な脇腹や下腹部を弄られたら、一体どうなるのだろう。まして、既に潤んだ亀裂に潜む芽を摘まれたら。

「お前はやっぱり声もいいな。もっと聞きたくなる」

 悦楽に蕩けつつある脳裏に過った危惧は、瞬く間に現実になった。くびれの曲線を確かめるかのごとく脇腹をくすぐられると、屋敷中に響きそうな一際高い声が漏れたのだ。

 仇に弄ばれて淫らに解れる自分の身体を、蜜が滴る胎をぐちゅぐちゅと掻きまわされる女は呪わずにいられなかった。だがそんななけなしの余力すらも、太く長い杭で久方ぶりに貫かれるやいなや、真っ白に弾け飛んでしまって。肉の剣の切先で抉られている最奥を、腹の上に置かれた指で突かれた瞬間は、全身に震えが奔った。いや、その時だけでなく、獣の姿勢で咥えこんでいる際も。シグディースが上になって交わった際も。

 己の体重がかかる分深く咥えこまざるをえない体勢は、襲い来る悦びもまた深い。放たれた子種だか溢れた蜜だか定かではない体液が、柔らかさを増した腿を伝って流れ落ちる。だのに中のものは未だ硬さを失っていないのが、恐ろしくてならなかった。

「ロスティヴォロド」

 そんなに出されたらまた孕んでしまう。恐怖に潤んだ瞳でなした哀願の意図は通じたらしい。しかし蜜を蓄えた壺を下から突き上げる男は、慄く肢体を解放してくれなかった。

「孕め」

 その一言と共に放たれた精が、今宵何度目のものだったかは分からない。だが、最後だったのは確かだった。

 ついに崩れ落ちた細い身体を、筋肉で引き締まってしなやかな、豹を思わせる肉体がそっと受け止める。そうして触れるだけのくちづけを交わし、女は目蓋を降ろした。温かな腕の中で。心地良い疲労に全ての感覚を委ねて。

 ロスティヴォロドは余程我慢していたのだろう。子を儲ける。ひいてはそのために抱かれるのは大公妃の義務だと嘯いて、夜毎シグディースと身体を重ねた。彼には敵わないと悟りながらも、一縷の可能性に賭けて組紐文様が施された柄を握っては、不適に微笑む夫に取り上げられる日は、第二子の懐妊が明らかになるまで続いた。

「やったな!」

 最低でも五人は息子が欲しいと常々漏らしていた夫は、これから始まる禁欲生活を憂いながらも弾けんばかりの喜色を浮かべ、シグディースの額に唇を落とす。

「ほら、イジュスヴァル。ここにお前の弟か妹がいるんだぞ」

 身体がしっかりとしてきた息子の小さな手を掴み、まだ平らな腹を触らせる男の喜びに満ちた面は、直視に耐えなかった。いつか自分は、無邪気に歓声を上げる我が子とまだ見ぬ我が子から、父親である男を奪わなければならない。果たすべき掟を嫌でも意識してしまったから。

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